伊能忠敬像 平成15年12月6日

伊能忠敬 いのう・ただたか

延享2年1月11日(1745年2月11日)〜文化15年4月13日(1818年5月17日)

東京都江東区 富岡八幡宮でお会いしました。


上総国山辺郡小関村の網元に生まれました。
幼時に母を亡くし、婿養子の父は実家に戻って再婚しましたが、そこにも落ち着けず、17歳で佐原の伊能家の婿となりました。
伊能家の繁栄に尽くし、50歳で隠居。
江戸深川黒江町に転居し、幕府天文方の高橋至時よしときに師事して天文学を修めました。
寛政12年(1800年)、奥州道中と蝦夷地東南沿岸を測量しました。
期待にこたえる測地成績・地図作成で幕府の評価は高く、以後文化11年(1814年)まで沿岸中心に全国を測量しました。
後半生をかけた実測に基づく日本全図「大日本沿海與地よち全図」の作図中に死去しました。
この地図は孫の忠晦ただのりらによって完成されました。


伊能忠敬像




伊能忠敬の銅像




伊能忠敬の銅像



伊能忠敬の銅像
富岡八幡宮の鳥居の脇に建っています。




(平成15年12月6日)

伊能忠敬銅像(説明板より)

近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと50歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠居を構えていました。
約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。
忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。
当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
伊能測量開始200年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。

平成13年10月
伊能忠敬銅像建立実行委員会


測量・天文暦学との出会い

伊能家は佐原で代々名主を務めた名家でした。
その伊能家に婿として入った忠敬は37歳で村名主となり、3年後には村方後見に選ばれました。
洪水などの災害で堤防などが決壊した後の復旧工事の指揮・監督にあたるのは名主の仕事でした。
この仕事には地図の作成や測量・天文歴学の知識が必要です。
このため、伊能家には先祖が遺した測量術や数学に関する書・記録などが伝わっていました。
このため忠敬は測量や天文暦学に興味を持ったのではないだろかといわれています。

伊能図

忠敬の蝦夷地測量は東部海岸のみで、その後は測量が行われませんでした。
忠敬に「日本に稀なる大剛の者」と高く評価された弟子、間宮林蔵が空白となっていた蝦夷地西海岸を測量し、その資料を基に伊能図が完成しました。
忠敬の実測は文化13年(1816年)に行なった江戸府内の実測が最後で、この年から『大日本沿海輿地全図』(全225葉)の作製に取り掛かりますが、2年後に地図が未完成のまま74歳で他界しました。
この地図の作製は、その後、天文方の高橋景保かげやす、暦局、忠敬の門弟などにより引き継がれ、3年後に完成しました。

(平成17年1月15日記)


富岡八幡宮



富岡八幡宮

(東京都江東区富岡1−20−3)





(平成15年12月6日)

伊能忠敬北海道最初の測量地記念碑


「伊能忠敬北海道最初の測量地」記念碑
(北海道函館市青柳町・函館山山頂)

寛政12年5月28日



(平成22年5月25日)

記念碑 記念碑

函館山





函館山






(平成22年5月25日)

函館山

函館山は、幾たびもの火山活動により海中に隆起した孤島であったが、約3000年位前に海水により港側と外海側から次第に砂が堆積されて砂州さすができ、函館山は渡島おしま半島と陸つづきになった。
函館の中心街はこの砂州の上にある。
函館山の地質は、約2500万年前に噴出した安山岩で、五稜郭や弁天台場などの工事にこの山の石を用いた。
函館山の最高峰は、ここ御殿山で標高334mあり、このほか、薬師山、観音山、千畳敷、鞍掛山くらかけやまなどがあるが、この山の形が牛の臥している姿に似ているので、別名臥牛山がぎゅうざんとも呼ばれている。
山頂からは、扇状にひろがる市街地、遠く駒ケ岳、汐首岬も望まれ、晴れた日は、本州の下北半島も見られるが、特に市街地の夜景は世界一といわれる美しさである。
函館山の右手、西端には、異郷の地で永遠に眠る外国人の墓、外国人墓地があり、左手、東端には薄幸の詩人石川啄木とその一族が眠る立待岬があるほか、山麓には数多くの名所、旧跡が散在している。
展望台壁面には、寛政12年(1800年)5月28日、伊能忠敬が北海道最初に測量したことを記念したレリーフがあり、また、前方の広場には、ブラキストンライン有名なブラキストンの記念碑もあるなど、学術的にも貴重な山である。

函館市

(説明板より)

津軽要塞と函館山の植物

●津軽要塞跡
明治30(1897)年、函館山で要塞工事が始まり、32年11月函館要塞として完成したが、昭和2(1927)年に津軽要塞と改称された。
敷地は保安林も含め、御殿山、薬師山、千畳敷、谷地頭付近の約16万坪が陸軍省の所管となり、昭和21(1946)年5月の開放までは、一般市民の立入りはもちろん、写生、撮影ならびに測量などが一切禁止された。
現在も函館山の各所に地下壕跡などが残されている。
●函館山の植物
函館山は、その山容が標高わずか334m、周囲約8kmの小さい山でありながら、地形が複雑多岐であり、植物の生育環境が多様であることから、植物種は極めて多く、北方系と南方系が混生しており、その数は600種余りと言われ、まさに自然が造りあげた植物園である。
自然林もさることながら、箱館奉行や開拓使によって植林されたスギやマツの群生が見られる。
また、道路沿いや裸地に目立つセイヨウタンポポなどは、明治初期に移入されたものであるが、このような帰化植物は30数種類あると言われている。
これらの豊富な植物は、要塞が築かれてから50年近くも入山禁止となったために自然が守られ、保護された結果であろう。
ここはまた鳥類の楽園としても知られている。
津軽海峡が動物分布上の境界線をなすことを発見した、英国人ブラキストンは、函館山の鳥類を調べてこの境界線(ブラキストンライン)を発表した。
現在、留鳥と渡り鳥を合わせて約150種が見られる。

函館市

(説明板より)


伊能忠敬測地遺功表



伊能忠敬測地遺功表
(東京都港区芝公園・芝東照宮の裏山頂上)





(平成18年2月22日)

碑文

忠敬先生は1745年(延享2年)上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた
先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った
その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである
東京地學協會はその功績を顯彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失われるに至った
仍って今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である

1965年5月
社団法人 東京地學協會
會長 細川護立

近くの史跡
芝丸山古墳


芝丸山古墳

(東京都港区芝公園4丁目・都立芝公園内)

芝東照宮の裏山にあり、更にこの上に「伊能忠敬測地遺功表」があります。



(平成18年2月22日)

東京都指定史跡 芝丸山古墳

所在地 港区芝公園4丁目 都立芝公園内
指定 昭和54年3月31日

全長106メートル前後、後円部こうえんぶ径約64メートル、前方部前端幅約40メートル、くびれ部幅約22メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。
標高約16メートルの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。
江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部ふんちょうぶ後円部西側は削られてしまっている。
明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。
なお、埴輪はにわを伴うことは知られている。
前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵みなみむさし有数の族長の墓だったと考えられる。

平成2年12月27日 再建
東京都教育委員会

(説明板より)


伊能忠敬の墓



伊能忠敬の墓
(東京都台東区東上野・源空寺)





(平成19年12月28日)

伊能忠敬墓(国指定史跡)

台東区東上野6丁目18番 源空寺墓地内

墓石は角石で、正面に「東河とうが伊能先生之墓」と隷書れいしょで刻む。
忠敬は延享2年(1745)神保貞恒の子として上総国かずさのくにに生まれる。
名を三治郎という。
のち下総国しもうさのくに佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。
名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。
漢詩・狂句も良くし、子斎と字し、東河と号した。
50歳の時、家督を譲り江戸に出て、高橋至時たかはしよしときの門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。
寛政12年(1800)幕府に願い出て、蝦夷地(現、北海道)東南海岸の測量に着手。
以来18年間、全国各地を測量して歩いた。
しかし地図未完のうちに文政元年(1818)4月18日没す。
享年74歳。
地図作製は、幕府天文方が引き継ぎ、没後3年の文政4年に完成。
その地図は『大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんず』という。
また『日本輿地全図』『実測輿地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。
わが国最初の実測精密地図である。

平成7年3月
台東区教育委員会

(説明板より)

源空寺墓地



源空寺墓地

(東京都台東区東上野6ー18)





(平成19年12月28日)
源空寺



源空寺

(東京都台東区東上野6ー19ー2)





(平成19年12月28日)

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