(愛知県犬山市犬山北古券65−2)
【犬山城の沿革】
犬山城は天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。
戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。
小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。
江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成があ元和3年(1617年)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。
明治4年(1871年)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。
明治24年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れました。
それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。
その後、伊勢湾台風でも被害を受けましたので、昭和36年から昭和40年(1965年)まで4年間かけて解体修理がおこなわれました。
昭和10年(1935年)国宝に、昭和27年規則改正にともない改めて国宝に指定されました。
国宝の犬山城、彦根城、姫路城、松本城の4城のなかでも、最も古い城であります。
平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は個人から財団法人になりました。
(リーフレットより)
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寺内町 (右側が「西蓮寺」) (平成22年4月6日) |
寺内町
犬山城下町において、ここ寺内町は城郭と町屋などを含む町全体を、外堀で囲む「総構え」といわれる江戸時代のまちづくりにおいて、寺院が防備上の要所として位置づけられていたことや、墓地のある寺院が町に散在することが好まれなかったことなどから、城下町の東はずれにあたる外寺内町の出口付近に寺院を集めて建てられた地域であり、町内名もそこから由来しています。
特に室町後期から江戸初期に創建された、浄土真宗の本龍寺(ほんりゅうじ)、西蓮寺(さいれんじ)、圓明寺(えんみょうじ)、浄誓寺(じょうせいじ)の4ヶ寺が集中していますが、一宮や笠松・岐南地域が鎌倉時代であることから比べ、犬山への布教が比較的遅かったことを伺わせます。
また、北隣には日蓮宗の妙海寺(みょうかいじ)と本光寺(ほんこうじ)も近隣に位置しており、この一体が歴史的な町並み景観において重要な役割を担っています。
(説明板より)
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札の辻 (平成22年4月6日) |
札の辻
この場所が、「札の辻」と呼ばれ御高札(制札)が立っていた場所であり、ここを初め、采地の要路にあった。
切支丹の禁制を始め、治安、道徳、倹約、金銭、商売、労銀等に付て、絶えず掲示されたが、尾張藩の奉行の名に依って指令されたものを、成瀬、竹腰の連名又は成瀬が副署したものである。
犬山の町が、成瀬氏の城下町として栄えたころ、この辻は城の内外を区切る大手門(現在の福祉会館の付近)に近く、人々の往来も盛んで、交通の要所であったことを物語る遺跡である。
時代劇などで、高札の前で百姓や町人が群がって、これに見入るシーンはよく出てくるが、高札は、昔のいわゆる公儀御法度、今日でいう法令を徹底させるために、村や町の目抜きの場所に立てられたもので、その多くは無年貢地で、名主宅前とか街道宿場とかの往来筋に立てられた。
高札に掲示された内容ともいうべき「定」には、忠孝、切支丹、薬物、火つけ、徒党、駄賃(運賃)などをはじめ、その時々の種々の規定を書いたもので、年代によって幾分変化もみられるが、この方法は明治維新まで、上意下達の手段として重要なものであった。
(説明板より)
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大手御門跡 (「犬山市福祉会館」付近) (平成22年4月6日) |
大手御門(追手南門)
高麗門の形状をして、三の丸大手桝形の西面入口にあり、城下町からの第一の門である。
西に面した大手門を入ると、門前の桝形と殆ど同坪数の四角の桝形があり、四囲石垣を繞らし、石垣の上には厚さニ尺余の土塀があり、土塀に狭間があけてある。
大手門は鉄張りの大扉門であった。
門を入って正面に御番所があった。
同心数人が詰め切って弓矢、鉄砲、鉄棒等を備え頗る厳格で、夜10時に門を鎖た。
(説明板より)
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犬山城城郭 |
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史跡 敬道館跡 (平成22年4月6日) |
犬山藩校 敬道館跡
犬山藩校敬道館は、天保11年(1840)八代藩主成瀬正住が建てたもので、この流れをひくものが犬山北小学校です。
挙母(豊田市)藩主の内藤学文が建てた藩校の流れをひく、崇化館中学と好一対です。
尾張侯の附家老をしていた成瀬氏は、敬道館と同時に、名古屋屋敷に学問所をたて要道館と名づけましたが、明治元年に敬道館に合併しました。
敬道館は翌年の天保12年4月に開館され、明治4年まで続きました。
職制は尾張藩校の明倫堂(今の明和高等学校の前身)を模範としてつくられました。
文久以降は、総裁、幹事、教授、助教、監生、授読、筆生、給事という職員をおき、生徒の定員は4、50人でした。
総裁は家老の兼務で、最初は水野弥之衛門でした。
幹事は今の事務長のような人です。
教授の定員は1名で俸禄は十石、初代は戸田新吾、次に鈴木玄道、維新後に村瀬太乙が就任しました。
8才で入館し、15才で退館するのがきまりでしたが、退館後も希望者は受講することが許されていました。
座席は長幼の順になっており、学科は読書、習字、作法(武家礼法、伊勢流、古実)の3科目でしたが、甲冑着用なども教えていました。
5つ(午前8時)から、8つ(午後3時)まで授業をしました。
毎月1日、15日、25日は休日とされていました。
日本最初の薬学博士下山順一郎先生も、軍人ではあったが、学問のよくできた八代六郎大将も、この敬道館に学んだ人です。
(説明板より)
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犬山城三之丸 武術稽古場跡 (平成22年4月6日) |
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針綱神社 (犬山市犬山北古券65−1) (平成22年4月6日) |
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針綱神社・本殿 (平成22年4月6日) |
針綱はりつな神社
鎮座地 犬山市大字犬山字北古券65−1
御祭神
尾治針名根連命
伊邪那岐命・菊理姫命・大巳貴命・玉姫命・建筒草命・建稲種命・建多乎利命・大荒田命・尾綱根命
社格 旧県社
御由来
当神社は延喜式神明帳所載の式内社で本国貞治本には従一位針綱明神又同元亀本には正一位針綱明神とあり、太古よりこの犬山の峯に鎮座せられ東海鎮護、水産拓殖、五穀豊穣、厄除、安産延命長寿の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守でありました。
中古織田信康公市内木の下城を社地に移築せんと御奈良天皇の宣旨を蒙り、天文6年8月28日市内白山平に遷座し奉った。
その後69年を経た慶長11年4月8日更に市内名栗町に遷座し奉り、城主成瀬氏代々の祈願所でありました。
明治維新後明治15年9月28日名栗町の座地より天文6年迄座地であった現在地に御遷座になり、戦前は県社とし戦後は宗教法人針綱神社(尾張五社の一つ)として近隣の崇敬を集めています。
(〜以下、略〜)
(説明板より)
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常夜燈 (針綱神社) (平成22年4月6日) |
鈴木朖あきら撰文になる銘文のある常夜燈
文政12己丑つちのとうし歳(1829)、尾張藩士で本居宣長門下の俊英、尾張藩校明倫堂教授、鈴木朖が、犬山の大商人犬養藤九郎の依頼を受けて書いた銘文のある常夜燈です。
貴家の、子孫ご繁栄のためにも、ぜひお確かめいただいて、ご拝礼ください。
(説明板より)
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鈴木玄道顕彰碑 (岩坂門跡) (平成22年4月6日) |
鈴木玄道顕彰碑
鈴木家12代玄道は、成瀬家御典医。
藩校敬道館で儒学の教授も兼任した。
一般の町民からも腕をかわれ、慕われていたようで、没後この碑が建立された。
「記念碑」の題字は9代成瀬正肥公が揮毫した。
(説明板より)
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岩坂門跡 (平成22年4月6日) |
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『内外一誠』の碑 (本丸門) (平成22年4月6日) |
内外一誠(石碑)
犬山藩士八木雕あきらは、幕末の動乱期に第9代成瀬正肥まさみつのもと、国事にかかわり、尾張藩主徳川慶勝の救出、長州戦争の無血和睦、官軍の参謀を務めたり、また明治政府でも大いに働いた。
その功績を顕彰したもの。
(説明板より)
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本丸門 (平成22年4月6日) |
本丸門
登城道最後の本丸門入口の門で、外側が鉄で防禦されていたので鉄門と言われていた。
注 現在の本丸門は旧門とは関係ない。
(説明板より)
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小銃櫓跡 (平成22年4月6日) |
小銃櫓
本丸の南端にあたり、守備上重要な櫓であった。
注 現在の櫓・永勝庵は旧櫓とは関係ない。
(説明板より)
【天守閣構造の大要】
総延面積:698.775u(地階1、2階出入り口を含む)
構造形式:望楼式
外観:三重(内部4階、石垣の中2階付)
天守の石垣
自然石をそのまま積み上げた石垣で、「野面積(のづらづみ)」と呼ばれる。
勾配はゆるやかで、あまり高くない。
石垣の高さ5m、天守の高さ19m
(リーフレットから抜粋)
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鬼瓦 (平成22年4月6日) |
鬼瓦
この鬼瓦は、天文6年(西暦1537年)犬山城築城当時に使用した瓦で、慶長年間城を修復した時に取替た鬼瓦であります。
(説明板より)
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上段の間 (平成22年4月6日) |
上段の間
ここは殿様が使用した部屋で上段の間といいます。
床が一段と高くはられ、この部屋だけが猿頬天井(サルホホテンジョウ)が張ってあり、この城の最上の室となっています。
この奥に武者隠しの間があり、殿様を守る武士が待機しておりました。
(説明板より)
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納戸の間 (平成22年4月6日) |
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付櫓 (平成22年4月6日) |
付櫓つけやぐら
この位置は東南のすみの突出部にあたり、攻撃、守備用として造られたといいます。
突出部は下段に三ヵ所の連子窓がありそれぞれ遠くまで見渡すことができます。
広さ 15.22平方メートル(8畳余)
(説明板より)
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『国宝 犬山城(別名 白帝城)』の模型 (平成22年4月6日) |
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武具の間 (平成22年4月6日) |
武具の間
ここは武士の武器武具庫に使用されていた部屋で三方に武具棚が設けてあります。
これを取り巻く2間巾の板の間を武者走りといいます。
広さ 246.006平方メートル(144畳)
(説明板より)
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唐破風の間 (平成22年4月6日) |
唐破風からはふの間
ここは南北に唐破風の間を配置し東西を千鳥破風となっている。
当初天守築城当時はなく元和4年(1618年)から貞享2年(1687年)にかけて、70余年の間に成瀬城主が装飾として増築したものと伝えられております。
広さ 81.936平方メートル
(説明板より)
城主 | 在城期間 | 備考 |
織田与次郎信康 | 享禄元(1528) 天文16(1547) |
天文6年(1337) 現存城郭位置定まる |
織田十郎左衛門信清 | 天文16(1547) 永禄7(1564) |
同族織田信長に攻略され城を捨てる |
池田勝三郎信輝 | 元亀元(1570) 天正9(1581) |
信長、信輝を封ずる |
織田源三郎信房 | 天正9(1581) 天正10(1582) |
信長の末子、信輝の女婿 6月、本能寺の変に父信長と共に討死 |
中川勘右衛門定成 | 天正10(1582) 天正12(1584) |
信長の子信雄、父の封をつぎ 犬山城は中川勘右衛門に与える |
池田紀伊守信輝入道勝入 | 天正12(1584) | 4月、小牧・長久手の合戦 秀吉、大阪を発ち犬山城に入る |
城代 加藤作内亟泰景 |
天正12(1584) | 信輝、長久手の戦で戦死 秀吉、加藤泰景を城代とす 秀吉、大阪に引き揚げる |
城代 武田五郎三郎清利 |
天正12(1584) 天正15(1587) |
秀吉は織田信雄に城を返還 信雄は武田清利を城代とす |
城代 土方勘右衛門雄良 |
天正15(1587) 天正18(1590) |
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城代 長尾武蔵守吉房 |
天正18(1590) 文禄元(1592) |
信雄、秀吉に配流され 豊臣秀次遺領をつぐ 城代は秀次の実父 |
城代 三輪出羽守五郎右衛門 |
文禄元(1592) 文禄4(1595) |
秀次の家臣 秀次自刃 |
石川備前守光吉 (1万2千石) |
文禄4(1595) 慶長6(1601) |
慶長3年秀吉薨去じ 5年関ヶ原の役起こる |
小笠原和泉守吉次 (2万7千石) |
慶長6(1601) 慶長12(1607) |
慶長6年、家康四男忠吉を 尾張に封じ傳役となる 慶長12年、家康九男義直を尾張に封ず |
平岩主計頭親吉 (9万3千石) |
慶長12(1607) 慶長17(1612) |
尾張義直の傳役 犬山市専念寺に墓所あり 嗣子なく以後6年間城主不在 |
(展示パネルより)
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南 | 東 |
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北 | 西 |
【歴代成瀬家犬山城主一覧】
初代 成瀬正成まさなり
成瀬氏は、二条関白藤原良基の子孫で、正成は、吉右衛門正一の長男として、永禄10年(1567)三河(現・岡崎市)に生まれる。
幼名を小吉と称し、幼少より徳川家康に仕えた。
天正12年(1584)の長久手の合戦に初陣(17才)し、敵将の首を獲るなど戦功を立て、その功賞として家康から備前兼光の脇指を賜ったと伝えられる。
その後、慶長15年(1600)の上杉攻めに根来(紀州)衆を率て加わるなど家康に軍忠を励み、慶長12年(1607)には、従五位下に叙し、隼人正に任ぜられた。
慶長15年(1610)には、尾張初代藩主徳川義直の傳役を命ぜられ、同17年に竹腰正信とともに尾張藩を執った。
また、駿府老中としても以前の如く勤めた。
元和3年(1617)藩主義直の尾州入りに従い、2代将軍徳川秀忠から犬山城を拝領するとともに旧平岩氏附属の同心を家人とさせた。
元和6年(1619)に直義から尾州国内に封じられ、尾張藩筆頭家老となった。
寛永2年(1625)歿し、遺骨は日光山家康廟所の傍に葬る。
義直は、その死を悼み、菩提寺として名古屋(現・名古屋市中区)に東海山白林寺を建立した。(今日、正成の墓は犬山市臨渓院にも建てられている。)
第2代 成瀬正虎まさとら
文禄3年(1594)正成の長子として駿府(現・静岡市)に生まれる。
初名を正房、幼名は小平治、後に半左衛門と改める。
大坂冬の陣には徳川秀忠に供奉して本営に在ったが、家康に義直に属すべき旨が命ぜられる。
翌年の夏の陣には先鋒として軍功をあげた。
寛永元年(1624)には義直の命で流遇先(武州)より名古屋に帰り、翌年には、家督を相続し、尾張藩を執る。
同3年には、従五位下を叙し隼人正に任ぜられた。
その後、2代尾張藩主光友より万治2年(1659)退隠を許され、後に一岳と称した。
寛文3年(1663)尾張にて歿する。
正虎は、今日の針綱神社祭礼(犬山祭)の墓をつくった。
第3代 成瀬正親まさちか
寛永16年(1639)正虎の長男として名古屋に生まれる。
幼名は熊之助、後に小吉と改める。
明暦元年(1655)に尾張藩主徳川光友から5千石を賜り政務にたずさわった。
万治2年(1659)家督を継ぎ犬山城主となり、従五位下信濃守を叙任され、寛文元年(1661)に、隼人正に任ぜられる。
元禄16年(1703)名古屋において歿する。
正親は、犬山城本丸にあった御殿を松の丸へ移し、松の丸にあった御殿を三の丸へ移した。
常に馬術を好んだと伝えられる。
第4代 成瀬正幸まさゆき
延宝8年(1680)正親の長男として江戸に生まれる。
幼名を正輝、童名を熊之助、次に小吉、後に右近、因幡守と改める。
元禄9年(1694)采地3千石を賜り14歳で政務にたずさわった。
元禄16年(1703)、家督を相続し、犬山城主となり、従五位下を叙し隼人正に任ぜられる。
享保17年(1732)には隠居し、少進と改める。
寛保3年(1743)名古屋にて歿する。
正幸は、本丸から北の木曽川岸へ下りる七曲道を改修したとされる。
第5代 成瀬正泰まさもと(正太)
宝永6年(1709)正幸の長男として名古屋に生まれる。
小字は万之助、次に小吉、後に半左衛門、享保11年(1726)采地2千石・合力金2百両・同心9騎を預けられ、政務にたずさわった。
享保17年(1732)家督を継ぎ、犬山城主となり従五位下を叙し隼人正に任ぜられる。
明和5年(1768)には隠居し、内蔵頭と改める。
天明5年(1785)名古屋にて歿する。
正泰は、文武に厚く、書画に長けた。
特に鷹は最も得意とするところであった。
号を大雅、または鳳州という。
第6代 成瀬正典まさのり
寛保2年(1742)正泰(正太)の二男として名古屋に生まれる。
小字を万之助、後に小吉と改める。
宝暦8年(1758)従五位下を叙し民部少輔に任ぜられ、同12年主殿頭となる。
新知行3千石を賜り政務にたずさわった。
明和5年(1768)家督を継ぎ、隼人正と改めた。
文化6年(1809)隠居して左衛門佐、または浄翁と称す。
文政3年(1820)江戸にて歿する。
正典は、幼少より父と同じく馬術を習い自ら仕込んだ駿馬を尾張藩主世子に献上するなどした。
また、絵画にも長け、雅号を文雅・蘭洲・懐玉斎などと称した。
丹青の技を好み、鷹を描くこと殊に妙であったといわれる。
第7代 成瀬正寿まさなが
天明2年(1782)正典の四男として江戸に生まれる。
始め千之助、次に千三郎と称した。
寛政11年(1799)には扶持方86人分を賜り、政務にたずさわり、従五位下を叙し主殿頭に任ぜられた。
その翌年、雑用2千俵を下賜される。
文化6年(1809)家督を継ぎ、隼人正に任ぜられる。
天保8年(1837)には尾張藩主斉温(11代将軍徳川家斉十九男)幼年のころより養育に格別心を用いたとして将軍家斉から金銀高蒔絵の鞍鐙を賜った。
天保9年(1838)江戸にて歿する。
正寿は、栗州と号して書に秀でた。
また、文政年間、オランダ商館長(ブロンホフ)より「ヨハンネス・ウイルヘルミユス」という蘭名を受けている。
第8代 成瀬正住まさずみ
文化9年(1812)正寿の長男として名古屋に生まれる。
小字は為三郎、次に万之助、後に小吉と改めた。
文政11年(1828)に政務にたずさわり、従五位下を叙し主殿頭に任ぜられる。
天保元年(1830)、雑用2千俵を下賜される。
天保9年(1838)家督を継承し、犬山城主となり、隼人正に任ぜられる。
安政4年(1857)に名古屋にて歿する。
正住は、犬山に敬道館、名古屋に学問所を設けて、高田務や村瀬太乙を登用した。
また、庭内に窯を築いて犬山焼の発展にも寄与した。
曽水と号し、狩野派の画風を好み、花鳥画を能くした。
第9代 成瀬正肥まさみつ
丹波篠山(現・兵庫県)青山下野守忠良の三男として、天保6年(1835)江戸に生まれる。
安政2年(1855)正住の養子となった。
翌年には従五位下を叙し、主殿頭に任ぜられる。
同4年には犬山3万5千石を継ぎ、隼人正に任ぜられる。
幕末維新期には尾張藩主徳川慶勝に従い朝幕の間を周旋する。
慶応2年(1866)長州再征に当たり、藩主の陣代として大阪に出陣。
明治元年(1868)には新政府軍として自らの家臣を率いて信濃・甲斐(現・長野県:山梨県)の各地で戦って功をあげている。
明治元年、大名に列せられ総高4万2704石余を食む。
明治2年(1869)版籍奉還に際しては犬山藩知事に任ぜられ、犬山「藩」が公的に成立した。
しかし、2年後の明治4年、廃藩置県により、9代に及ぶ成瀬氏の犬山城主に終止符が打たれた。
その後、正肥は、男爵、次いで子爵に列せられ、正三位勲三等に叙せられ、明治36年(1903)東京にて歿する。
参考文献『復刻版名古屋市史 人物編第一』
『犬山市史 別巻 文化財・民俗』
(「犬山白帝文庫歴史文化館」配布資料より)
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高節凌雲霄の碑 (平成22年4月6日) |
高節凌雲霄こうせつりょううんしょう(石碑)
第9代犬山城主成瀬正肥まさみつ公は、幕末から明治にかけて、国政の難しい時期に尾張藩主 徳川慶勝を助け、勤王の立場で、諸問題を解決した。
その功績を顕彰するもの。
(説明板より)
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七曲門(別名見晴門)
この位置に七曲門があり、現在門礎が多く残って旧状をよくとどめております。
(説明板より)
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黒門
この位置に黒門と言う門があり、現在門礎が一つ残っております。
(説明板より)
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松の丸門跡(写真左側)と矢来門跡(写真右側) (平成22年4月6日) |
矢来門
この位置に矢来門という門があり、現在門礎の一部が残っております。
松の丸門
登城道から矢来門を通過し、天守閣又は、松の丸御殿に通じる松の丸門がこの位置にありました。
(説明板より)
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中御門
天守閣に向う登城道の始めの門を中御門と言い、近くに番所もあったところです。
(説明板より)
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薩摩義士の碑 (犬山城・登城口) (平成22年4月6日) |
碑文
尾濃ノニ州田野廣衍ニシテ地味豊沃ナルハ木曽長良揖斐ノ三大川ノ貫流スルヲ以テナリ然レトモ一利アル處ニハ一害アリ時ニ霖雨増水往〃汎濫シテ田畝人家ヲ潰流セシメ流域ノ人民之ニ苦シムコト亦久シ寶暦年中幕府薩摩藩ニ命シテ之ヲ修治セシムルヤ時ノ藩主島津重年公ハ其ノ家老平田靱負大目付伊集院十藏等以下藩士凡ソ六百人ヲ遣シテ寶暦四年二月起工シ翌年五月漸ヤク竣成ス抑〃此ノ工事ハ日本治水史上ニモ特筆大書サルヘキ難工事ニシテ犬山城下ヲ起點トシテ涎〃十有余里伊勢灣ニ至リテ盡ク而シテ藩弊費ヤスコト實ニ三十萬両豫算ヲ超ユルコト尠カラス為メニ平田靱負以下藩士其ノ責ヲ負イテ自刃スルモノ數十名以テ此ノ工事ノ如何ニ艱難ナリシカハ想見スルニ難カラス爾来今日ニ至ル?全ク水害ヲ免レ平安ヲ得タルハ一ニ之等幾多義士ノ犠牲ノ賜ナリ故大藪嘉一偶〃コノ史實ヲ知ルヤ深ク義士ノ心事ニ感激シコ〃カ頌徳ノ碑ヲ犬山ノ地ニ建テンコトヲ■■遺言シテ逝ケリ我等兄弟其ノ遺志ニ従ヒ以テ一ハ薩南義士ノ徳ヲ彰ハシ一ハ以テ故人ノ冥福ヲ祈ルモノナリ
維時大正十三年三月二十九日 建碑發願人 故大藪嘉一兄弟一同
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犬山神社 (愛知県犬山市犬山北古券12) (平成22年4月6日) |
犬山神社の沿革
所在地 犬山市大字犬山字北古券12番地
一.祭神
犬山城主成瀬正成公を始め歴代の城主並に明治維新以降の戦没者。
一.創建
犬山城内にあった祖先の霊社を享保2年(1717)第4代城主正幸公が丸山新田東の洞相生山に遷し相生の宮と称した。
社は霊験あらたかな代々の祈願所であった。
一.変遷
この地は犬山城主平岩主計頭親吉公の松の丸の屋敷を寛文5年(1665)に移した西御殿があった。
明治2年(1869)犬山藩主庁となったが同8年(1875)これを廃し土地を払い下げ民有地とした。
明治16年(1883)6月6日相生の宮をこの地に遷して犬山神社と改称し村社とした。
享保5年(1720)新田の内高百五拾石を寄進された。
昭和23年(1948)11月29日承認を受け明治維新以後の戦没者三百七拾一柱を合祀した。
(説明板より)
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忠魂碑 (犬山神社) 一戸兵衛 書 昭和2年3月建之 (平成22年4月6日) |
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明治2年頃の犬山城(天守閣展示古写真) |
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明治2年頃の犬山城(天守閣展示古写真) |
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