石井虎治郎 いしい・とらじろう

安政3年(1856年)~大正5年(1916年)10月27日







 石井君紀功碑
 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園)





(平成26年11月23日)

石井君紀功碑

明治34年(1901)建立。
石井虎治郎は千葉県の生まれ内務省の技手。
明治18年8月最上川と酒田港の改修工事が開始されると同時に来酒して工事の監督にあたった。
工事は粗木打杭をもって水勢を導き泥砂をさらい、河口の交通をよくするもので同25年に完成。
その後洪水の被害がなくなったといわれる。
大正5年61歳酒田で没す。
撰文は依田百川、書は巌谷一六である。

(説明板より)

石井虎治郎

虎治郎は安政3年(1856)7月、千葉県松戸に生まれた。
松戸は江戸川氾濫による水害地で幼児からその苦労をあじわった。
青年時代、政府の江戸川治水工事に従事し河川改良のため政府が招いたオランダ人ファン・ドールンから河川改修の知識や技術を学んだ。
その後、内務省に入り宮城県の石巻湾野蒜港建設にたずさわる。
明治12年7月、最上川は大洪水となり、その被害は甚しく、山形県では政府に最上川治水工事を陳情した。
17年、政府はこの実施をきめ、翌18年8月、内務省御用掛(のち技手)虎治郎を派遣した。
彼は生誕地・古ヶ崎地方で行われていた、突堤をきずきあるいは粗朶(伐り取った樹の皮)を用いて防水し、水勢を押さえ、もしくは誘水転流させる方法に、ファン・ドールンから教わった西洋工法、それに自分の独創を加えて最上川の低水高水工事に力を注いだ。
工事の目的は最上川から洪水をなくすることと酒田港に大型汽船の出入を可能とすることであった。
彼はこまかな計画を立て、先頭に立って事業を指導監督した。
彼は照っても降っても吹雪でも毎日、最上川の水を測り、あるときなど濁流に落ちて大さわぎになった。
16年後の明治34年、さすがの難工事も一応完工し最上川はおだやかとなり、近代港湾としての酒田港の基礎が固まった。
明治38年には山形県工手として最上川及び赤川の治水工事を指導したが、彼の手になると推定される最上川赤川実測平面図(建設省酒田工事事務所蔵)は、現在の技術から見ても立派なものだという。
虎治郎は最上川・赤川治水並びに酒田築港の一大功労者であり、これに感じた市民はここに紀功碑をたてるとともに龍厳寺の墓に墓碑銘をきざみ、その功績にむくいた。
また本間家は彼に家屋敷を与えて酒田に永住させた。
大正5年10月27日、61歳で没する。

田村寛三 撰文

(説明板より)








 日和山六角灯台
 (山形県酒田市・日和山公園)





(平成26年11月23日)

日和山六角灯台

明治28年(1895)対岸の宮野浦最上川河口に置かれたがその後北岸の大浜に移され、さらに近代灯台の完成によって移築保存された。
明治の木造建築では日本最古の灯台の一つである。
(山形県指定文化財)

(説明板より)

山形県指定文化財 (旧)酒田の灯台

この灯台は、木造六角洋式灯台で明治28年(1895)10月20日に最上川左岸河口に竣工した。
棟梁は佐藤泰太郎といわれている。
その後対岸に移され、昭和33年(1958)高砂に近代灯台が完成するとともに、町内会連合会の熱意によりこの地へ移築保存された。
この灯台の光源は、当初石油ランプであったが、大正8年(1919)アセチレンガス明暗紅光に改良され、さらに大正14年(1925)電化された。

■高さ12.83m  ■周囲18.45m

昭和63年8月23日指定 酒田市教育委員会

(説明板より)



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