石巻城

宮城県石巻市日和山


石巻城趾の碑



史蹟 石巻城趾の碑






(平成15年8月3日)

石巻城跡

文治5年(1189)の奥州合戦の恩賞として、源頼朝の家人けにん葛西清重は、牡鹿郡ほか数か所の所領を給付されました。
以後、天正18年(1590)に豊臣秀吉によって滅されるまで約400年の間、牡鹿郡は葛西氏の重要な所領であり、なかでも石巻の日和山は、その居城があったところという伝承が残っています。
しかし葛西氏の奥州における所領支配の実態は明らかでなく、その居城についてもはっきりしたことはわかりませんでしたが、昭和58年(1983)の発掘調査によって、ここ日和山に大規模な中世城館があったことが確認されました。
この城跡が、葛西氏にかかわる有力な城館であることは間違いなく、石巻市のシンボル的な城跡、「(石巻城跡)」として長く保存することとなりました。
この「石巻城跡」地内で土木工事や住宅建設等を行いたいときは、60日以前に石巻教育委員会へ相談してください。

平成2年3月 石巻市教育委員会

(説明板より)

日和山




日和山





(平成15年8月3日)

日和山

日和山は標高60・4メートル。
山上に延喜式内社えんぎしきないしゃである鹿島御児かしまみこ神社が鎮座し、中世には葛西かさい氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つかりました。
眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米かいまい制度によって集められた米の積出し港として、千石船せんごくぶねの出入でにぎわいました。
日和山は出港に都合のよい風向きや潮の流れなど、「日和」を見る場所であることから、その名が付いたと考えられています。
元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曽良そらが石巻を訪れた時の「曽良旅日記」には「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海 今ワタノハト云 遠嶋尾駮としまおぶちノ牧山 眼前也 真野萱原かやはらも少見ゆル」と日和山からの眺望が記されています。
また、「奥の細道」には「・・・石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉たてまつりたる金花山きんかさん海上に見渡シ 数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈かまどのけふり立つゝけたり」と表現されています。
「こかね花咲」とは、「万葉集巻第18にある大伴家持おおとものやかもちの「天皇すめろきの御代栄えむと東あづまなる 陸奥山みちのくやまに金花くがね咲く」の歌をふまえています。
天平てんぴょう産金地は、涌谷わくや町の式内社黄金山こがねやま神社の御神体として崇あがめられた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。
鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を登った右側に、延享えんきょう5年(1748年)に雲裡房うんりぼうの門人である棠雨どううを中心として建立された「雲折ゝ人を休める月見かな」という芭蕉の句碑があります。
また、日和山には石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈超空しゃくちょうくう(折口信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立されています。

(説明板より)


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