磯永吉 いそ・えいきち

明治19年(1886年)11月23日~昭和47年(1972年)1月21日





研究棟(通称:磯小屋)

(台湾・台北市・台湾大学構内)



(平成25年3月4日)






磯永吉博士
(現地語説明板より)





(平成25年3月4日)
磯小屋

【磯小屋】

台湾大学の建築物の中では最も古いもので、大正14年(1925年)に建てられた。
現在の台湾大学の前身である台湾帝国大学が創立したのは昭和3年(1928年)であるから、それ以前に建てられたことになる。
実は、この建物は大正11年(1922年)に創立された台北高等農林学校の校舎として使われており、台北帝大の創立と同時に編入されたため、現在でも台湾大学の一部として使われているのだという。
この建物を調査した研究者は、米軍によって撮影された航空写真と、台湾大学に残されていた校舎の平面図を一枚一枚すり合わせて建築年代を特定したという。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)

臺大農場

磯永吉略年譜
1886(明治19)年 11月23日、広島県下で生まれる。
1911(明治44)年 東北帝国大学農学科大学(現:北海道大学農学部)卒業
1912(明治45)年 3月、新妻・“たつ”と台湾へ
台湾総督府農事試験場に技手として奉職
1913(大正 2)年 大屯山で実験田に最適な場所を発見
1914(大正 3)年 2月、技術員制作作品展覧会に審査委員として参加
末永仁と会う
1915(大正 4)年 2月、台中農事試験場に転任と共に、技手から技師へ昇任
1919(大正 8)年 5月、欧米各国へ1年半の留学を命じられる
1921(大正10)年 8月、中央研究所農業部技師、種芸科長となる
1925(大正14)年 12月25日、鳳山丸に乗船し、南洋視察へ出発
1928(昭和 3)年 8月、北海道帝国大学から農学博士の学位を授与される
1930(昭和 5)年 台北帝国大学教授に就任
1945(昭和20)年 戦後は中華民国農林庁顧問になる
1957(昭和32)年 定年退職
帰国(71歳)
1961(昭和36)年 7月、日本学士院賞を受賞
1971(昭和47)年 1月21日、他界(86歳)

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)

【当時の日本の状況】

日本が台湾を領有した1890年代、日本国内では米不足の懸念が表面化しつつあった。
急速に進む人口増加、特に工業化の進展による都市人口の増大で米の消費量が爆破的に伸びた一方、相次ぐ凶作と米価暴騰により米の供給量が追いつかなくなっていたのである。
政府は、不足する米の供給基地としてインドや仏印(インドシナ半島)から米を輸入し急場を凌いでいたが、1900年代に入り日露戦争による農村の労働力不足によって米の供給量が減少すると、食糧危機の到来は決定的となった。
加えて、輸入に依存する状況は、輸入元であるアジア地域の情勢不安や自然災害に大きく左右されることとなり、安定的な米の確保が急務とされた。
そこで、新たな米の供給基地として白羽の矢が立ったのが、日本の統治下に組み込まれて間もない台湾だった。

【台湾米の問題】

台湾は、日本統治下に入る以前の1880年代頃から、生産した米を対岸の清朝福建省へと移出していた。
そこで、輸出していた台湾米を日本内地へ供給すれば、国内の米不足を解決できそうだが、そう簡単に事は運ばない。
在来米と呼ばれた当時の台湾産の米は品質粗悪、収穫量不安定に加え、赤米や烏米(栄養状態や環境条件が悪く、生育不良で変色した米)が多く混じっていた。
さらに、在来米の大半は明朝から清朝の時期にかけて台湾に持ち込まれたインディカ種だった。
インディカ米は細長くてパサパサしており、独特の風味があり、クセが強く、それだけで食すには適さない。
これでは内地への安定した食料供給どころか、そもそも商売が成り立たない。
日本の台湾領有前後、在来米が少量ながら日本へも輸出されていたのだが、価格は、三等級の内地米の半値にしか満たなかった。

【米の改良】

明治29年(1896年)、台湾領有の翌年には早くも総督府殖産部によって内地米と呼ばれた日本品種が台湾に持ち込まれ試作が行われている。
実験田があったのは台北市文武町で、総督府の斜め向かい、現在の台北第一女子高級中学(高校)がある場所。
明治32年(1899年)には台北農事試験場が創設され、1200を超える日本品種の栽培実験が始まっている。
明治34年(1901年)11月5日、第4代台湾総督・児玉源太郎は官邸に総督府高官、各県知事、各庁長、名士らを招き、殖産興業に関する大方針を訓示した。
これにより、農事試験場の設置拡充や耕地拡張、水利整備、品種改良、品質検査、農家に対する金融の利便取り計らいなどが講じられ、米増産に必要なソフト、ハードの両面が整えられていった。

本格的な在来米の改良が着手されたのは、明治39年(1906年)であった。
それまでの時期、米の増産は進んでも、品種改良には大きな進展は見られなかった。
品種改良は台湾南部の阿緱あこう庁(現在の屏東へいとう県屏東市)農会で始まったことを嚆矢とする。
この改良事業には地元の「農会」、つまり日本でいう「農協」が主体となって行われた。
ただ、当時の総督府内部では、品種改良の対象を内地種米(日本種米)にするのか、在来米にするのかで、意見が真っ二つに分かれて対立していた。
三井物産台北支店長だった藤原銀次郎の「台湾米は雑駁で非常に品質が悪く、年に二度収穫できたとしてもその量は内地の一度にも及ばぬ。これは品種が悪いのと耕作法の不十分に基因するから、まず内地米の優良種を用いその耕作法を改良すれば立派な米が出来るに相違ない」という意見は、時の民政長官・祝辰巳いわいたつみの耳にも入り、大いに同感を得、祝民政長官はその後「内地種米改良」派に傾倒する。
反対に「改良米は在来米を以てすべし」の確固たる意見を持っていたのが、島根県農林学校長から総督府の技師に転身した長崎常つねである。
結果的に、阿緱庁における品種改良の好成績は台湾南部の米生産を活気づかせ、翌年には鳳山庁でも同様の成功を収めたため、在来米改良の気運は益々向上し、総督府内部の内地種米派と在来米派の対立に拍車をかけた。
すこぶる良好な在来米改良の結果に加え、内地米の試作結果が思わしくなかったことが「現時点での内地米の導入は極めて困難」という否定的な流れを後押しした。
総督府の方針も、最終的には公式に「在来米の改良」に統一され、当局も民間も在来種改良に全力を注ぐことが決まった。

【末永仁と磯永吉】

明治43年(1910年)、奇しくも総督府が米の品種改良事業の主軸を在来米とする「米種改良事業計画」を定めた年、嘉義農場の技手として末永仁すえながめぐむが赴任してきた。
末永は福岡県筑紫郡大野村(現:大野木市)生まれの24歳。
地元の小学校から大分県三重農学校(現:大分県立三重農業高校)を卒業後、福岡県農務課農事試験場に一旦就職したが故郷の職場を離れ渡台してきた。
末永に遅れること2年、末永と同い年の磯永吉が台湾総督府農事試験場に技手として奉職した。
広島県福山市に生まれ、東北帝国大学農学科(現:北海道大学農学部)を卒業した翌年の3月31日に、東北帝大の恩師・新島善直にいじまよしなおの媒酌で娶った新妻たつを連れて渡台した。
台湾勤務の振り出しは台湾総督府農事試験場種芸部である。

末永は赴任してから2年経った大正元年(1912年)12月、嘉義庁農会が主催した「第1回技術員製作品展覧会」で出品総数720点の中で一等賞を獲得した。
これは一種の技能コンテストのようなものだった。
内容は在来米の改良に対する問題点を指摘すると同時に、内地米を試作した結果、種々の欠点はあるものの、改良を加えることによって将来の成功の可能性は高いと断言。
いわば総督府の方針に一石を投じたのである。
同じ時期に、磯も『台湾農事報』に「稲の品種改良について」と題する論文を掲載している。
在来米はとうてい品質の上では内地米を凌駕することはできないと真正面からとらえれば総督府の神経を逆撫でするようなことを主張している。
大正3年(1914年)2月、「第2回技術員製作品展覧会」でまたもや末永は一等賞を獲得した。
そしてこの展覧会の審査員席に座っていたのが、総督府農事試験場の技手・磯永吉であった。
のちに名コンビとなる二人が出会った瞬間だった。

展覧会から1年後、大正4年(1915年)、磯は台中農事試験場に転任となり、同時に技手から技師に昇任した。
磯は難航する米の品種改良事業になんとか風穴を開けたいと、米の栽培に最も適した環境条件が揃った台中への赴任を志願したのである。
そして磯が台中に転任した年の暮れに、末永も台中農事試験場へと異動する。
磯が台中に着任して、まず手掛けたのは在来種の系統を分離して「純系育種」を作ることであった。
台中に来てから3年後、まだ32歳の若さで末永は主任技師に異例の昇格をする。
磯や末永らの努力が実を結び、この頃になると在来種の品質改良もより一層進展が見られた。
品種の限定から純系分離する段階を超え、在来米に内地米を掛け合わせることで、在来米の品質と生産量を向上させようという段階に入っていた。

【内地米の栽培】

磯永吉は、大正8年(1919年)5月から植物品種改良法に関する研究調査のため、欧米各国へ1年6ヵ月間の留学を命じられる。
磯は末永と同様、台湾での在来米の品種改良には限界があるため、将来的には内地米の導入に切り換えざるをえないだろうとの認識を持っていた。
将来の内地米導入を視野に入れ、欧米で最先端の品種改良技術を学んで持ち帰ることは磯の望むところだったのではないだろうか。
台湾へ帰国後、大正10年(1921年)6月に、磯は農事試験場技師専任となるが、8月には勅令により「台湾総督府中央研究所」に改組されたため、中央研究所農業部技師、種芸科長となる。

一方、内地米の交配実験や栽培方法の研究にも一筋の光明が見え始めた。
磯の留守を任された末永の手による膨大な実験結果から、内地米を台湾で栽培する場合、在来米に使われる苗よりも極端に若い苗の移植が適していることが発見された。
この方法を内地米に応用することで、内地米の耕種法を確立させ、ここに、限られた地域でしか成功していなかった内地米栽培の突破口が拓けた。

それまで山間部の気温の低い場所以外では栽培に成功しなかった内地米の栽培を冒険的に挑戦しようとする農家が現れるようになった。
この気運は、山間部での栽培成功を耳にした農家が、自分たちも挑戦してみようという積極的意志と、内地米の半値にしか満たない在来米の栽培をあきらめた農家が、やむなく内地米栽培の参入に賭けるという消極的意志の狭間で高まってきたといえよう。
こうして、当局がそれまで各地の試験場に発布していた「若し内地米の成績が良好であっても、現行米種改良事業の終了するまでは決して奨励してはならぬ」という条件は、農民の切実なる内地米栽培熱によって有名無実なものとなり、形骸化せざるを得なかった。
こうしたことが、当局をして竹子湖に「原種田事務所」を設置させ、本格的な内地米の栽培実験に舵を切る契機となった。
さらに、台中で内地米栽培法の研究を忍耐強く続けてきた末永によって、内地米栽培の際のネックとされた早生の問題が大正11年ごろには解決されていたことも大きい。

原種田事務所が設置されると、大々的に内地米の栽培実験が始まった。
ここで原種米として選ばれたのが、これまで栽培されてきた内地米の中では最も好成績を収めている、九州から移入された「中村」であった。
磯の指揮下、農事試験場で栽培された奨励品種が、原種田に隣接する原々種田に持ち込まれて栽培される。
作業員が絶えず巡視し、不良株は即座にことごとく除去し、純正種だけを採取した後、貯蔵庫に保管して翌年には原種田で栽培がおこなわれる。
このように不純系を淘汰した原々種から原種を栽培し、その種籾を農民に配布して栽培させるという仕組みである。

農民に配布された種籾の栽培状況はすこぶる良好で、この種籾を使って米作をしたいという農家が続出した。
大正13年(1924年)、台北州での内地米作付面積は第一期作に8000ヘクタール、第二期作に2600ヘクタール、収穫高は約15万石に達した。
そして、この年の収穫のほとんどが内地に移出され、翌年も移出された内地米は品質もほとんど日本内地産のものと変わりないとの好評価を受け、しかも安価であったためまたもや歓迎され、ここに台湾産の内地米のブランドはほぼ確立されつつあった。

大正14年(1925年)10月15日、第10代伊沢多喜男台湾総督は突如、平山秘書官を帯同し、中央研究所農業部の内地米試作田を視察した。
この効果は予想以上に大きかった。
全島に内地米の栽培が伝播し、この年には内地米生産99万石という成果をあげていながら、総督府や農業部の技術官の中には、いまだに内地米の栽培に危惧を抱き、反対意見を持っている者があったのが、ピタリとなくなったのである。

磯は総督の命により、仏印・タイ・ビルマ・マレー・インド・ジャワ・フィリピンの稲作事情ならびに米取引関係の調査に派遣されることになり、12月15日、総督府技師の色部米作らと共に鳳山丸に乗船して南洋視察に出発した。

【「蓬来米」の命名】

南洋視察の途中に立ち寄ったシンガポールで、磯は電報を受け取り、急きょ、台湾に戻った。
4月に台北で第19回大日本米穀大会が開催されることになり、大会関係者から今大会を記念して伊沢総督に内地米の命名をお願いしたいので、その候補名を挙げて欲しいというものであった。
商品の名称は、その売れ行きを大きく左右する。
当時、磯はすでに内地米栽培の第一人者として名を知られ始めていた。
磯が苦悩の末に絞り上げた候補は「新高米」「新台米」「蓬来米」の三つであった。
「新高米」は、台湾を代表する新高山から取ったもので、「新高山」は明治天皇の命名による。
「新台米」は、台湾に生まれた新しい米種ということをアピールしたかったのだろう。
「蓬来米」の「蓬来」とは、仙人が住むといわれた台湾の美称である。

大正15年(1926年)4月23日から台北鉄道ホテルで大会が盛大に開催された。
3日目を迎えた25日、大会幹部からの内地米命名の要請を承諾した伊沢総督は、控室で三つの候補を見せられ、即断即決したのが「蓬来米」だった。
総督に命名された「蓬来米」は、もはや完全に台湾の米生産の主流となった。
この年、蓬来米の作付面積は3万ヘクタールを突破した。

一部の資料では、「台中65号」が「蓬来米」と記述されているものがあるが、それは誤りである。
当時、台湾で栽培されていた内地米の品種の代表的なものは、初期の「中村」「旭」、後になって「嘉義晩2号」「台中65号」が普及していったので、「蓬来米」とは、台湾で栽培に成功した内地米の総称で、どれか一品種を指す名称ではない。

【その後の磯永吉】

昭和3年(1928年)8月、磯は『台湾稲の育種学的研究』の論文で、北海道帝国大学から農学博士の学位を授与される。
一説には、末永仁が、台中での交配実験結果の資料をすべて磯に渡し、論文執筆に大きな助けとなったと言われている。
学位取得の直後、在外研究員として磯は米国、英国、ドイツに派遣され、1年6ヶ月間を海外での研究生活に費やした。
44歳で帰国した磯は台北帝国大学農学部教授に就任し、農学および熱帯農学の講座を担当する。

蓬来米の研究に一段落ついたこの時期、磯は主に台湾の経済作物についての研究を始めるとともに、同時に農民に対して米の休耕期間に農地を有効利用するため、サツマイモや亜麻を植えることを指導した。
それによって収益が増加し、農民の家計を潤す一助になると考えたのである。
磯の頭には常に農民の生活があった。

敗戦は、台湾に暮らす多くの日本人の運命を変えた。
戦後の台湾は事実上、中華民国が統治することとなり、日本人は内地へ帰国しなければならなくなった。
しかし、例外があり、約2万8000人の日本人が「留用者」として家族と共に留め置かれた。
彼等は、いわば特殊技能を有した大学教授や技術者などで、「使える人材」は留め置いて利用しようと考えられたのである。
磯にも台湾省農林技術顧問として台湾に残るよう命令が下った。
留用者名簿の中には、同じく台北帝国大学教授で、珊瑚礁生物学の権威である、磯の娘婿でもあった川口四郎の名前もあった。

昭和32年(1957年)まで戦後12年間も台湾に留め置かれた磯は、71歳で定年退職となり、ついに45年間を過ごした台湾を離れる。
これに先立ち、台湾省政府は臨時議会に置いて議長の任にあった黄朝琴の臨時動議により、磯の功績を讃え、年間1200キロの米を終生贈ることを決議している。

日本に戻った磯は、台湾時代の知り合いの世話もあって、山口県防府市に居を構え、山口県農業試験場顧問などを歴任。
山口大学でも教鞭をとったようである。
昭和36年(1961年)7月、45年間におよぶ台湾での研究が評価され、日本学士院賞を受賞。

晩年は病に冒され、療養生活をしていたが、「88歳までは生きる」と口癖のように言っていたという。
88歳、すなわち「米」寿である。
その願いもむなしく、昭和47年(1972年)1月21日、86歳でその生涯を閉じた。

磯や末永がその生涯のほとんどを掛けたと言ってもよい蓬来米は、、戦後数十年を経て、蓬来米と他の品種の掛け合わせにより、さらなる改良が加えられているが、台湾の人々の身近なところに今も根付いている。

(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年1月 第1刷発行)




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