板垣退助像 平成19年4月3日

板垣退助 いたがき・たいすけ

天保8年4月17日(1837年5月21日)〜大正8年(1919年)7月16日

岐阜県岐阜市・岐阜公園でお会いしました。


父親は高知藩士の乾正成。
戊辰ぼしん戦争で功あり、高知藩家老となる。
維新後、高知藩大参事として親兵編成に尽くし、参議に就任して西郷隆盛らと留守政府を指導したが、征韓論争で敗れて下野げやする。
明治7年(1874年)民撰議員設立を建白し、高知に立志社を設立して自由民権運動を開始した。
運動の代表者として自由党を結成し、総理になり民権運動の拡大に努めた。
明治15年(1882年)岐阜の金華山麓の中教院で襲われ負傷。
「板垣死すとも自由は死せず」の逸話を残す。
日清戦争後、第二次伊藤博文内閣と自由党の接近を指導し、内務大臣として入閣。
明治31年(1898年)対立していた大隈重信とともに組閣(隈板内閣)して再び内務大臣となる。
明治33年(1900年)政友会創設を機に政界を引退。
晩年は社会改良運動に尽力する。


板垣退助像



板垣退助像
(岐阜市・岐阜公園)





(平成19年4月3日)

碑文

我岐阜公園者為自由党總理板垣退助先生遭難之霊地明治15年4月6日先生遊説之途次東濃来臨中教院之有志懇親會為大演説将出玄関突如有凶漢利刃一閃刺先生之左胸先生一聲大喝曰板垣雖死自由不死一語凛然永照青史矣大正6年予等同志胥謀建設銅像迎先生及夫人令息擧除幕式爾来毎歳行遭難記念祭誰圖為大東亞戰之犠牲遭没收之厄遺憾無窮這回有志協力再建焉感喜何堪■賦一詩記其顛末
 欲■民権不省身東奔西走説教綸
 英姿颯爽崋山麓■像永留■■眞

昭和25年4月 五洋 山田永俊

(銘板より)

板垣退助遭難の地



板垣退助遭難の地
(岐阜市・岐阜公園)





(平成19年4月3日)

板垣退助遭難の地

明治15年4月6日午後1時、時の自由党総理板垣退助が中教院にて演説を行う参会者百余名夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚■しょうけいが総理の胸を刺す。
総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。
即ち板垣総理遭難の地である。

岐阜市

(説明板より)


板垣退助が岐阜に遊説中に刺客に襲われた時、名古屋から真っ先に駆けつけて治療したのが後藤新平
彼は福島県の須賀川医学校を卒業し、24歳で愛知県立病院長に就任していた。
これがきっかけとなり、明治25年、後藤新平は内務省衛生局長に抜擢されている。

参考:『歴史読本 2007年9月号』

(平成19年9月5日追記)


板垣退助の墓


従一位勲一等伯爵 板垣退助の墓

(東京都品川区北品川・品川神社裏の墓地)

邦光院殿賢徳道院圓大居士
大正8年7月16日薨 享年83



(平成20年3月26日)

品川区指定史跡
板垣退助墓

所在 北品川3丁目7番15号 品川神社裏
指定 昭和53年11月22日(第4号)

板垣退助は、天保8年(1837)に土佐(高知県)で生まれた。
幕末に藩主山内豊信やまのうちとよしげの側用人そばようにんとなるが、倒幕運動や戊辰ぼしん戦争(1868)に参加して功績をあげた。
明治7年(1874)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。
明治14年(1881)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。
翌年、岐阜遊説中に刺客しかくに襲われたとき「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧かせた。
明治29年(1896)から伊藤内閣や大隈内閣の内相ないしょうをつとめたが、明治33年(1900)に政界を引退した。
大正8年(1919)に亡くなり、この地に葬られた。

平成7年3月31日
品川区教育委員会

(説明板より)

板垣退助室 絹子の墓


右:板垣退助の墓
左:板垣退助室 絹子の墓


慈徳院殿温良全貞大姉
昭和13年4月13日薨 享年80



(平成20年3月26日)

板垣退助墓所

板垣退助のお墓のあるこの場所は、元は東海寺の塔頭たっちゅう(本山の内にある末寺)の一つの「高源院」という寺院があった所です。
板垣退助は生前に、自分の死後はここに墓を建てるように希望したということで、その死後、その意向の通りにこの場所に埋葬されお墓が建てられました。
関東大震災後、高源院は世田谷の烏山に移転し、その跡地は城南中学校になりましたが、お墓だけは彼の意思を尊重したためか、そのままこの場所に残りました。
ですからこの場所は、品川神社の境内地ではありませんが、便宜上一部を開けてお参りが出来るようにしておりまし。

(品川神社境内の案内板より)




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