伊東マンショ像 平成20年11月18日

伊東マンショ いとう・マンショ

永禄12年(1569年)(?)〜慶長17年10月21日(1612年11月13日)

大分県大分市・遊歩公園でお会いしました。


日向国領主・伊東氏の一族。
天正10年(1582年)、バリニャーノにより遣欧使節が企画され、大友宗麟の名代として日本を出発し、ポルトガル、スペイン、ローマなどに赴く。
天正18年(1590年)長崎に帰国。
翌年、バリニャーノや他の使節と共に豊臣秀吉に謁見。
同年イエズス会に入会し、慶長13年(1608年)司祭に叙階。
九州各地で布教に従事し、長崎で病死。


伊東マンショ像



伊東マンショ像
(大分市・遊歩公園)





(平成20年11月18日)

伊東ドン・マンショ像

信長時代に来日した宣教師ヴァリニャーノの勧めで、九州のキリシタン大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠等は少年使節をローマ教皇に派遣することになり、宗麟は姪の子13歳の伊東マンショを正使とした。
有馬大村は13歳の千々岩ミゲルを正使に、原マルチニヨ13歳と中浦ジュリアン14歳を副使とした。
伊東マンショは一行の主席正使であった。
これが世にいう「天正遣欧少年使節」である。
この少年使節一行は1582年2月20日(天正10年正月28日)、永遠の都ローマを目指して長崎の港を出帆し、雲煙万里の旅に出た。
途中暴風雨、無風状態、海賊、疫病、船の故障等のあらゆる困難を克服して、ポルトガルの首府リスボンに上陸したのは、実に2年半後の1584年8月11日(天正12年7月6日)のことであった。
その後ポルトガル、スペイン、イタリヤの各地で熱狂的歓迎を受け、遂に待望のローマ入りの日は来た。
時は1585年3月23日、ローマにおる限りの高位貴顕の士によって編成された壮麗な大行列は、晴の少年使節を中心に延々と続き、スイス禁衛兵に衛られ、ラッパや音楽の吹奏、殷々と轟くる百発の祝砲の中をバチカン宮に向って行進した。
ローマは街も家々の窓も歓喜と好奇に熱狂した市民で埋めつくされた。
かくて少年使節は時のローマ教皇グレゴリウス13世に、日本の服装で拝謁した。
この少年使節のニュースは忽ち全欧州に拡がり、日本少年の名をいやが上にも高からしめた。
帰路は逆コースをとって、1590年7月27日(天正18年6月16日)実に出発以来8年半後、懐かしい長崎に上陸したが、既に宗麟は3年前にこの世を去り、たゞ待っていたものは秀吉の厳しい禁教令であった。
その後の伊東マンショは神父として、ひそかに匿れキリシタン達に布教しながら清い生活を続け、慶長17年10月21日(1612年11月13日)43歳で病没した。
小社は創業11周年記念として、日本彫塑界の権威北村西望先生に委嘱して、伊東マンショがローマ教皇に拝謁のためバチカン宮に参入する像を創り、これを大分市に贈る。

昭和50年10月31日
株式会社 マリーンパレス
社長 上田 保 識
     糸永 求 書

(碑文より)


ローマ・バチカン
奥に見えるのがサン・ピエトロ大聖堂 バチカンのサン・ピエトロ大聖堂

(平成18年12月9日)




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