岩国城 いわくにじょう

(山口県岩国市横山3丁目)


 平成24年4月17日

【岩国城】

出雲、伯耆11万石、富田城主吉川広家は、毛利元就の孫にあたる。
慶長5年(1600)関ヶ原の役に西軍の盟主として東軍と戦った広島城主毛利輝元(元就の孫)は敗れて周防、長門二ヵ国に削封され、長門萩城に移り、吉川広家も岩国3万石に転じた。
この年の10月、家臣や家族たちは先発として岩国にやってきたが、広家は翌6年、岩国に近い玖珂郡由宇村に入る。
当時、由宇は交通の便もよく、人家が多かったのである。
やがて広家は毛利氏の外郭第一線として堅固な築城を考え、岩国の横山を選ぶ。

岩国城は、横山山頂に要害を築き、その南麓に平常の居館を構え、両者を合して構成された。
そのためか、山頂の要害を特に城(=横山城)と呼び、麓の館を土居と称している。
土居は更に上下の2つに分かれ、藩主の平常の居住と藩庁であった。
土居は横山のほぼ中央に位置し、山を背にして東南に向かい、三面に堀がめぐらされていた。

山頂の要害は土居の工事に引き続いて行われたが、慶長7年(1602)は広家が、土居の土木工事が済み次第、直ちに山頂要害の石垣構築に着手するよう、急がせている段階だった。
同年は、石切り場と石を運搬する道を開いたのみに終わる。
翌8年、山頂で起工式が行われ、5年の年月を経て慶長13年に完成した。
本格的な工事が行われたのは同9年から11年にかけての3年間である。
人夫が足りないので、家中の二男、三男まで動員されていた。
完成した城は本丸、二の丸、北の丸などからなり、本丸に建てられた天守は外観四層、内部六階の望楼天守である。

岩国城は一国一城令のため、元和元年(1615)廃城となった。
着工から数えて13年、そのうち工事期間が5年、城としては7年の生命だった。
幕末の岩国藩は幕府打倒の急先鋒となり、長州戦争では幕府の大軍を安房、周防の国境に迎撃し、徹底的に撃ち破ったのも、岩国城破却の恨みとさえ言われている。

(参考: 大類 伸 監修 『日本城郭事典』 秋田書店 昭和58年第8版発行)

復興天守

岩国城天守閣由来

岩国城は、吉川家17代の広家公が慶長5年岩国に移封されてより建設が計画され、先ず最初に山麓に平生の居館を構え、ついで横山の要害を城と呼び、山麓の館を土居と称した。
岩国城は、慶長8年、二宮佐渡が鍬始めを行ない築城奉行に松岡安右ヱ門、祖式九右ヱ門、二宮兵介、吉田宗右ヱ門等を任用し、5年の歳月を要して慶長13年(西暦1608年)に山頂の要害はことごとく完成し城藩制が定められた。

●築城当時の岩国城の規模
城山の尾根沿いに長さ180米、横に108米~54米、石垣の高さ5.4米、天守閣は桃山風の南蛮造りと言われ、四層五階で本丸の北隅にそびえていた。
この外に矢倉5棟、折り回し大門2門、埋門1門、井戸2堀があった。
横山側の前方を大手とし、御庄後方を搦手として錦川を隔てて北方に安芸境をにらんでいた。
元和元年(西暦1615年)6月、徳川幕府の一国一城の制により取り壊しにあった。
その後城跡は石垣の一部を残し荒涼たること約360年にして昭和36年3月復元工事に着手し、昭和37年3月に竣工したものである。

高さ 20.23米
面積 1階 266.997平方米 2階 186.283平方米
面積 3階 160.087平方米 4階  42.380平方米
面積 地下 108.161平方米
延面積 763.908平方米

(説明板より)






岩国城跡旧天守台





(平成24年4月17日)

岩国城跡旧天守台について

岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。
この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城令により破却された。
城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた建造物である。
天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。
その隅部には、反(そ)りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。
これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。

(説明板より)






岩国城の空堀





(平成24年4月17日)

岩国城の空堀

岩国城は、江戸時代初期に築かれた石垣造りの近世城郭である。
この時代に築城された城郭の多くは平城で、岩国城のように山頂に城郭を築き、防衛を主体とした空堀を築造したものは、全国的に見ても極めて珍しい。
この空堀は、幅約19.6m、深さ約10mと、日本最大の箱堀構造で、明らかに敵の鉄砲による攻撃を意識して造られたものである。
石垣は空堀の部分には築造されていない。

(説明板より)

「岩国城ロープウエ―山頂駅」 ロープウェイ

錦帯橋からみた岩国城

本来の天守閣は本丸の南隅にありました。
錦帯橋から見えるようにとのことで、場所を変えて北隅に天守閣を建てたそうです。

 元朝登城之図





吉香神社境内
(山口県岩国市横山)




(平成24年4月17日)

岩国城の説明

ここは岩国城の一郭。
山上の要害に対して御土居(おどい)ついで御館(おたて)と称した。
近世270年の間吉川氏の居館があり、岩国藩政府の役所が置かれた。
その普請は、山上の天守に先だって、慶長7年(1602)の春に着手され、同年冬には一部竣工、広家の入居をみている。
もとより、城郭の完備したのは2,3年後であろう。
正面(図の中央部)および南(左上部)北(右手)に門があり矢倉も3ヶ所に配備されている。
中の主要建造物は表御殿(図の中央部)御納戸(左上部)御裏(山際に長く連る)の三部から成り、表御殿には玄関、広間、書院のほか御用所(家老や御用人の集議所)があり、御納戸には藩主の居間、書斎などのほか近侍の詰所があり、御裏には藩主婦人の寝室、居間ならびに女中の局(つぼね)が並んでいた。
明治元年(1868)、吉川氏が城主格となり、以来お城と称したが、同4年7月廃藩、ここは岩国県の県庁となった。
しかし、翌年県庁は山口に統合され、支庁となったが、それも束の間、支庁が他に移されここは不用公有物として、土地建物ともに競売に付された。
同18年、城跡に旧藩主を祭る吉香神社が移され、その境内として公園化が進められ、今日の吉香公園となった。
因みに、本図は明治初年の元旦登城風景である。

昭和53年5月
岩国市教育委員会

(説明板より)





錦雲閣
(山口県岩国市・吉香神社境内)




(平成24年4月17日)

錦雲閣 きんうんかく

お堀の水に臨んで矢倉のようなこの建物が錦雲閣である。
吉香神社きっこうじんじゃ境内の南隅にあたり旧藩時代には三階建の南矢倉のあった所で、明治18年(1885年)居館跡が公園になったとき、この絵馬堂が建造された。
楣間の横に長い額は毛利元昭の直筆で、現在は市立図書館に所蔵されている。

(説明板より)

吉香神社

国指定重要文化財
吉香神社

本殿
拝殿及び幣殿 3棟
神門
鳥居 1基
付 棟札 2枚

指定年月日  平成16年12月10日
所有者     宗教法人 吉香神社

吉香神社は岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀る神社で、現社殿は、享保13年(1728)横山の白山神社内に造営され、明治18年(1885)に旧城跡の現在地に移築されたものです。
鳥居、神門、拝殿及び幣殿、本殿が南から北に一直線に並んだ構成となっています。
神門は、小型の四脚門で冠木中央に吉川家家紋があり、拝殿は、入母屋造妻入りで背面に幣殿が張り出し、本殿は、三間社流造で正面に軒唐破風、千鳥破風が付されています。
いずれも軸部から小屋組まで当初形式をよく保持しており、充実した細部を備えた丁寧なつくりとなっています。
特に本殿と拝殿および幣殿は独特な形式で複雑な架構と屋根形式を巧みにまとめていて、独自性が認められます。
全国的にも数少ない祖霊を祀る神社建築で、全体に岩国藩大工の質の高い技術が窺え、地方における江戸中期の優品として、高い価値が認められます。

岩国市教育委員会

(説明板より)







旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡

(山口県岩国市横山2丁目)




(平成24年4月17日)

旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡

駿河するが(静岡)を拠点として活動していた吉川きっかわ氏は、正和2年(1313)、吉川経高つねたかの代に弟たちとともに安芸あき(広島)に拠点を移した。
これが安芸吉川氏であり、後の初代岩国藩主吉川広家ひろいえはその直系にあたる。
それに対し、吉川経高とともに安芸に移った弟の一人、吉川経茂つねしげは、後に石見いわみ(島根)に領土を得て移り住んだため、石見吉川氏と呼ばれている。

天正9年(1581)、織田信長の命により中国地方に進出した羽柴秀吉は、鳥取城へ軍を進めた。
このとき、鳥取城主であった山名豊国やまなとよくには、羽柴秀吉に降伏しようとしたが、降伏を望まない家臣の中村春続はるつぐ・森下道誉どうよが、山名豊国を城外へ追い出し、安芸の吉川元春もとはるに城将の派遣を願った。
それをうけた吉川元春は、石見吉川氏10代目にあたる吉川経家を鳥取城へ派遣することとした。
部下とともに入城し、決死の覚悟で守る吉川経家に対し、羽柴秀吉は、2万の大軍を率い、三里四方にわたる大規模な包囲網をしき、また、織田軍による外部からの輸送の遮断によって、鳥取城を兵糧攻めすることとした。
悪条件の中、吉川経家は抵抗を続けよく守ったが、時とともに鳥取城内には餓死者も増え、これ以上の抵抗は死者を増やすだけであると判断し、責任者以外の城兵の助命を条件に開城条約を結ぶことを決意した。
羽柴秀吉側の提示した条件は、主君山名豊国を追い出して今回の戦いの原因を作った中村春続・森下道誉ほか数名の切腹を求める一方、吉川経家をはじめ、安芸から派遣された城兵の命は助けるというものであった。
これに対し吉川経家は、主君山名豊国に対しては不忠であったが、毛利氏や吉川氏に対し功績のあった中村春続・森下道誉の2名の助命と、派遣されたとはいえ、城将となった責任として吉川経家自身の切腹を願い出た。
双方の意見が分かれ、羽柴秀吉としても、吉川経家のような義にあつい人物を殺すにしのびず説得を続けたが、合意には至らず、結局、吉川経家の切腹を認め、吉川経家も中村春続らの切腹を受け入れることとした。
天正9年10月25日、経家は自刃し、35歳の若さでこの世を去った。
そして、鳥取城は開城し、条約を守った羽柴秀吉によって多くの城兵はその命を救われることとなった。

吉川経家の子吉川経実つねざねは、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、吉川広家に従って岩国に入り、その後は代々岩国藩の家老を務めた。
この地は家老として仕えた石見吉川氏の屋敷地であった場所であり、江戸中期頃建築された長屋が遺構として残っていたが、老朽化により平成23年に解体された。

平成23年3月
岩国市教育委員会

(説明板より)




登録有形文化財
旧吉川邸 厩門
(山口県岩国市横山2-7-19)

岩国藩第13代藩主・吉川経健(のち岩国県知事)の屋敷の長屋門


(平成24年4月17日)





香川家長屋門
(山口県岩国市横山2-4-9)




(平成24年4月17日)

山口県指定文化財

一 建造物    香川家長屋門一棟
一 指定年月日 昭和41年6月10日 山口県有形文化財
一 管理団体  岩国市

説明

香川家長屋門は岩国藩家老香川氏の表門で今から270年余前香川正恒が建造したもので建築面積123.14平方メートル江戸時代の武家門造の典型として城下町岩国をしのぶ好個の資料であります。
香川家は初め芸州(広島県)八木城主で吉川広家が岩国に移封された当時客分から家老に取り立てられた名門であり、かの歴史的に有名な陰徳太平記は正恒の父正矩苦心の作で正恒の弟景継が大成したものであります。
その他香川家からは為政者あるいは歌人の優れた人物が輩出しています。
この長屋門は昭和30年1月25日山口県指定文化財顕彰規定により指定されていましたがその後昭和40年山口県文化財保護条例が制定され同41年6月10日山口県有形文化財の指定を受けました。
なお、この建造物は当主香川晃氏から昭和30年10月25日、岩国市に寄贈されております。

岩国市教育委員会

(説明板より)






槍倒し松

(山口県岩国市横山2-1-3)




(平成24年4月17日)

槍倒やりこかし松

この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒し松です。
昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。
岩国藩が6万石の小藩であるため岩国の武士達はこれを見て憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。
今では昭和10年(1935年)の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は河辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。
昭和19年(1944年)頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和27年(1952年)8月残念ながら枯れてしまいました。
この松は初代の松の実から自生した直系の松を昭和43年(1968年)2月15日3代目槍倒し松として吉香公園から移したものです。

樹令 300年  樹の高さ 14.5メートル
幹の周囲 3.7メートル  樹冠の面積 323平方メートル

昭和29年1月 岩国保勝会

(説明板より)




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