生没年不詳
『和泉式部日記』『和泉式部集』の作者。
大江雅至まさむねの娘。
和泉式部は女房名で、江ごう式部とも呼ばれた。
20歳ごろに橘たちばな道貞と結婚して小式部内侍こしきぶのないしを生む。
やがて冷泉天皇の皇子為尊ためたか親王、その死後は弟の敦道あつみち親王と恋に落ちた。
その経緯は『和泉式部日記』に詳しい。
寛弘4年(1007年)敦道親王にも先立たれ、2年後に一条天皇の中宮彰子しょうしのもとに出仕した。
その後、藤原保昌やすまさと再婚。
万寿4年(1027年)までの生存は確認されているが没年は不明。
平安中期を代表する歌人の一人で、新鮮で情熱的な叙情歌が多い。
中古三十六歌仙の一人。
奔放な恋愛と和歌はさまざまな説話・伝説を生んだ。
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和泉式部墓所(宝篋印塔) (京都市・誠心院) (平成19年3月16日) |
和泉式部誠心院専意法尼の墓所(法篋印塔)
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの あふこともがな
(和泉式部 百人一首より)
法伝によりますと、平安の女流歌人の代表とされる、和泉式部は当誠心院の初代住職と言われています。
大江山 いく野のみちの とほければ
まだふみもみず 天の橋立
(小式部内侍 百人一首より)
その歌を 母と共に百人一首に収められている、娘小式部内侍は、若くして他界します。
娘に先立たれ、この世のはかなさを思った和泉式部は、当時、女人には出来ぬとされていた、往生のすべてを求め、誓願寺のお告げにより、六字名号を念仏し女人の往生を成し遂げます。
その後、和泉式部は六字名号を念仏する人があれば、二十五菩薩と共にお迎えに来てくださると言う、謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている法篋印塔が左の石塔です。
『わらわがすみかも他所ならず。あの石塔こそすみかにてさむらへ。不思議やなあの石塔は和泉式部の御墓とこそ聞きつるに そもすみかとは不審なり』
(謡曲誓願寺より)
この石塔は正和2年〈1313年)に改修建立されたもので、高さ約4メートル、幅約2.4メートルあります。
江戸時代の名所絵図には、石塔と共に、傍らにあった軒端の梅が描かれています。
和泉式部を慕い多くの旅人が参拝したようです。
近年、整備の機会を得、新京極通りから直接参拝できるようになり、毎日多くの女性が訪れる様になりました。
案内図の通り、境内には、和泉式部歌碑をはじめ、「二十五菩薩」「式部千願観音」「神変菩薩」「六地蔵尊」の石像があります。
ごゆっくりとお参り下さい。
合掌 誠心院
(説明板より)
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誠心院 (京都府京都市中京区新京極通六角下る) (平成19年3月16日) |
誠心院せいしんいん
華嶽山東北寺かがくざんとうぼくじ誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、通称和泉式部の名で知られている。
寺伝によれば、関白藤原道長が、女むすめの上東門院(藤原彰子しょうし)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起りといわれている。
当初、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間(1573〜91)この地に移された。
和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集に収められている和歌は247首に及んでいる。
本堂は小御堂みどうと呼ばれ、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。
境内には、式部の墓と伝える法篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。
また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端のきばの梅」に因んで、後に植えられたものである。
京都市
(説明板より)
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