4.戦車第2師団の戦跡

(バギオ・キャンプ7・ビナロナン・サントドミンゴ・サンマニュエル)


平成24年(2012年)10月17日・3日目

今日は、バギオから山を降りて、サンマヌエル(サンマニュエル)を経由してクラークに向かう。
“ドミンさん”が同行してくれるという。
昨日、多額の(笑)「お香典」をあげたからなのかな?(笑)

朝食をとり、ドライバーと“ドミンさん”とホテルで合流・・・
午前8時、チェックアウト・・・・
まず、バギオ市内の慰霊碑に立ち寄る。

慰霊碑がある小公園
バギオ英霊追悼碑 由来
 この英霊追悼碑は、昭和48年(1973)2月11日、日本側バギオ碑奉賛会とフィリピン
側バギオライオンズクラブの建立実行委員会が建立したもので、以来比島戦没者
慰霊会が維持管理をつづけ、平成8年(1996)3月より在バギオ財団法人北ルソン比
日基金が、比島戦没者慰霊会の依託を受け維持管理され現在に至っております。
 フィリピン共和国内に数多くある追悼碑の中でも、民間組織である比島戦没者
慰霊会が建立以来維持管理をしてきたフィリピン共和国内では、最も整備された
英霊追悼碑であります。
 比島戦没者慰霊会は比日親善はもとより世界恒久平和を祈願し、毎年比日合同
慰霊祭をこの英霊追悼碑前で執り行っております。
 比日両国の過去の恩讐を越えて謹んで哀悼の意を表するものであります。

(※ 連絡先等は省略)

この『英霊追悼碑』は、きちんと管理者がいて、いつも門が閉まっている。
早朝なら管理者がお掃除に来るので、お参りが出来る。
今日も、グッドタイミングでお掃除の人が来ていて門が開いていた。
碑の周囲には花が飾られ、フィリピンでもここまでキチンと整備されている慰霊碑は、ここだけではないかと思う。
管理者からこの碑に関する資料をいただいたので、チップを少々奮発する。(笑)
キチンと資料まで作ってるんだから大したものである。
英霊も喜んでくれているだろう。
慰霊碑は、こうありたいものである。

英霊追悼碑

西紀一九七三年二月十一日建之
バギオ市
バギオライオンズクラブ
フィリピン慰霊碑建立協賛会
碑文
此処に、我等が恩讐を絶する日比両国の
戦友百数十万の霊を慰むるための記念塔を
立てる。悲しき歴史の運命について、われ
等は、今日言うべき言葉もない。この儚な
き民族の夢の影もなく消えていったあとに、
祖国の難に殉じて倒れた魂の、声なき声を
われ等は心の底に聴く。希うところは、唯、
この微かなる響きを透して、あたらしき民
族の生命の芽生えんことのみである。愛情
の最後の一滴を捧げつくして、侘しく滅び
ていった同胞の御霊よ。
 此処に永恒をつらぬく悲しき思いを、世
界平和を築く荘厳なる理想と抱負に托して、
こころしづかに眠れよかし。

撰文 尾崎士郎

英霊追悼碑の碑文は、作家の尾崎士郎が書いている。
へぇ~、尾崎士郎がねぇ~・・・・と、ちょっと驚いた。

バギオから、昨日通った、ベンゲット道(ケノン・ロード)を走る。
昨日は、時間がなく、キャンプ・セブンにある展望台に立ち寄らなかったので、立ち寄ることにした。

 展望台
KENON ROAD VIEWING PAVILION
A MEMORIAL TO THE
AMERICAN, FILIPINO AND JAPANESE WORKERS
WHO HELPED BUILD AND FINISH THIS FAMOUS HIGHWAY

A project of
FILIPINO-JAPANESE FOUNDATION OF NORTHERN LUZON, INC
BAGUIO CITY, PHILIPPINES

INAUGURATED AND DEDICATED NOVEMBER 18, 1989

(※ 以下、芳名は省略)
フィリピンと日本の国旗があしらわれた銘板
MEMORIAL MARKER
(RE-DEDICATION)
  IN MEMORY OF THE 2,300 JAPANESE IMMIGRANT WORKERS MANY OF WHOM
MET DEATH BY ACCIDENT OR BY SICKNESS DURING THE CONSTRUCTION
OF THE KENNON ROAD, WHICH THEY HELPED BUILD.

  THIS TABLET SERVES AS A GRATEFUL RECOGNITION OF THEIR VALUABLE
CONTRIBUTION IN BUILDING A HIGHWAY LINKING THE CITY OF BAGUIO AND
THE CORDILLERA TO THE REST OF THE COUNTRY AND AS A TOKEN OF
APPRECIATION FOR THEIR EFFORTS, SACRIFICES AND DETERMINATION IN
THE CONCRETE REALIZATION OF THIS VITAL HIGHWAY.

  THIS MARKER IS BEING RE-DEDICATED ON THE OCCASION OF THE 100TH
ANNIVERSARY OF THE ENTRY OF THE FIRST JAPANESE WORKERS IN THE
CONSTRUCTION OF KENNON ROAD.

FEBRUARY 20, 2003
FILIPINO-JAPANESE FOUNDATION OF NORTHERN LUZON, INC.

(※芳名は省略)

ここからのベンゲット道(カノン・ロード)の景色がいいというのだが・・・
それほどではないような気が私はしますけど・・・・(苦笑)

 展望台から見たベンゲット道

このあたりは、標高が高いので、松林が多い。
南国のフィリピンに松の木というのは意外だが・・・(笑)
どことなく日本のどこかの山の中に来たような錯覚を覚える。(笑)
バギオ市内も松林が多かったが、以前より家が増えたようで、松の木が少なくなっていたのは残念だった。

この展望台の場所(キャンプ・セブン)には「ケノン・ロード」と、その名を残す「ケノン大佐」の銅像が建っている。
う~ん・・・日本人としては、チョット不満・・・
出来れば、この道路を開通させた日本人労働者の銅像を建ててもらいたいものである。(笑)

ケノン大佐像 バギオ市のマーク

山を下り、約1時間半・・・・
ビナロナンという町に入る。
ここも我が戦車第2師団の戦場跡である。
ここには戦車第7連隊の第4中隊(高木大尉)と第5中隊(伊藤少佐)、機動歩兵第2連隊第1大隊(板持少佐)などの部隊が展開していた。
第4中隊の戦車12両は、昭和20年1月16日夜、リンガエン湾の米軍上陸地点に向けて、機動歩兵第2連隊第1大隊の機動歩兵とともに突撃を敢行する。

この町に十字路があり、そこが突撃部隊の集結地で、そこから部隊は西にいる米軍に対する攻撃に向かったのである。
その場所に行きたいのだが・・・
我々はビナロナンの次にサンマニュエルに向かうため、うかつにも真直ぐビナロナンの市街地へ向かう道に入ってしまったようである。
十字路を避けてショートカットしてしまったようである。(唖然)
おかげで、十字路は我々の向かう反対側・・・という形となってしまった。
わざと遠回りをして、十字路を通過してから町に入るというのが理想だったのだが・・・(涙)
が・・・ドコモのタブレットで地図を見ていたので、現在自分がいる場所がわかった。
今回もタブレットのおかげで大助かりである。
「その先にT字路があるはずだから、そこで車を停めて!写真を撮るから!」

午後11時、夜襲をかけた戦車第7連隊第4中隊は敵の対戦車砲等の猛砲火を浴びた。
指揮班長の上路中尉の九五式軽戦車は敵の砲弾を受け火達磨となり、車内から誰かの叫び声が聞こえたという。
高木中隊長の戦車は炎上する前後の戦車に挟まれ身動きが取れない。
高木中隊長は歩兵出身だったためか、砲塔から頭を出して銃で狙撃していたらしいが、敵弾の直撃を受けて戦死。
敵陣を突破したのは、小林小隊長率いる戦車2両だけ・・・
あとから中隊主力が追いかけてくると思って待っていたが追いかけてこないので、この2両は引き返すことにした。
その途中、1両が敵弾で炎上・・・結局、生還したのは1両のみ。
この夜襲で、第4中隊の戦車兵60名中、中隊長、指揮班長以下約20名と戦車4両を失う。
残った戦車8両はここから東にあるサンマニュエルに後退することとなる。

この夜襲を行なった我が戦車第2師団の戦車第3旅団長である重見少将と戦車第7連隊長の前田中佐は、山下奉文大将の第14方面軍からの戦車の夜襲について反対意見を持っていた。
歩兵と共同して、夜襲をするなど、戦車の用法としては間違いである。
本来の戦車の用法はそのスピードを生かして戦場を縦横無尽に走り回り戦うことだろう。
真夜中の真っ暗い中、歩兵に速度を合わせて・・・などというのは論外な話である。
結局、重見少将たちの思ったとおり、この夜襲は失敗した。

ビナロナンの十字路の戦いで第4中隊はサンマニュエルに後退したため、米軍は日本軍を駆逐したと思ったのだろう。
安心していたところ、伊藤中佐率いる第5中隊の戦車8両が攻撃を仕掛けてきた。
本来は12両編成だが、第3小隊などの4両は、ウルダネタの戦車第7連隊本部へ派遣していて戻っていないので8両での攻撃となった。
突然現れた日本軍の新手の戦車に米軍は大混乱となる。
その混乱に乗じて戦車砲、機銃を米軍の戦車やトラックに浴びせる。
ちょうど日本軍の10センチ榴弾砲が近くに配置されていたので、この砲で米軍のM4シャーマン戦車を砲撃、炎上させている。
多分、「乱戦」となったのではないだろうか?

中隊長の伊藤中佐は、戦車学校の射撃学生出身で射撃が上手い。
そのため、本来の射手と交替して自分で射撃を担当していたらしいが、敵の砲弾の破片を頭に受け、戦死してしまった。
周囲が暗くてよく見えないので、操縦手の猪塚曹長が窓を開けて操縦していたため、砲弾の破片が車内に飛び込んで2人を戦死させたのではないかと言われている。
確か・・・伊藤少佐のお墓は佐賀県の唐津にあったと思う。
慰霊碑か顕彰碑か何かも建立されているらしいが、私はまだ訪れたことはない。
機会があったら一度お参りしたいなと思っている。

この第5中隊も奮戦し、敵に多大な損害を与えたらしいが、結局、戦車8両は全滅してしまった。
夜が明けると全滅しかねないということで、この機動歩兵第2連隊第1大隊長の板持少佐の「板持支隊」を中心とする「ビナロナン地区隊」は、サンマニュエルに後退することとなる。

ビナロナンのT字路

写真左が西で、その方角に向かうと十字路があるはず・・・

この我々が立っているT字路は、ちょうどサンマニュエルに向かう路である。
これより西で戦闘があったのだろうが、そこへ向かうとなると、反対方向へ戻る形となるので、あえて行くのをやめる。
わざわざ戻って何を見たいのか?・・・と他の3人は思うだろうし、「え~行くんですかぁ~」と嫌な顔をするかもしれないから・・・(大笑)
次回、機会があったら十字路付近を探索してみたい。

T字路地点からサンマニュエル方向(東)を見る。

このあたりに機動歩兵第2連隊第1大隊がいたのではなかろうか・・・

T字路地点で一服・・・
そこへ“輪タク”のオヤジなど地元の人が寄ってきた。
なにせ、日本人だから目立つのだろう。(汗)
地図を見ながら、あっちを向いてパチリ、こっちを向いてパチリと写真を撮っているから「不審な行動」と思ったのかもしれない。(大笑)
何だかんだと話しかけてくる。
写真の右に見える街路樹・・・・
何という名前だったか、教えてもらったのだが忘れてしまったが・・・
地元の人が、この木は、スペイン統治時代からここにある木だという。
すごい歴史がある木だそうで・・・(笑)
周囲からも「そうなんだ、それでね・・・」と大騒ぎ・・・
残念ながら私は植物学者ではない・・・(大笑)
興味がないのだが・・・どうも、日本で言うところの「天然記念物」か「名木百選」とか、そういうものにに指定されているらしい。
「この木を見てくれ、これはね・・・」と、ワイワイと人が集まり、とにかく説明がうるさい。(大笑)

戦前からこの街路樹があったとすると・・・
攻撃に行った日本兵たち、撤退をした日本兵たちもこの木を見たのかな?
この木も、我が戦車第2師団の活躍を見ていたのかも?

このT字路のところに「野外公会堂」がある。

野外公会堂入口 公衆便所

ここの公衆便所・・・有料である。(笑)
入り口に若い女の子がいて、“料金”を取るのである。
たしか5ペソ(10円)ぐらいだったと思うが・・・
お金を取るだけに、内部は綺麗である。
雇用創出にもつながるから日本でもやったらどうだろうか?(大笑)

男子トイレの内部。

さすがに有料だけあって綺麗である。
フィリピンのトイレ事情は最悪・・・
こういう綺麗な公衆便所を見かけることは滅多にない。(苦笑)

トイレに行って出すものを出したら、のどが渇いた・・・(大笑)
「どこかでミネラルウォーターを買いたいんだけど・・」と言ったら、地元のトライシクル(輪タク)のオヤジがお店まで乗せて案内すると言う。(笑)
いや、いや何かあったら大変だ・・・ということで皆から反対され・・・(苦笑)
“ドミンさん”が私の代わりにトライシクルに乗って買い物に出かける。
その間、私は木陰で一服・・・(笑)

飲み物も入手したし・・・さて、行きますか!
(頼みもしないのに集まってくださった)地元の方々に挨拶して車に乗り込み、次に向かう。(大笑)

先ほどの地元の人たち・・・
私が「山下財宝」を探していると思ったらしいと“ステラさん”が言う。
日本人を見たら・・・「山下財宝」探し・・・・
つまり・・・「トレジャー・ハンター」だと思ってしまうところがフィリピンらしい。
とにかく、フィリピンには働きもせず一攫千金を狙いたがる連中が多いのだ。(大汗)

「山下財宝」は、現地では「ヤマシタ・トレシャー」と言う。
「トレジャー」とは濁らず「トレシャー」である。
これは第14方面軍の山下大将が、フィリピンに埋めた財宝を指す。
たしかに、大量の貴金属等が持ち込まれたことは事実である。
が・・・そんなものが簡単に見つかるわけがない。(大笑)
小学生の時に埋めたタイムカプセルだって、数十センチ場所がずれたところを掘ったのでは、いくら掘っても見つからないのと同じである。(笑)
偶然、何かの拍子に見つかるという“偶然”に期待するしかない。
探して見つかるようなものではあるまい。

車で5分も走ったところに、ビナロナンの三叉路がある。
たしか・・・ここでも何か戦闘があったはずなのだが・・・
思い出せない・・・(大汗)
私の勘違いかな?
ここは関係なかったかな?(苦笑)
とりあえず、念のため、車を停めて写真だけは撮っておく。

ビナロナンの三差路

更にサンマニュエルに向かって走る。
このウルダネタとサンマニュエルの間にサントドミンゴという集落があるはず・・・
そこには「サントドミンゴ地区隊」として、一時期、我が戦車第2師団戦車第3旅団長の重見少将がいた。
旅団司令部には九七式中戦車5両、九五式軽戦車1両があり・・・
これに機動砲兵第2連隊第3大隊第9中隊の10センチ榴弾砲4門、師団整備隊などが配置されていた。
ここでは何か戦闘があったというわけではない。
ここに「いたことがある」というだけである。(笑)
重見旅団長以下は、ここからサンマニュエルに部隊を引き上げて、サンマニュエルでの決戦に臨んでいる。

本道上を進むが・・・小さな集落が、次々と現れては消え、どれがサントドミンゴなのかわからない。
タブレットの地図にも集落の名前が記されていないのでわからない。
と・・・目の中に『サントドミンゴ』の文字が飛び込んだ!
「ストップ!ストップ!ここだ!サントドミンゴ!」

サントドミンゴ小学校 サントドミンゴの集落

「良くわかりましたねぇ~」と“ステラさん”が驚いた。
「だって、サントドミンゴ小学校っていう看板が見えたんだもんね!」(笑)

ここを過ぎて、すぐにサンマニュエル(サンマヌエル、サンマニエル・・・どの表記が正しいかわからないが・・・)の町に入る。

サンマニュエルの入り口のゲート

WELCOM
SAN MANUEL
POBLACION

ゲートに書かれている「POBLACION」とはフィリピンでは市町村の中心地区を意味する行政区分を表わす単語である。
ただし、同じ「POBLACION」でも、これがチリという国では「スラム街・貧民街」という意味になる。(大汗)
ここサンマニュエルはスラム街ではないことは確かだな・・・・(苦笑)

ここ、サンマニュエル訪問の目的は、戦車第7連隊を中心とする将兵の慰霊である。
私は、ここに来るのは初めてである。
我が戦車第2師団の戦友会の会長は、ここで戦死された戦車第7連隊の前田連隊長のご子息・・・
いつも、どこで慰霊をされているのかを教えていただいた。
その場所に無事に到着できるか・・・
が・・・“ドミンさん”が、その場所を知っているという。
いやぁ~大助かりである。
一応、前田会長からは慰霊場所の略地図を頂いているが、うっかり間違えるかもと少々心配だったのである。
地図と“ドミンさん”の案内とダブルチェックならば大丈夫だろう。
“ドミンさん”が「ここでいつも慰霊をしている」と場所を教えてくれた。
確かに間違いない・・・略図の通りである。

慰霊場所の前の道路

 戦車第7連隊が全滅した場所(推定)

で・・・問題は、私のほうである・・・
お線香を持ってくるのを忘れた!(大涙)
いつも、スーツケースの中にはお線香を入れたままにしているので、確認もせず家を出てきたのだが・・・
なんと!いつの間にかスーツケースから出してしまっていたようである。
いくら探しても、いつもお線香を入れているポーチが見つからない!
やっちまったぁ~
大ドジである。
何をしに来たんだ・・・フィリピンに・・・・(大涙)

というわけで・・・“ドミンさん”が買ってきてくれた蝋燭をお線香代わりに立て・・・
前田連隊長はお酒が好きな人だったので、バギオで“ステラさん”にウィスキーを買ってもらったので、それを供えて・・・
ささやかな慰霊をする。
う~ん・・申し訳ございません・・・(涙)

ささやかな慰霊・・・

我が戦車第2師団は、そもそもは満洲の原野でソ連軍と戦うために訓練をしてきた部隊である。
それがフィリピンへ送られ、米軍と戦うことになったのである。
戦うなら戦車師団一丸となって・・・というのが本望であろう。
それが、各連隊がバラバラに配置され、更には中隊単位で分散配置。
歩兵を掩護しながら夜間に突撃という、訓練を積み重ねてきた本来の形とは全く違う用法で各個撃破されてしまったのである。
戦車の用法も知らぬ方面軍の参謀が命令を出すが、それが一転二転・・・
いつもの日本軍の悪い癖である。
日本軍が戦争に負けたのは、彼らエリートと呼ばれる、本当は頭が悪い参謀達のせいではないかと思わざるを得ないのである。
現場の判断を重視すればいいものを、余計な口を出し威張り散らしたのだろう。
方面軍の指揮に従うことをためらう重見少将を罷免しようとさえしたのである。
これを庇っていいはずの戦車第2師団司令部は、方面軍と現地との板ばさみになり、どうも積極的に重見少将を擁護しなかったようである。
縦社会というか、官僚主義の弊害というか・・・
結果的には重見少将の部隊を見殺しにしたこととなる。

昭和20年1月9日に米軍がルソン島に上陸した時点での戦車第7連隊の兵力は約870名、戦車は70両であるが、このサンマニュエル地区に集結した時の兵力は約700名、戦車は55両である。
その後のウルダネタ、ビナロナンの緒戦で、約80名の将兵を失い、約50名の負傷者を出した。
特に小隊長以上の幹部将校の多数を失ったため、実際の戦力は半減に近い状態となる。
また、戦車も33両に減ってしまったが、しかも、それは使用不可能な戦車も数両含まれての数字である。
重見少将は、このサンマニュエルを死に場所と決めて死守を命じる。
これに前田戦車第7連隊長も賛同して、ここを“最後の陣地”とした。

昭和20年1月19日午後からサンマニュエル地区に敵の砲弾が落ち始める。
これがサンマニュエル地区の戦闘の始まりであろう。
連日の攻防戦で次々と戦車と兵を失い、最終段階を迎える。
1月27日午後11時過ぎ、総攻撃開始・・・・
参加したのは残存戦車11両・・・
28日の午前0時を過ぎたころ、前田連隊長の戦車が敵弾を受け連隊長は車内で戦死した。
午前2時過ぎごろ、前田連隊長の突撃とその最期の様子を見て、重見少将は旅団長用の戦車に乗り込み、突撃を敢行するが、たちまち敵の砲弾を浴び重見少将も戦死したという。
陸軍の高級将校の中で、敵に向かって突撃を敢行して戦死した人は、重見少将だけではなかろうか?
壮絶なる最期である。
この攻防戦で、かろうじて生き残った戦車は3両・・・
この3両に負傷兵を乗せ撤退・・・・
これをもって、サンマニュエルの攻防戦は終焉を迎え、戦車第7連隊は実質壊滅した。

お供えしたウィスキーを地面に撒いて慰霊とする。


  


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