5.捜索第10連隊の戦跡

(サンニコラス・カバリシアン・タユグ・クラーク)


平成24年(2012年)10月17日・3日目

サンマニュエルから、各自バラバラに撤退した生き残りの将兵たちは、ここから東のサンニコラスまで行き、そこから更に後方へ移動したようである。
戦車師団には、他の歩兵師団のように野戦病院というのは設置されていない。
戦闘になると「患者収容隊」というのを臨時に編成して、負傷兵は他の部隊の編成下にある病院へ移送されるのである。
祖父の部隊は、サンニコラスで、これら生き残りの兵を後方に送ることもしていたようである。

サンマニュエルからサンニコラスまでは真っ直ぐ道が伸びているが・・・・
途中に大きな川が流れていて、現在はここには橋は架かっていないようである。
当時はここに橋があったかどうかはわからない。
この道の感じでは、橋があったと思うが・・・
橋がないんじゃ仕方がない・・・橋があるところまで迂回して川を渡るしかない。

なにせ戦後60年以上も経っているので、こういう戦跡めぐりは難しい。
道路が当時の道路なのか、戦後“付け替え”られたものなのか・・・
「椰子の林の中に戦車を隠し・・・」とか「竹林のところに終結して・・・」など、当時の様子を伝える資料に書いてあっても、現在は、椰子の林も竹林も見当たらないのである。(大汗)
「町の郊外に・・・」とあっても、戦後、町が大きくなっている可能性もある。
当時は「郊外」でも今は町の中に含まれてしまっている可能性もある。
生還者に同行してもらい、説明を受ければ、少しは違うかもしれないが・・・
それは今となっては無理である。
自分の経験と勘に頼るしかない。(涙)

我々は、一度南下して橋を渡り、再度北上してサンニコラスの町に向かうことにする。

橋を渡る・・・・

サンマニュエルを出発して30分ほどでサンニコラスの町の入り口に到着する。

サンニコラスの町の入り口のゲート

SAN NICOLAS

ここサンニコラスは戦車第7連隊などの生き残りの将兵が撤退してきた場所でもあるが、私の祖父がいた場所でもある。
私の祖父は、ここに配属部隊をもらい約600名で防御陣地を敷いていたのである。

約5分ぐらい走って、サンニコラスの町の中に到着。
ここは町の中心にあるメインストリートに面して町役場(市庁舎かな?)がある。
多分、ここに祖父は連隊本部を置いたと思われる。

サンニコラス町役場前のメインストリート

この道を真直ぐ向こうに進むと「タユグ」という町に向かう。
この写真の一番奥を右折すると、「サンマニュエル」の町に向かう。
SAN NICOLAS MUNICIPAL HALL (サンニコラス町役場)

この市庁舎のすぐ近くに高校がある。
「レッドアロー・ハイスクール」と言うが、このレッドアロー(赤い矢)とは、この地を攻撃した米第32歩兵師団の愛称である。
米軍の部隊の愛称が今も高校の名前として残っている。

ここに米軍の最初の砲弾が飛んできたのは、昭和20年2月1日のことである。
ここには、戦車第2師団の戦車第10連隊もいたはずだが、転進命令を受けて後方に下がってしまい、結局、祖父の捜索第10連隊だけが残り、その後、米軍1個師団相手に激戦が展開されることになるのである。

町役場前からカバリシアン川方向(東の方角)を見る。
9年前と変わらず閑静な町である。

ここから真っ直ぐ東に向けて走る。
この道沿いに、「サンタマリア」などのいくつかの集落がある。
戦史によっては、祖父が配備されていた場所がサンニコラスだったりサンタマリアだったりするのだが・・・
正確には、サンニコラスに連隊本部を置いて、サンタマリアなどに分散配備していたのではないかと思う。
この先がカバリシアン川・・・・
その川を渡ったところに祖父は物資を集積して防御陣地を構築していた。
ここを“ドミンさん”と訪問したのは平成15年・・・
9年ぶりの再訪問である。

カバリシアン川の渡河地点

到着してみたら・・・あららららぁ~・・・である。(唖然)
かなり荒れちゃっているというか何と言うか・・・・
“ドミンさん”の話によれば、以前、大きな地震があり、そのせいでかなりの被害を受けたのだというが・・・
地震による被害というより、台風か大雨で川が大氾濫を起こしたという感じである。

我々の岸側は以前より軽く2mは“かさ上げ”されていている。
どうも堤防を作り直したらしい。
川に吊橋が架かっているのは、9年前と同じだが、かなり高さが高い。(汗)
コンクリート製の橋脚の土台はあるのだが・・・いつになったら恒久的な橋が出来るのやら・・・である。

目を橋の右にやる・・・

向こう岸の森のようになっているところに、以前は民家が1軒あったのだが・・・・それが、ない!
9年前、ここの庭のマンゴーの木を眺めていたら、家の人が出てきてマンゴーを取って私にプレゼントしてくれたのである。
その思い出話を“ドミンさん”にしたが・・・彼は全然覚えていないという。(唖然)
あの家の人・・・大丈夫だったのだろうか?今はどうしているのだろう?

更に目を右にやる・・・・

川が大きく湾曲している・・・・
向こう岸には、9年前には結構高い堤防があったのだが、ザックリと削り取られている。
決壊したようである・・・・
9年前には、あそこを歩いてグルリと向こう側まで行ったんだけどなぁ~
今回は無理なようである。

さて・・・ここで問題が・・・・
吊橋である・・・(大笑)

 吊り橋

この吊橋を渡らねば向こう岸には行けない。
が・・・私は高所恐怖症なのである。(大涙)
2mぐらいの高さでも腰が抜けるほど怖いのである。
しかも・・・なに・・・これ・・・
この竹を割った“床”・・・・隙間だらけじゃない?
もし、この竹の板がパキッって割れたら、ストンって墜ちちゃうんじゃないの?(大汗)
“ステラさん”は「私はここに残りますからぁ~」と・・・・逃げた・・・(唖然)
ドライバーも・・・同様・・・
う~ん・・・・(涙)
「怖いんですけど・・・じゃぁ、行ってくるね・・・」(涙)
みんなは・・・・苦笑・・・・

恐怖心に打ち勝って、何とか向こう岸に渡り終えた。(大汗)

そこには米第32歩兵師団の記念碑が建っている。
が・・・かなり傾いている・・・

米第32歩兵師団(レッド・アロー)の記念碑

この記念碑は、昔の写真を見るとかなり背が高い記念碑なのである。
三段重ねで、3メートル近くの高さがあったのではなかろうか?
台座も含めて、今、地表に出ている長さの2倍はあると思う。
9年前に来た時も、かなり埋まっていたが、銘板は読むことが出来たが、今回は更に埋まっていて銘板も埋まってしまっている。
この記念碑・・・・
建立されたのは、1945年(昭和20年)の5月である。
この先にあるサラクサク峠の攻防戦が終盤を迎えたころで、まだ我が軍は戦っていた。
米軍がサラクサク峠の戦闘の終結を宣言したのは5月末である。
ということは・・・終結宣言と同時に建立したということになるか?
なんとも手回しの良いことである。(唖然)

米軍の記念碑の後ろの丘に、当初、祖父の部隊の物資集積所があった。
9年前に来た時は民家が建っていたが・・・・今では消滅している。
地震のせいで被害を受けたのだろうか?
祖父たちは、この丘から後方に向かって重層に第一線陣地を構築していったのである。

ここはサラクサク峠への西の登り口にあたる。
1880年代にスペインの宣教師が造った道だという。
水牛が通れる程度の道だったというから「けもの道」に毛が生えた程度の登山道だったのだろう。
ここに米軍が攻撃を仕掛けてきた・・・
その兵力は1個師団なので軽く1万名は超える・・・
それに対する祖父たちは600名・・・・(大汗)
普通なら2日と持ちこたえられるわけがないのだが、この「けもの道」に祖父たちは助けられたといってもいいだろう。
敵も一列にならなければ、やって来れないだろうし・・・
連日の猛砲撃を受けながら祖父たちはジワジワと後退・・・
時間稼ぎをしている間に、今年の4月に私が登ったサラクサク峠では、戦車を失い歩兵化した戦車第2師団と配属部隊の将兵が防御陣地を構築したのである。
祖父たちがサラクサク峠に到着した時には兵力は80名ほどまでに減っていたという。
ということは、ここからサラクサク峠までの間に約500名の祖父の部下たちが戦死したということになる。

当時の山道は、多分、戦闘中に米軍のブルドーザーで拡幅されたと思うが・・・
今では、その道も崩落して殆ど痕跡を留めていないらしい。
“ドミンさん”が後から橋を渡ってやって来た。
来年当たりに、ここからサラクサク峠に向かって道路が開通するという。
しかし・・・9年前にも同じようなことを言われた記憶があるんですけど・・・(苦笑)
今回こそ本当に道路が出来るのであれば、是非、そこを走ってみたい。
戦後の遺骨収集団もここでは遺骨収集をしていないようである。
ということは・・・500名もの祖父の部下たちが眠っているのである。
是非、慰霊をしてあげたい・・・・

さて、そろそろお昼である。
元来た道を戻り、「タユグ」という町で食事をすることにする。
この町は、昔も今も交通の要衝となっている。
かなりの賑わいである。

9年前にここを通過したときは、大きな市場があったような記憶があるのだが・・・
今は近代的なショッピングセンターのような建物に変わっていた。(驚)
ここのファストフード店で4人で昼食を食べる。

昼食

チキンの照り焼きのセット、コーラを付けて・・・・約100ペソ(約200円)だったかな?
これに2品ほど別に頼んで・・・4人でも600ペソ(1200円)ぐらいだったような気がする・・・
なにせ、経済観念がない男なので・・・金額をあまり気にしないで支払ってしまうのである。(大笑)

昼食を食べたお店の前の道
TAYUG TOWN HALL

昼食を食べたお店の裏にタユグの町役場があった。

とりあえず・・・
今日の予定は全部済んだ!(喜)
ここからは一気にクラークに向けて南下する。

途中で、“ドミンさん”と別れる。
彼は、今回の私の同行を兼ねながら親戚宅を訪問して、またバギオへ戻るという。
「では!また!」と別れる・・・・
82歳・・・どうか長生きして欲しい・・・
また会いたいね・・・・

タユグを出発して約3時間後・・・
クラーク地区に到着!
まだ時刻は午後3時半である。

来週、ここの「リリー・ヒル」という丘で、神風特別攻撃隊の慰霊祭が行われるという。
その時に私の知人の“亀井さん”も来るのだそうで、ガイドとして空港から同行を求められているのが“ステラさん”
しかし、“ステラさん”はこの「リリー・ヒル」の場所を知らないという。(唖然)
私ももちろん行ったことはない・・・
というわけで、私のタブレットの地図を頼りに、「リリー・ヒル」を探して行って見ることにする。
来週のための下見である。(笑)

リリーヒル 平和観音


平和観音宮

パンパンガ州マバラカット町クラーク地区
 1998年(平成10年)10月25日、日本の高僧池口恵観法王とマバラカット地方自治体代表マリノP.モラレス町長は、第二次世界大戦(1941年12月
8日~1945年8月15日)中、初めて当地において編成された神風特別攻撃隊の出撃から54周年を迎えるにあたって『世界平和都市』を宣言し、かつて
航空基地群があり、遊撃部隊『建武集団』が最後の要塞を築いたこの地リリーヒルに、恒久平和を誓って平和観音宮を建設しました。大戦末期の1945
年1月初め、すべての航空機を失った在クラーク地区日本陸海軍約3万の将兵(陸軍17,000、海軍12,000)は、塚田理喜智陸軍中将を長とした『建武集
団』を新設し、リンガエン湾から上陸してマニラへ向かうと予測された連合軍を側背面攻撃するよう備えました。陸海軍ともに基地員を中心としたこ
の混成部隊は、当地の要塞を死守しようとして敗退。残存兵力は、山岳地帯にこもって1945年9月20日まで抵抗し、一部を除くほとんどの将兵が玉砕
しました。
リリーヒルにおける建武集団司令部の主な構成員は、以下の通りです。

陸軍

 塚田理喜智中将
 鈴木嘉一大佐
 長治幸中佐
 高山好信中佐
 高屋三郎少佐
 藤田幸次郎少佐
 上井藤雄少佐

 牧重雄大佐
 岡田安次大佐
 小笠原尚中佐 
 江口清助中佐
 柳本貴教少佐
 井谷菊雄少佐
 樋口次三郎少佐

海軍

 杉本丑衛少将
 中村子之助大佐
 吉岡忠一中佐
 宮本實夫中佐
 瀬戸口熊助中佐

 近藤一馬機関中将
 佐多直大大佐
 松本眞實中佐
 舟木忠夫中佐
 中村正義大尉
(防衛庁戦史叢書『捷号陸軍作戦Ⅱルソン決戦』防衛研修所戦史部編を参照) 
  
 なお、マバラカット町観光事務所およびクラーク開発公社はフィリピン軍民、連合軍および日本軍将兵の霊を慰め、この悲惨な戦争の歴史が二度と
くりかえされないよう祈り、フィリピンと日本両国の平和と友好を促進するために平和観音宮の設置を支援しました。
マバラカット町観光事務所長 ガイ インドラ ヒルベロ  マバラカット町長 マリノ P. モラレス
マバラカット町議会議員一同 マバラカット町助役 プロスペロ ラグマン
(※ 英文は省略)     

意外にも、「リリー・ヒル」は、今晩、私が宿泊するホテルのすぐ近くだった。(大笑)
ここは、英語名では『Goddess of peace shrine』と言うらしい。

この「建武集団」には、我が戦車第2師団から機動歩兵第2連隊の1個大隊が配属されている。
「柳本大隊」と称するが、この地区では唯一まともな戦力を持っていた歩兵部隊と評されていたというが、大隊は壊滅・・・柳本大隊長は生還したが、平成3年に交通事故で他界された。
私が戦友会に入会する前のことであるが、今でも柳本大隊長の奥様とはお手紙のやり取りをさせていただいている。
いつも私のことを気遣ってくださる奥様なのである。
あ~・・・柳本少佐の名も碑文に刻まれている・・・・
知らなかったこととはいえ、今までここに参拝に来なかったとは迂闊であった。
偶然にも大隊長のお名前を拝見し、感無量・・・・
会いたかったなぁ~大隊長さんに・・・・

今回宿泊するホテルは、クラーク地区にあるホテルで、初めて利用するホテルである。
なんとも洒落た外見をしている。
スペイン風っていうのかな?
チェックインして、早速・・・・コーヒー!(大笑)
いやぁ~飲みたかったぁ~・・・コーヒー!
ドライバーと“ステラさん”と3人でコーヒーを飲んで一息つく。

HOTEL STOTSENBERG

(ホテル・ストッチェンバーグ)

今日のドライバーの宿泊は・・・
ここは昔、米軍の基地だった場所で、その面影が今も残る、ちょっと隔離されているような地帯である。(苦笑)
ホテル代も当然高い・・・
というわけで、彼にはホテル代と夕食代を渡して、この区画の外のホテルを適当に探して泊まってもらうことにした。
夕食も3人で食べたいところだが、わざわざそのためだけに戻って来てもらうのも悪いので、一人で自由に食べてもらうことにした。

今晩の夕食は6時半にホテルのレストランということにする。

夕食

食事後、3階にある部屋に戻ろうと“ステラさん”と一緒に、廊下を歩いていたら・・・
いきなり停電!(驚)
真っ暗である!
ホテルの従業員が駆けつけ、自家発電機を稼動したので、とりあえずの復旧はしたが・・・
我々は、あと数秒でエレベーターに乗るところだったのである。(大汗)
エレベーターの中で停電に遭っていたかも知れないと2人で大笑い。
そしたら、多分パニックを起こしていただろうね!(大笑)
間一髪だった・・・・

困ったことに・・・全館禁煙である・・・(涙)
いやぁ~どこもかしこも禁煙、禁煙・・・
なんたることか・・・
ベルボーイに尋ねたら、1階のプールサイドなら灰皿があるのでタバコが吸えると言う。
いちいち、1階まで降りてタバコを吸わなければならないのかぁ~・・・・不便なり・・・(涙)

今晩も、マッサージを呼ぶ。
毎日マッサージ・・・・(笑)
なんと贅沢なことか・・・
至福のひと時・・・という奴である。(笑)


  


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