北部ルソンの戦跡(1)

(ムニオス・サンホセ・プンカン)


 平成24年(2012年)4月26日 (2日目)

朝食をホテルのレストランでとる。
ん?以前泊まった時と違うぞ・・・
「う~ん・・・ずいぶんサービスが落ちたねぇ~」
「そうですか?」と“ステラさん”・・・
「うん、以前は、ここにキュウリのスライスが3枚乗ってたけど、今回は乗ってない!」(笑)
「変なところを良く覚えてますねぇ~」と笑われた。(大笑)






朝食





(平成24年4月26日)

午前8時、ホテルを出発。
北上する!
さぁ!ここで我が新兵器の登場である!
ドコモのタブレット!
さぁ~どこまで地図の表示がされるか・・・・
今までは、こういう便利なものを持っていなかったので、どこをどう走っているのか、何度来ても、さっぱりわからなかったが・・・
いやぁ~これは便利!(喜)
地図に現在位置が表示されている!
おお、おお、車の移動と合わせて、現在位置の印も動いている!(喜)
が・・・これ・・・どうなっているんだろう?
「パケット」っていうのが、かかっているのかな?
「海外パケ放題」とかっていうのに設定しておいたと思うが・・・(汗)
使い方をよく知らないのに使っているのである・・・
日本に帰ってからトンデモナイ金額を請求されたらどうしようと、ちょっと不安になったが・・・
この便利さは止められない。(大笑)
えぇぃ!なるようになれ!・・・・である。

過去に何度も通ったことがある道だが、以前はよくわからず通過した町・・・・ムニオス・・・
ここは我が戦車第2師団(撃兵団)の戦車第6連隊が大激戦を演じた場所。
で・・・戦車は壊滅・・・残存兵は歩兵に改編されて山奥で戦う羽目となった。

タブレットの地図を見ながら・・・「ここ!このあたりでストップ!」と車を止めさせる。
いやぁ~本当に便利だぁ~・・・買ってよかったぁ~(大喜)

戦時中、ここには「ムニオス駅」という鉄道の駅があった。
今は線路も取り外され、鉄道も駅も消滅している。
地元の方に尋ねたら、この道の向こう・・・奥のほうの右側にガソリンスタンドがあって、その裏が駅のあった場所らしい。
鉄道の線路は、この道路と並行して走っていたが、今は何も痕跡が残っていないとの事・・・
とにかく、駅の位置が分かれば次の戦跡を探すのに好都合である。(喜)

地元の人とおしゃべりをして、車に戻ったら、ステラさんが笑って、こう言った・・・・
私はタバコを吸いながら、しゃべっていたのだが、火を消した後、吸殻を持参した携帯灰皿に入れた。
それを見て地元の方が、「他の人は平気で吸殻を道端に棄てるが、さすがは日本人だ。吸殻を棄てなかった。たいしたもんだ」と感心して言っていたと報告してくれた。
いやぁ~しっかりと観察されていたとは・・・(大汗)
吸殻を“ポイ棄て”しなくて良かったぁ~(笑)
一人の民間人の行動で、その国の印象が決まってしまうのである。
我々は心して海外旅行をせねばならないと、改めて思った。

二股に分かれている道路の真ん中にある緑色の屋根の建物・・・・
この建物の場所に、当時は速射砲(対戦車砲)と野砲が展開していた。
右側の道がメインの国道である。
左の道の左側にも速射砲が1門・・・その後ろには戦車第6連隊第3中隊第2小隊(高倉小隊)の戦車が展開。
この左の道のもっと奥には、戦車第6連隊第5中隊(指宿中隊)の戦車が展開していた。
指宿さんは、今も鹿児島でご健在・・・多分、95~96歳くらいになられているのではなかろうか?

当時のメインストリートだったこの道(国道5号線)の右側には、戦車第6連隊第3中隊第3小隊(斎藤小隊)の戦車が「前進陣地」として展開。
小隊長の斎藤少尉は、昭和20年2月1日にこの地で戦死している。
ここには戦車第6連隊に配属された独立歩兵第356大隊(瀧上大隊)の機関銃中隊(伊藤中隊)の1個小隊が配置されていた。
瀧上大隊は、先日、山口県光市でお会いした“近藤さん”が所属していた部隊である。
この時点では“近藤さん”は、まだこの部隊に配属されていなかったので、この景色はご覧になっていないだろう。
が・・・お写真を送ってあげようかな?(笑)
道の左側奥には、戦車第6連隊第5中隊第3小隊(柴田小隊)の戦車が展開していた。
小隊長の柴田少尉は、昭和20年2月3日に、この地で戦死。

さらに、もう少し車を進めて、再び止める。

正面に見えるガソリンスタンドの裏あたりに「予備部隊」として戦車第6連隊第4中隊(渡辺中隊)の戦車が待機していた。
中隊長の渡辺中尉は、昭和20年2月9日にこの地で戦死している。
ムニオスの町の奥のほうまで行きたかったが・・・
そっちに行くと私が向かっている方向とは逆方向となる。
この「国道5号線」沿いの陣地跡の確認だけでやめておくことにする。

この「国道5号線」、ここから、この先の「旧・農学校」までの約4kmに独立歩兵第356大隊(瀧上大隊)が配置されていた。
たぶん・・・第1中隊と機関銃中隊だったと思うが・・・
僅かな兵力で4kmもの間を守るというのだから信じられない・・・・

戦車第6連隊は、第1中隊をレイテ島へ派遣、第2中隊は大室支隊に配属となってゴンザレスにいたので、この地で戦ったのは・・・・
連隊本部(九七式中戦車5両、九五式軽戦車2両)
第3中隊(九七式・改・中戦車11両、九五式軽戦車1両)
第4中隊(九七式・改・中戦車8両、九五式軽戦車1両)
第5中隊(九七式中戦車11両、九五式軽戦車1両)
整備中隊(九七式・改・中戦車4両、ほかトラック)
・・・であるとされている。
ここには昭和20年1月26日ごろに来て配置につくが、1月31日から米軍の攻撃を受け・・・・
早くも2月2日には連隊長の井田大佐は戦死、指揮班長の高橋中佐が連隊長代理として指揮を取った。
戦闘は2月6日まで続き、戦車は壊滅、2月7日に戦車車載の重機関銃と弾薬を持って撤退・・・
ドバックスへ向かい、その後、歩兵に改編された。

破壊された戦車・・・どこへ行っちゃったかなぁ~
戦後、くず鉄として売られちゃったんだろうなぁ~
あ~・・・・なんとも寂しい・・・・

旧農学校(現:セントラル・ルソン州立大学)前の景色

戦時中は「農学校」と呼ばれた場所・・・
現在は「セントラル・ルソン州立大学」となっている。
ここにはフィリピンでも珍しい「歩道橋」がある。
「国道5号線」上で、歩道橋があるのは、ここだけだと思う。

「旧・農学校」前の国道を更に北上すると「サンホセ」に至る。
今晩は、「マリコ村」の“オマリオさん”の家に泊めてもらうことになっている。
で・・・“ステラさん”が・・・「食糧とかは、どうすることになっているのですか?」と言う。
「さぁ~、どうなってるんだろう?」
「え~?何も決めてないんですか?」
「はぁ・・・ただ、泊めてくれって頼んであるだけ・・・」
“ステラさん”に呆れられる。(大笑)
食糧も何も持たずに・・・というのも問題だろうということになり・・・(大笑)
ここ「サンホセ」のスーパーマーケットで買い物をすることにする。

サンホセの町の中

ここ「サンホセ」は要衝の地・・・・
戦時中には、北部ルソンへの中継地点でもあり、ここには多くの軍需物資が集められ、道の両側に積み上げられていたという。
が・・・・緒戦で早くも米軍の空爆を受け、集積した物資が燃え上がる。
バカである・・・
こういうところが、エリートと言われる連中、上級司令部の考えていることが解らない点でもある。
ただ集めておけばいいというものではあるまいに・・・
秘匿しておかねば空爆で灰燼に帰すのは、あたりまえではなかろうか?
日本軍は貧乏であるという自覚がない・・・あ~なんともったいないことか・・・
細かいところが雑である。
これは官僚主義のなせる業ということか・・・

この町は、米軍の空爆・砲撃で焼け野原となった・・・






サンホセのスーパーマーケット





(平成24年4月26日)

さて・・・スーパーでの買い物・・・
何を買えばいいかが全然解らないので、全て“ステラさん”に任せる。
支払いは私なので、やたら気を遣う。
「これ、いいですか?」・・・
経済観念のない私である・・・なんでもいいんですけどぉ~(笑)
いくら買ったって、何万円も・・・というわけではあるまい?
必要だと思うものはドンドン買おうよ!(大笑)
レジに並んでいたら・・・
“ステラさん”・・・日本のキッコーマン醤油のペットボトルを別に持っている。
「あ、それも僕が支払ってあげるよ」
「いえ、これは余ったら自宅に持ち帰って自分で使うので、自分で出します」と言う。
大した金額じゃないから私が出すといっても遠慮する。
公私に厳しい人である。
他のフィリピン人とちょっと違う・・・
だから好感が持てるし・・・長い付き合いが続いているのだと思う。

ここ「サンホセ」には鉄道の駅があった。
だから多くの物資をここに送り込めたわけだが・・・・
終戦後は、この駅から多くの日本兵が捕虜収容所へ送られた。
その駅舎は、「ムニオス」とは違って、今も残っているはずである。
10年近く前に訪れた時には・・・倉庫みたいになっていた。
“ステラさん”も、この駅舎のことを知っているが・・・二人して「どのあたりだっけ?」・・・・(笑)
「あの路地を入ったところだっけ?」という有様で、記憶が蘇らない。
歳は取りたくねぇもんだぁ~と二人で大笑い。
今回は、駅舎を見るのが目的じゃないから・・・通過する!

「サンホセ」の町を抜け、更に北上!
ここから山のほうへ向かう形となる・・・・

ドコモのタブレットで地図を見ながら移動・・・
国道がちょうど直角に曲がるところがある。
そこが「キタキタ」という場所・・・
ん?聞いたことがある地名である。
たしか・・・ここに「サンホセ」から撤収した部隊や持ち出した軍需品が一時滞留していた場所だったと思う。
小さな集落である。

ここから更に、もう少し北上すると「タヤボ」という集落・・・・
ここは「キタキタ」より、もう少し大きな集落である。
本隊とは別に「ゴンザレス」に派遣されていた戦車第6連隊第2中隊は現地で壊滅したが、戦車3両が、この地点まで脱出している。
指揮をとっていたのは戦車第6連隊第2中隊付きの吉村准尉。
この戦車は、その後、更に北上し、「サンタフェ」に向かい、『戦車撃滅隊』に配属となり全滅した。
吉村准尉(のち少尉)は6月2日に「サンタフェ」方面で戦死している。

「ムニオス」で戦っていた本隊からは脱出した戦車はなかったようである。
当時、「ムニオス」では、壕を掘って戦車を半分埋め、砲塔だけを地上に出して戦うという戦法をとっていた。
この戦法で、米軍のM4シャーマン戦車を何両か撃破しているという。
が・・米軍の砲撃は熾烈を極める。
20分間で4,000発もの砲弾が飛んで来たという記録もある。
(多少、誇張されているかもしれないが・・・・かなりの砲撃だったことは確かだろう)

連隊及び戦車第2師団司令部は後退を具申。
ところが山下将軍の第14方面軍司令部の幕僚達がウンといわない。
「死守せよ」の一点張り。
戦車の用法を知らないバカが命令を出すのでは勝てる戦も勝てまい。
ようやく2日後に後退の許可が出たが、時既に遅し・・・である。
脱出しようとしても、長時間、壕の中に置いていたのでなかなかエンジンがかからない。
昼間では狙い撃ちされるので、移動は夜間にしか出来ない。
静かに移動したくても、低速始動ではエンジンがかからないから、思いっきりエンジンを吹かして始動するしかない。
グワァ~ン、グワァ~ン・・・ドドッ、ドドッ、ドドドドドッ~!・・・っていう感じだったのかなぁ~
と・・・その音を聴きつけて米軍が照明弾を打ち上げ、猛烈な砲撃が始まる。
エンジンをかけた途端に隠れていた場所がバレて、移動も出来ぬまま炎上する戦車が続出・・・
うまく始動できて移動が開始できても、この当時、周囲は竹薮と湿地に囲まれていたという。
今では竹薮は見当たらないが、湿地帯は田んぼとなって面影を残している。
湿地帯は日本の戦車は走れない。
1本道の道路を一列になって走るしかないので、先頭車両がエンストすれば、後続車も停止・・・
そこを狙い撃ちされ、壊滅・・・である。

生還者は、あと2日早ければ・・・あの時、素直に後退を認めてくれていたらとの思いが残ると言う。
脱出ルートの研究不足も否めないと言う・・・・
「退くこと知らない日本軍」である。
勇猛果敢も結構ですが・・・
いざ、猛烈な砲撃を受け、敵戦車の攻撃を受け、一旦退いて態勢を立て直したくても、脱出ルートを研究していないから、どうしようもない。
真面目に1本道を下がることしか知らないから、これでは撃って下さいとお願いするようなものである。
ゲームセンターの射的より始末が悪い・・・

あ~あ~もったいないなぁ~
ここまで他の戦車も後退して来ていたらなぁ~・・・と思う・・・・

更にもう少し北上すると、「プンカン」という場所に着く。
ここに、日本軍の慰霊碑があるのだが・・・
あっ・・・通り過ぎちゃった!(汗)
拙者は全く気付かず、“ステラさん”が気付いて、車をUターンさせる。

プンカンの慰霊碑

道路脇の民家の敷地内に慰霊碑がある。
2年前にご遺族を北部ルソンに案内したときにも立ち寄ったのだが・・・・
この民家の前の道路・・・・
こんなに広かったかなぁ~(汗)
もっと周囲は木に囲まれていて、鬱蒼としていたような気がしていたのだが・・・・
人間の(というより、私の?)記憶なんて当てにならないものである。(汗)
これでは、うっかり通り過ぎても気がつかないはずである。
たった2年前に訪れた場所を見落としてしまうんだから情けない。

ここ「プンカン」は激戦地の一つである。
ここには当初、私の祖父の部隊が配置されることになっていた。
が・・・現地を視察して、祖父が(多分、部下からの進言だと思うが)、この地は防御に適していないと上層部に具申した。
参謀にも現地に来てもらい、実際に現地を見てもらいながら説明したところ、この具申が受け入れられて、祖父の部隊はこの地には配置されず、別の場所へ移動することになったのである。
この「プンカン」・・・・
道路の両脇に丘が聳え、ここから道路上の米軍を狙い撃ちにできるし、一見、防御しやすいように見えるのだが・・・
この丘が南北に少し細長く、南に張り出しすぎているため、逆に米軍がその外側から包囲しやすいため、防御どころではなく、逆に丘の裏側から浸透されて守りきれないというのが祖父の部隊の見解だったようである。
祖父の部下達は中国大陸で戦っていた実戦経験者だし・・・・
祖父は一兵卒から連隊長になった人なので、師団でも一目置いていたようである。
だから、具申が受け入れられたのだと思うが・・・

なぜか師団司令部は、祖父が去った後に、この場所に別の部隊を配置したのである。
どうして、そういうことをしちゃったのかなぁ~!(怒)
祖父達の予想通り、ここ「プンカン」に配備された部隊は、周囲から米軍に浸透され、壊滅した。
どうして祖父達の具申どおりに、この場所を防御陣地に不適だと諦めなかったのか・・・
その通りにしていれば、彼らはここで死なずに済んだのである。
うまくすれば、その後も生き抜いて、戦後、無事に日本へ帰れた人もいたかもしれない。
少なくとも、そのチャンスはあったのではないだろうか?

一説によれば、他の参謀が地図だけを見て、ここに決めたと言う。
使用したのは5万分の1の地図らしいが・・・
私も、現在発行されている5万分の1の地図を持っているが、ここ「プンカン」には何も書かれていない。
当時の作戦用の地図がどういうものだったかのかは知らないが、どうもここ「プンカン」に“ポチッ”と「丘らしきもの」があったので、ここがいいだろうと決めたのだとか・・・
この「プンカン」から更に北上すると「バレテ峠」がある。
その「バレテ峠」が主抵抗陣地となるので、その峠に向かう手前に前進陣地を設けなくてはということで、ここを選んだらしい。
前進陣地としたここは、その後、主抵抗陣地の一部として組み込まれたが、お粗末な場所のため、あっけなく守備部隊は壊滅した。
後方陣地を構築するための時間稼ぎをするというのも、ここに守備隊を置いた理由の一つだろうが・・・
その犠牲は大きい。

私は、それがなんとも悔しいのである。
祖父達が、防御に不適な場所だと言っていたのに・・・・
どうしてそこに兵を置いてしまったのか・・・
第10師団の更に上層部である第14方面軍の指示だと、当時の師団参謀が私に話してくれたことがある。
現地にも来ず、お粗末な地図だけで決めてしまったのであろう。
彼らのお粗末な“作戦”で死んだ兵達を弔ってやらねば・・・
というわけで、私はここを通るたびに必ず慰霊碑にお線香をあげて、お参りをすることにしている。

内藤大隊並金子中隊追悼之碑 歩兵第十連隊比島戦没者追悼之碑

ここには2つの慰霊碑が建っている。
一つは『内藤大隊並金子中隊追悼之碑』(左の写真の碑)である。
この慰霊碑を建てた人達は、自分達では分かっているからいいだろうが・・・・
「内藤大隊」とか「金子中隊」とかしか刻まれていないので、後世の人たちには何が何だか分からないだろう。
こうなると、建てた人たちだけが自己満足で建てた慰霊碑ということで終わってしまうのではなかろうか?
孫や曾孫、甥や姪で、自分の祖父や曾祖父、伯父や大叔父が、どこの大隊や中隊に所属していたかなんて知っている人はまずいないだろう。
少なくとも正式な部隊名を刻するのが戦没者の子孫のために親切だと思うのだが・・・・

ここに配置されたのは第105師団の臨時歩兵第2大隊を基幹とする部隊である。
大隊長の井上恵少佐が「プンカン守備隊」の守備隊長。
そこに第10師団の歩兵第10連隊第2大隊(内藤大隊)の2個中隊を除いた部隊が配属となっている。
というわけで・・・内藤大隊とは、歩兵第10連隊の第2大隊を指す。
大隊長は内藤正治大尉。
「金子中隊」とは、独立歩兵第356大隊の第4中隊(中隊長:金子晃中尉)のことだと思う。
先日、山口県でお会いした“近藤さん”の“瀧上部隊”である。
第4中隊は本隊から分かれて、「津田支隊」に配属となり、津田支隊は、このプンカン守備隊に配属になっている。
「プンカン守備隊」には、このほかにも第10師団から歩兵第39連隊の1個中隊、歩兵第63連隊から1個中隊、野砲兵第10連隊第1大隊(赤座砲兵隊)など、いくつもの部隊が配属されていた。
各種合わせて9個中隊だったという。
日本軍は、よくこのような編成を戦地で行う。
各部隊から少しずつ抽出して編成するのであるが・・・
これでは“烏合の衆”になりはしないだろうか?
一度も一緒に訓練や演習を行ったことはないんじゃないかな?
同じ日本軍とはいえ、顔も名前も知らない者同士、意思疎通に支障はなかったのだろうか?

ここでの戦闘は昭和20年2月9日から開始され、3月5日までに米軍(米第25師団)が完全に制圧、掃蕩を完了している。
米軍の記録では日本軍守備隊の戦死者は1250名・・・
米軍は戦死40名、負傷165名・・・・
内藤大隊に限って言うと、内藤大隊長以下戦死者は約200名、負傷者は650名である。
こういうことを慰霊碑には刻んでもらいたいが、残念ながら・・・ない・・・

もう一つの慰霊碑は『歩兵第10連隊比島戦没者追悼之碑』(右の写真)である。
ここには歩兵第10連隊の編成と、「歩兵第10連隊の戦没者は2942名で、実に92%に達している」ということが刻まれているが、全ての戦没者がここで戦死したのではない。
歩兵第10連隊の主力は、この先の「バレテ峠」で戦死しているのである。
誤解を招くような記述の慰霊碑である・・・・

ちなみに、この慰霊碑・・・十字架の形をしているが・・・
これは、フィリピン人がキリスト教徒なので、十字架の形の慰霊碑にすれば、現地住民に悪戯されたり壊されたりしないだろうということで十字架の形にしたという話を聞いたことがある。

「井上大隊」布陣跡

慰霊碑のある民家の後ろの丘にプンカン守備隊長である井上少佐率いる「井上大隊」が布陣していた。

「内藤大隊」布陣跡 

道路を挟んで慰霊碑の反対側の丘に「内藤大隊」が布陣していた。
つまり、この道路の両側の丘に陣を張って、ここで北上する米軍を挟み撃ちにしようとしたのだろうが・・・・
米軍は、ブルドーザーで道を作り、この丘の向こう側に進出して来たのである。
つまり、“もっと大きなハサミ”で逆に挟み撃ちに遭った形となる。
というわけで・・・この丘の向こう側斜面が戦闘地域となる。

大隊本部は3枚の写真の真ん中の写真あたりにあったと思う。
そこへ、別の地域に派遣されていた歩兵第10連隊第2大隊の第7中隊が応援に駆けつけた。
中隊長は佐野満寿三中尉。
斬り込み隊を編成して攻撃に向かったが、奇襲に失敗して負傷する。
第7中隊は殆ど全滅し、負傷した中隊長の佐野さんを含め4名しか生き残れなかった。

佐野中隊長は終戦後無事に日本に帰還・・・・
今から6年ほど前に放送されたNHKの証言番組に出演した。
が・・・この番組・・・趣旨が歪められていた・・・
佐野さんは放送を見た後からパタリと食事を摂らなくなり、再放送の時には「そんな番組は見るな!」と家族に怒鳴ったという。
自分の証言を、切り貼りされて、自分の思いとは別の内容に仕立てられたためだろう。
そして佐野さんは番組放送から間もなくしてお亡くなりになられた・・・・
私は、これは失意の中で自ら衰弱死することを選んだ自決だと思っている。

私は、この番組の放送前に、ご家族ともNHKのプロデューサーとも連絡を取り合っていたが、放送を見たときに、その偏った内容に驚いた。
最初から、番組の内容を決めておいて、その内容に合うように“証言”を仕向けたとしか思えない。
番組の取材を受けた佐野さんが、この内容を受け入れるはずがない。
佐野さんがお亡くなりになった直後、私はNHKの、この若い女性プロデューサーに抗議をした。
が・・・彼女は「番組は非常に好評だった」との一点張り・・・
最終的には、「番組制作会議で、当たり前の内容では企画が通らないので、わざとショッキングな内容に仕立て上げた」と認めたが・・・・
この戦場で生き残り、この世に別れを告げる年齢に達したときに、その佐野さんを失意のどん底に突き落としたNHKの罪は重いと思う。
彼女は、この番組のおかげかどうか知らないが、地方局から本社へ“栄転”したという。
私は、今でもこの女性プロデューサーのことは許せない!(怒)
どんな理由があろうとも・・・・

苦労をして、悲惨な体験をして生き残った方には、最期を迎えるときには気持ちよく旅立ってもらいたいのだ。
戦死すればよかった、生き残るべきではなかったなどとは思わせたくないのである。
それをよりによって、食事が喉を通らなくなる程の失意のどん底に突き落とすとは何事か!(怒)
この丘を見て・・・私は佐野中隊長を思い出す・・・
この世を去った後・・・佐野さんのことだから部下達の眠るこの地を訪れたことだろう・・・・
「最後の最後に、あんな嫌な思いをさせられるなら、みんなと一緒に戦死してれば良かったよ」と部下たちに話したのだろうか?
あ~・・・ため息しか出ない・・・何と言えばいいのか・・・
「畜生!」の一言しか頭に浮かばない・・・・


  


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