(バレテ峠・南ボネ・サンタフェ・イムガン)
平成24年(2012年)4月26日 (2日目) |
「プンカン」の慰霊碑をお参りして、更に北上・・・・
クネクネと曲がりくねった山道を登っていくと「バレテ峠」に辿り着く。
ここは第10師団(姫路で編成)を主力とする部隊が陣を敷いていた。
この「国道5号線」をマニラから北上する在留日本人の避難民や日本兵が通過する・・・・
その後ろから米軍が迫ってくるので、これらをこの峠で食い止めようというのが、ここに陣を敷いた理由である。
で・・・この「国道5号線」を西の方から横切って寸断しようとした米軍を「サラクサク峠」で食い止めたのが祖父の部隊と応援に駆けつけた戦車第2師団を主体とする各種部隊である。
ここ「バレテ峠」も激戦地で、慰霊碑もあるが、私は余ほど時間に余裕がない限り立ち寄らない。
他の慰霊団は必ずといっていいほどここには立ち寄るので、わざわざ私が行かなくてもいいだろう・・・という罰当たりな考えなのである。(苦笑)
が・・・今回は久しぶりに慰霊碑に立ち寄りお参りをする。
たまにはお参りしないとね・・・英霊に怒られちゃうから・・・(笑)
![]() |
日本軍の慰霊碑 (バレテ峠) (平成24年4月26日) |
![]() |
![]() |
慰霊碑のある丘からみたバレテ峠頂上付近 (写真右がプンカンの方角、右から左に向かって北上する) 道路の向こう側の山に日本軍の防禦陣地が散在していた。 |
バレテ峠の頂上の山の側面が大きく削られている。
以前、ここを通ったときは、それほど気にもならなかったが・・・・
今回はさすがに唖然・・・である。
戦跡が壊れていく・・・消えていく・・・
ただの道路の拡張なのか、それともここを平らにして何かを建設しようとしているのか・・・
![]() |
バレテ峠頂上の南側に「マブハイ・ヌエバ・エシア」のアーチ 「ようこそ、ヌエバ・エシア州へ」という意味・・・ ここから南側(プンカン方向)がヌエバ・エシア州らしい。 (平成24年4月26日) |
![]() |
こちらは頂上の北側・・・・ ここから北に向かって坂道を下りていくところにあった看板。 (平成24年4月26日) |
「ウェルカム・トゥー・サンタフェ・ヌエバ・ビスカヤ」の看板。
「ようこそ!ヌエバ・ビスカヤ州のサンタフェ町へ!」という意味だろう。
ここに写っている人は、サンタフェの“町長”(?)
とにかく、サンタフェの首長さんのようである。
この峠から北がヌエバ・ビスカヤ州らしい。
バレテ峠を下り、「サンタフェ」の町へ向かう。
途中、日本軍の大砲を置いてある場所がある。
![]() |
![]() |
日本軍の榴弾砲 |
これは日本軍の榴弾砲。
刻印が削られてしまっていて、「九」と「糎」、「榴弾砲」の文字しか判読できないので良く分からない。
ゴムタイヤ付きとなると「機動九〇式野砲」か「機動九一式十糎榴弾砲」のどちらかということになるが・・・
そもそもゴムタイヤ付きだったかどうかすら怪しい。
左右のタイヤのメーカーが違うので、ゴムタイヤは戦後に取り付けられたものではなかろうか?
廃車したトラックのタイヤを勝手にくっつけたとなると、果たして「機動」の文字が付くかどうかも怪しい榴弾砲ということになる。
口径が105mmあれば、「機動」かどうかは別として「九一式十糎榴弾砲」ということになる。
「九〇式野砲」は75mmであるから区別がつくが・・・残念ながら「巻き尺」を持っていないので測れなかった。(涙)
次回訪問時の宿題かな?(笑)
我が戦車第2師団の機動砲兵第2連隊のものだという話を聞いたこともあるが、果たして本当かどうかはわからない。
「サンタフェ」の町のなかを通り抜け、町外れにあるレストランで食事することにする。
![]() |
レストラン 「MOUNTAIN OASIS」 (平成24年4月26日) |
私が初めてこの町に来た10年以上も前には、こんな洒落たレストランなどはなかった。
いやはや、どんどん変わっていく・・・・
このお店・・・トイレが綺麗なのである!(大笑)
やっぱり旅先ではトイレが一番の問題である。
で・・・“Wi-Fi”とかっていうのも使えるのだそうだ・・・
![]() |
ビュッフェ形式の昼食 (平成24年4月26日) |
時刻は午後1時・・・
ちょっと遅い時間だったせいか、“おかず”が殆ど残っていなかったので、今日の昼食は・・・こんなものである。
![]() |
![]() |
レストランの前の道路 |
本来は、ここから山の中へ入って「サラクサク峠」へ向かうのだが・・・
“ステラさん”が、更に北上して「南ボネ」の慰霊碑のある場所まで行こうと言う。
我々は「南ボネ」と呼んでいるが、英語読みだと「ボーン・サウス」と言うらしい。
“ステラさん”の目的は、どうやらこの慰霊碑を管理している住民に何か言伝があるので、行きたいということらしい。
はい、はい、どうぞ、どうぞ・・・(笑)
どうせ気楽な旅である・・・
“ついで”がいくらあっても構わない。
![]() |
『戦車撃滅隊終焉之地』の標柱 (南ボネ) 第十四方面軍教育隊(威17669部隊) 2006年3月吉日 建立 (平成24年4月26日) |
ここは「戦車撃滅隊」の激戦地・・・・
山下奉文大将率いる第14方面軍の教育隊が主として戦った場所である。
第14方面軍の“虎の子”である見習士官の青年達が“蒲団爆弾”という座布団のような形をした爆弾を抱えて、米軍の戦車に体当たり攻撃をかけた場所。
ここには戦車第6連隊の生き残りの戦車も配属されていたようである。
![]() |
![]() |
南ボネ |
見習士官の青年達は、この道路の両脇に“タコツボ”を掘って隠れ、米軍の戦車が来ると飛び出し、敵戦車のキャタピラに身を投げて自爆したのである。
ここに配置された青年達の数は約500名・・・・
敵の戦車を数両は破壊したようだが、飛び出した瞬間、敵の機関銃になぎ倒されて体当たり攻撃は殆ど失敗したようである。
それにしても、凄まじい攻撃である。
中東での自爆テロの先駆けのようなものである。
私には無理だなぁ~
腰が抜けて、タコツボから飛び出せないと思う・・・
![]() |
慰霊碑が建立されている民家 (南ボネ) 奥の民家の後ろの丘に“尾田部隊”の中村さんが陣取っていた。 (平成24年4月26日) |
この攻撃を見ていたのが、我が戦友会の会員でもある第14方面軍の直轄部隊だった“尾田部隊”の中村さん。
中村さんは、この民家の裏にある丘に陣を張っていた。
敵の戦車がやって来たとき・・・・
まだまだ距離があるというのに、早々と次々と飛び出して敵の機関銃になぎ倒される隊員たちを見たという。
「まだ早い!」と叫んでも彼らにその声が届くわけもない。
バタバタと斃れていく姿を見ているしかなかったという。
迫り来る戦車への恐怖感で距離を見誤ったのか?
無理もないと思う・・・・
何としてでも、ここで米軍の進撃を抑え、北上する避難民や戦友を逃れさせる時間稼ぎをしなくてはならなかったのであるが・・・
それにしても・・・ここは直線道路なんだよねぇ~
敵から丸見えだと思うのだが、どうしてここに配置したのだろう?
中村さん達も丘の上から戦車に随伴する米兵を攻撃したが、まもなく陣地の場所がバレてしまい、攻撃を受け、直ぐ隣にいた戦友が敵弾を浴びて転がり落ちた・・・・
あと数センチずれていたら中村さんが戦死するところだったそうである。
その後、中村さん達は撤退する他の部隊の“殿(しんがり)”を務める。
装備は全て米軍から奪った兵器だったそうで、強かったという。
日本兵は米軍の装備を持って戦ったら最強だったという。
![]() |
民家の庭先に建立されている慰霊碑 (南ボネ) 以前来た時と比べると、かなり綺麗に整理・整備されていた。 (平成24年4月26日) |
![]() |
奥の白い碑 『戦車撃滅隊英霊追悼碑』 手前の黒い碑 中央:『弔 第十四方面軍戦車撃滅隊』 両端:明野飛行第200戦隊・榊原大隊の碑と、その個人碑 (平成24年4月26日) |
第十四方面軍教育隊 威第一七六六九部隊 戦車撃滅隊英霊追悼碑 昭和六十三年二月吉日 生還者有志 |
昭和二十年五月下旬~六月初旬バレテ峠北方■ンギラ■ボネ陣地において玉砕。 寄進者 海上挺身第七戦隊 大谷 久夫 垣歩兵第三十三聯隊 小園 保 垣歩兵第九聯隊 小野 航 垣歩兵第三十三聯隊 小谷 勝弥 マニラ航空廠 佐藤 悌二 第一四八飛行場大隊 佐藤 七郎 撃戦車第十聯隊 高城 ■ (旧姓 上登能) 駿独立歩兵第■■■■ 馬場 ■郎 ■独立歩兵第■■大隊 古川 義信 |
![]() |
明野飛行二百戦隊 大沼進一少年兵追悼碑 昭和二十年六月七日戦死 遺族 2011.6.7 建 (平成24年4月26日) |
私が慰霊碑をお参りしている間に“ステラさん”は民家の方と打ち合わせを済ませたので、「サンタフェ」の町へ戻ることにする。
![]() |
サンタフェの町 写真奥が北、南ボネに向かう方角である。 (平成24年4月26日) |
ここ「サンタフェ」には、戦車第2師団の司令部が一時期置かれていたというのだが・・・
“ステラさん”に尋ねても、それがどのあたりにあったのかは知らないという。
司令部があったこと自体初耳だというのである。
ここには、先日、山口でお会いした近藤さんがおられた。
戦車第2師団の森参謀長の下に配属となり、参謀長に可愛がってもらっていたらしいが、参謀長が戦病死した後、“瀧上部隊”に転属となったそうである。
近藤さんに、どのあたりに司令部があったのか教えてもらっておくべきだった・・・・失敗したぁ~
![]() |
![]() |
写真奥の方角が南。 この橋の向こうにバレテ峠がある |
橋の上から上流を見る。 写真の奥のほうにサラクサク峠がある。 |
「サンタフェ」の橋・・・・
あれは、いつのことだったか・・・
この橋も敵の攻撃の目標となっていた。
で・・・この橋の下に、橋から転落した海軍の乗用車があった。
車から投げ出された乗員の死体は、そのままの状態で放置されていたという。
どのあたりだろう?
海軍の乗用車が転落していた場所・・・・
あれから70年近く経っているわけで、今では、その乗用車の残骸も乗員の遺体も、あるわけがないのだが・・・
私の頭の中は昭和20年・・・・
この橋を渡るたびに、どうしても気になって仕方がないのである。
当時、実際には見てもいないのに・・・転落している乗用車と遺体が目に浮かぶのである。
橋を渡って直ぐのところに山に向かう道がある。
このあたりには、憲兵隊(当時は警戦隊とも称していた)がいたはずである。
「サラクサク峠」の最前線から勝手に後退してきた兵達(遊兵という)を、とっ捕まえて最前線に追い返していた。
また、この「国道5号線」を北上するためやって来た兵達の所属部隊を聴き質し・・・・
所属部隊から逸れてしまった兵達を掻き集め、100名ないしは200名単位にまとめて、最前線へ“補充兵”もしくは“援軍”として送り出したのである。
これらの兵隊たちの一部は私の祖父の下にも届けられているが・・・
2~3日ほどで“消滅”したという。
![]() |
![]() |
憲兵隊がいたのは橋を渡ったこのあたりかな? |
![]() |
山岳地帯(サラクサク峠)へ向かう道 (平成24年4月26日) |
サラクサク峠へ向かう道・・・・
以前と比べたら雲泥の差・・・コンクリートで舗装されていた!
この道を山のほうへ向かい車を走らせる。
河に沿ってしばらく走り、途中から山の中に入っていくのだが・・・
その途中に、野砲兵第10連隊の野砲陣地があったはず。
毎度、ここを通るたびにその場所を確認しようと思うのだが、どうしてもわからない。
山側にある窪地に野砲を隠し、時々「バレテ峠」方面の米軍に威嚇砲撃を行っていたのである。
う~ん・・・
走っている車からでは見つけにくい・・・
1ヶ所、それらしき窪地があるのだが・・・
あっという間に通過してしまうので、わからない・・・
砲を隠していた窪地も、戦後の風雨でかなり崩れているのだろうが・・・
相変わらず私の頭の中は・・・昭和20年のまま・・・である。(大笑)
この道を進むと「イムガン」という集落に辿り着く。
その途中・・・道路工事中!
山肌を削り、道路の拡幅を行っていた。
道路を工事中!
これが見ていて怖いのである!(汗)
ダンプに土砂を載せるたびに、ダンプが左右に大きく揺れるのである。
左側は崖・・・・
おい、おい、あぶねぇって!路肩は緩いんじゃないの?ダンプが落ちるんじゃないか?
作業が一段落するまでの間、しばらく待たされたが、その間、“ステラさん”は「怖くて見ていられない!」と大騒ぎ。
あれが、もし転落したら・・・俺たちが助けに行くの?(冷汗)
まもなく「イムガン」の村(?)に到着。
あらら・・・唖然・・・である。
![]() |
![]() |
イムガン |
いつの間に、こんなに家が建っちゃったのやら・・・(唖然・・・愕然・・・)
昔は、掘っ立て小屋程度の建物しかなかった“村”だったのが、今では、立派な家が立ち並ぶ“町”に変わっていた・・・・
7年も来ないと、ここまで変わってしまうものなのか?
ここ「イムガン」には戦車第2師団の戦闘指揮所が設けられていた。
が・・・どこにあったのか正確な場所が分からない。
昔は、そこらの掘っ立て小屋の前には村人がたむろして、日向ぼっこ(?)をしていたのだが・・・
立派な家が立ち並んだら、外でたむろする人がいなくなったのか?(笑)
閑散としている。
誰かに尋ねたくても尋ねる相手がいない・・・
この村から北へ向かう細い山道があったはずだが・・・
あれれ???どこだっけ?
この細い山道を進むと、多分、小さな川があるはずで・・・
その近くの山の斜面に横穴を掘って、そこに多くの日本兵がいたはずなのである。
山口の近藤さんもそこにいた一人である。
あ~あ~略図でもいいから描いてもらっておくべきだったなぁ~
不思議なことにその風景が頭に浮かぶのだが・・・
で・・・実際にその風景と同じ場所を見つけることができたら・・・と思っていたが・・・
断念して更に山道を進むことにする。
イムガンの集落
タブレットの地図もなんとかここまでは“現在位置”を表示してくれた。
ということは・・・電波が届いてるって事?
しかし、地図の道路は、ここまでしか描かれていない。
この先の山道は地図に載っていないのである。
ということは・・・私が向かう“マリコ村”は、地図にも載せてもらえない“ド田舎”ということか・・・(涙)
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||