埼玉県さいたま市大宮区寿能町2丁目
(平成18年10月20日)
寿能城跡
ここは寿能城本丸の跡と伝える
寿能城は潮田出羽守資忠の居城である
資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で母方潮田家をつぎ 永禄3年(1560年)ここに築城 大官 浦和 木崎寺を所領とした
城地は東西約873メートル 南北約436メートルあり
見沼の沼沢をめぐらした要害で 東方に突出した小高い所を出丸と呼び 今も寿能という小字名を残している
資忠は小田原の北条氏に属し 天正18年(1590年)長子資勝とともに小田原にろう城し奮戦したが 4月18日父子ともに討死し 家臣北沢宮内等が守備した当城も同年6月豊臣勢の火にかかって落城した
墓石は資忠の没後50年の命日に6代の子孫潮田勘右衛門資方が 弟資教にしるさせたものである
大正15年県史跡に指定されたが 太平洋戦争中 高射砲陣地として雑木林は開墾され 今また 新市街を現出するに至り その一部を市の小公園として永く保存することとなった
昭和33年4月18日
大宮市教育委員会これを建てる
(説明石碑の碑文より)
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潮田出羽守源資忠之墓 (寿能公園) (平成18年10月20日) |
武州足立郡大宮壽能城主也其先
清和天皇九代後胤従三位右京太夫兼兵庫頭頼政十九世嫡流太田美濃守三樂齋資正第四男也
天正十八庚寅年四月十八日相州於小田原討死因滋家臣北澤宮内私於城地自営此塚也
子孫譲之至邸于今不失墓祭之禮焉■■資方初而■此塚實始祖思恩寵餘澤之深亦患無姓名之誌再命北澤某令造墓石永為不遷之廟矣
元文三戌午年四月十八日謹造建之
資忠六世嫡 潮田勘右衛門源資方
昭和6年4月7日改修
矢部俊治 寄進
※ ■は判読不明文字です。
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寿能公園 (埼玉県さいたま市大宮区寿能町2丁目) (平成18年10月20日) |
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寿能公園 (埼玉県さいたま市大宮区寿能町2丁目) (平成18年10月20日) |
寿能公園
寿能公園一帯は、かつて氷川神社、大宮公園から続く松林におおわれた緑豊かな地域でしたが、県営寿能住宅の造成などで松林が切り開かれ、住宅地に生まれ変わっています。
当地は今から400年以上も昔、戦国時代の永禄えいろく3年(1560)に潮田出羽守うしおだでわのかみが居城した寿能城の跡地で、北中学校付近までが城域だったといわれています。
築城の30年後に豊臣秀吉の軍勢によって落城、その土塁は、周辺が住宅化されるまで残されていました。
園内はゲートボールを楽しむに恰好の広場となっておりボールを打つ音がよく聞こえてきます。
散歩コースは見沼代用水西縁に沿って続き、南は大宮第2公園、北は御嶽みたけ社、土呂町の地蔵堂、市民の森、見沼グリーンセンターへと続いています。
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
(説明板より)
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『壽能城址』の碑 (埼玉県さいたま市大宮区寿能町2−140・大宮警察署寿能交番脇) この碑の脇の道を進んで、住宅街を通り抜けると左側に『寿能公園』(寿能城跡)があります。 (平成18年10月20日) |
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倉屋敷稲荷神社 (埼玉県さいたま市大宮区大門町3・大宮区役所脇) |
由緒
当倉屋敷稲荷神社は 岩槻城の出城であった寿能城の倉屋敷に由来し 寛永5年(今からおよそ400年近い昔)徳川幕府が中山道を現在の位置に付け替えるに当たり その道筋に鎮座されておりました当社を 当時の仲町住人26軒の者が 只今の場所に御遷座申し上げました。
また このあたりは 明治の初めに廃寺となりました玉龍山宗金寺の境内になっておりましたので またの名を中寺の稲荷社とも申します。
昔から 五穀豊穣 商売繁盛 家内安全の神様として 町内はもとより 近郷近在の庶民に厚く信仰されて参りました。
昭和40年 隣接する旧大宮市役所が市庁舎を新築する際に 当社の本殿、拝殿も修復の上 やや南に御移動申し上げ 今日に至っております。
当社では 毎年 3月の初午の日に、初午祭を執り行っております。
平成14年3月吉日
倉屋敷稲荷神社
(説明板より)
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