重巡 那智 なち


軍艦那智戦没者慰霊碑



軍艦那智戦没者慰霊碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

忠魂

軍艦 那智 佐世保鎮守府所属一等巡洋艦

大正13年11月26日呉海軍工廠において起工、昭和3年11月26日竣工
帝國海軍技術の粋を結集せる当時世界第一の威力を誇る重巡洋艦として誕生し、爾来我が国海上防衛の第一線部隊に在り。
大東亜戦争勃発するや緒戦、比島、蘭印攻略作戦、スラバヤ沖海戦に参加、以後西太平洋に戦闘行動を続け、アッツ沖海戦、レイテ作戦等に第5艦隊旗艦として活躍、何れも大なる戦果を挙げたり。
昭和19年11月5日比島方面作戦中、米機動部隊艦載機120機以上の集中攻撃を受け、克く敵機多数を撃墜、勇戦激闘8時間余の末、那智もまた被害続出、満身創痍となり操艦、応急意の如くならず、遂に戦雲高きマニラ湾にその勇姿を没せり。
時に午後3時40分。
このとき艦と運命を共にするもの艦長以下将兵800余名。
開戦以来累次の戦闘に戦死せる乗員を併せ、英霊約1000名。
その勇戦は壮烈無双にして、その武勲は赫々たり。

(碑文より)

軍艦那智主要戦歴

昭和16年12月 8日  南方部隊第2艦隊
第5戦隊ダバオ空襲作戦
昭和17年 2月28日  スラバヤ沖海戦
昭和17年3月20日  北方部隊第5艦隊に編入
第21戦隊
昭和18年3月27日   アッツ島沖海戦
昭和19年 7月 第2遊撃部隊
昭和19年10月25日  捷1号作戦レイテ湾夜戦
昭和19年10月29日  マニラ湾対空戦
昭和19年11月 5日  マニラ湾対空戦
敵艦載機約150機の空襲を受け沈没
昭和19年11月25日  生存者221名マニラよりサントス丸に便乗
帰国の途中バシ―海峡にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没
171名戦死

昭和19年11月5日比島方面マニラ湾対空戦斗に於て艦長以下783名戦死

  軍艦那智艦長以下各科長戦没者霊名
      艦 長 鹿岡圓平 東京都
      機関長 川崎■  鹿児島県
      航海長 近藤賢一 山口県
      内務長 福富績   広島県
      通信長 鈴木豊作 北海道
      軍医長 池田剛   熊本県

(碑文より)

昭和18年3月27日北太平洋アッツ島沖に於て敵船隊と交戦中敵砲弾にて戦死12名
(〜霊名は略〜)

昭和19年10月29日比島方面マニラ湾対空戦斗に於て戦死46名
(〜霊名は略〜)

第5艦隊司令部旗艦那智
昭和19年11月5日比島方面マニラ湾対空戦斗に於て砲術参謀以下86名戦死
(〜霊名は略〜)

昭和54年5月19日建立
戦死者芳名碑建立世話人有志一同

(碑文より)

軍艦那智戦没者慰霊碑

一等巡洋艦
妙高型重巡4隻中の2番艦として、昭和3年11月26日呉工廠で竣工。
昭和9年11月15日、本籍を佐世保に定めた。

支那事変では中国沿岸封鎖などに従事。
大東亜戦争勃発するや第5戦隊に編入され、初期の南方地域占領作戦を支援。
スラバヤ沖海戦参加後、昭和17年4月から第5艦隊の旗艦となり軽巡阿武隈などを率いて北方海域アリューシャン方面で行動。
アッツ沖海戦、第1次キスカ撤収作戦に従事。
昭和19年10月以降は南方で行動。
比島沖海戦では志摩艦隊(第2遊撃部隊)の旗艦として参加。
第2遊撃部隊(志摩艦隊)は、第1遊撃部隊支隊(西村艦隊)に引き続いてスリガオ海峡に向かった。
前方に駆逐艦2隻を配し、那智、足柄、阿武隈、駆逐艦2隻が一本棒に並び、10月25日午前3時には海峡入口に至り、30分程で同海峡を突破した。
この時、レイテ湾の西村艦隊はまさに全滅に瀕していた。
午前4時15分頃、那智、足柄は魚雷16本を発射したが、これはレーダーの誤探知だった。
4時30分、那智は後退中の重巡最上と衝突したが、戦闘航海には支障なし。
この後、志摩艦隊はレイテ突入を断念し反転南下。
コロン及びマニラに引き揚げた第2遊撃部隊は南西方面艦隊司令長官の指揮下に入り、多号作戦(レイテ増援輸送作戦)に従事。
10月28日、マニラに進出。
翌29日午後、米艦載機の3波の大規模空襲を受け、その1弾は後檣付け根に命中し、飛行甲板を貫通して魚雷発射甲板で爆発。
魚雷が誘爆し、その火焔が機械室に入り、在室員10数名が戦死した。
また船体にヒビが入り、20ノット以上は出せなくなる。
以後連日空襲を受ける。
11月5日は早朝から空襲警報。
停泊は不利と考え那智は緊急出港し、単独で沖合に出る。
午後0時40分、敵機約200機の空襲。
後部と前部砲塔に直撃弾を受ける。
第2波攻撃の至近弾により、機械室、缶室、各部に被害が出始め、発揮可能速力は10ノットになる。
第3波攻撃では、速力は7〜8ノットに低下、高角砲はすべて壊滅。
第4波攻撃では、上甲板が波で洗われるまで艦は沈み航行不能。
魚雷が続いて5本命中し、中部から二つに折れ、午後2時40分沈没。
全乗組員1100名のうち生き残ったのは重傷者50名を含む250名。
戦死者は鹿岡艦長以下850名。
機関や弾庫など上甲板以下の配置にあったものは一人も生き残っていなかった。
沈没後、幸いにして生き残った乗員も、内地送還の途中、その輸送船が米潜水艦に撃沈され、台湾高雄に辿り着いたの者はわずか45名であった。
碑は昭和46年11月5日建立。
鹿岡艦長以下850名を含み大東亜戦争中の同艦乗り組み戦没者1000名を祀ってある。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


【妙高型】

巡洋艦の排水量を1万トンに抑えたワシントン条約会議の翌年、条約巡洋艦である1万トン巡洋艦が発足した。
これが妙高型である。
主砲は20センチ砲10門を5砲塔に収め、防御は古鷹型とよく似ているが更に重防式を取り入れた。
速力は35ノットで米英のものより高速。
魚雷発射管12門は中甲板に置かれた。
妙高型は強度、復原性も良好であった。

(要目)(妙高・昭和16年)
公試排水量:1万4984トン
機関出力:13万2830馬力
速力:33.88ノット
航続力:14ノットで7463海里
乗員数:891名
兵装:20.3cm連装砲×5
    12.7cm連装高角砲×4
    25mm連装機銃×4
    13mm連装機銃×2
    61cm4連装魚雷発射管×4
飛行機:射出機×2、偵察機×3

(同型艦)

妙高(昭和4年7月31日竣工〜終戦時残存・海没処分)
那智(昭和3年11月26日竣工〜昭和19年11月5日戦没)
足柄(昭和4年8月20日竣工〜昭和20年6月8日戦没)
羽黒(昭和4年4月25日竣工〜昭和20年5月16日海没)

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


【那智の建造】

全長200メートル余の「那智」の建造では、呉工廠の第3船台の長さでは足りず、船台頭部を約50メートルも延長しなければならなかった。
昭和2年(1927年)6月に進水。
呉工廠の第3船台での大型艦の進水式は、「摂津せっつ」以来17年ぶりだっただけに、雨にたたられながらも、3万5千人もの見物人が押しかけた。
引き続き「那智」の艤装ぎそう工事が進められたが、「那智」は条約制限後の第一艦だけに、「過去建造した艦艇の残材は重いので、一切使用は許されない」という厳しい方針を課せられていた。
軽量化を一大方針にして臨んだので、徹底した軽量化を図るために、部品も従来のものは使わず、材料も金物も「那智」専用として設計し直さなければならないため、どうしても手間がかかった。

(参考:前間孝則 著 『戦艦大和誕生(上) 西島技術大佐の大仕事』 講談社 1997年9月 第1刷発行)

(令和2年9月4日 追記)


那智

昭和17年(1942年)2月6日の南方作戦において、セレベス方面攻略支援隊の一艦として参加。
スラバヤ沖海戦(昭和17年2月27日)において、第5戦隊旗艦として重巡羽黒と共同して、英重巡エクゼター、米重巡ヒューストン、そのほかを撃破。
北方部隊旗艦としてアリューシャン作戦に参加。
アッツ沖海戦(昭和18年3月26日)においては、米重巡ソルト・レイク・シティおよび駆逐艦ベーリーを撃破したが、命中弾を受けて損傷。
レイテ湾海戦のスリガオ沖海戦(昭和19年10月25日)において、僚艦・重巡最上と衝突。
昭和19年11月5日、マニラ湾に在泊中、米空母レキシントン艦載機の集中攻撃を受けて沈没する。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


スラバヤ沖海戦

昭和17年(1942年)2月27日〜28日

日本軍 艦隊編制
 第5戦隊 司令官:高木武雄少将
重巡洋艦 那智 羽黒
駆逐艦 潮 漣 山風 江風
第2水雷戦隊 司令官:田中頼三少将 
軽巡洋艦 神通
駆逐艦 雪風 時津風 初風 天津風
第4水雷戦隊 司令官:西村祥治少将
軽巡洋艦 那珂
駆逐艦 村雨 五月雨 春雨 夕立 朝雲 峯雲
別働隊(蘭印作戦主隊) 司令官:高橋伊望中将
重巡洋艦 足柄 妙高
駆逐艦 雷 曙
第3航空戦隊 司令官:角田覚治少将
空母 龍驤
駆逐艦 敷波
輸送船:38隻

スラバヤ沖海戦・2月27日の昼戦(16時12分〜17時15分)

日本軍:第5戦隊・第2水雷戦隊・第4水雷戦隊
連合軍:ABDA打撃艦隊(米・英・蘭・豪)

16:12、英・駆逐艦『エレクトラ』が東部ジャワ攻略部隊を発見。
彼我艦隊の巡洋艦同士の砲戦が始まり、続いて雷撃戦が展開。
17:15、蘭・駆逐艦『コルテネール』が真っ二つに折れて轟沈。
18:00、英・駆逐艦『エレクトラ』が沈没。
18:20頃、高木司令官は追撃を中止し、輸送船を掩護しながら、夜戦に備えて陣形を整える。

ABDA打撃艦隊は、戦闘中に自艦の爆雷が落下して爆発し艦尾を損傷した蘭・駆逐艦『ウイッテ・デ・ウィット』を大破した英・重巡洋艦『エクセター』の護衛に付けてスラバヤへ向わせた。
米駆逐艦4隻は、昼戦で離れ離れになり主隊と合流できず、魚雷を使い切り燃料も少なくなってきたため、独自にスラバヤ行きを決める。
英・駆逐艦『ジュピター』は、味方が敷設したと思われる機雷で沈没。
英・駆逐艦『エンカウンター』は米・重巡洋艦『ヒューストン』が人道的見地から打ち上げた照明弾のおかげで、沈没した蘭・駆逐艦『コルテネール』の生存者113名を救助し、スラバヤへ向う。

スラバヤ沖海戦・2月28日の夜戦(23時00分〜23時47分)

日本軍:重巡洋艦『那智』『羽黒』
連合軍:米・重巡洋艦『ヒューストン』、蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』『ジャワ』、豪・軽巡洋艦『パース』

23:00、巡洋艦4隻となったABDA打撃艦隊は『那智』と『羽黒』に遭遇、砲戦が開始された。
23:22、『那智』『羽黒』の両艦は計12本の魚雷を発射。
旗艦である蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』と同じく蘭・軽巡洋艦『ジャワ』が被雷して沈没。
指揮官のドールマン少将は艦と運命を共にする。
米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』はバタヴィアに向って離脱。

この海戦での日本側の損害は、駆逐艦『朝雲』が大破したのみ。

その後

スラバヤへ逃げ込んだ英・重巡洋艦『エクセター』は応急修理ののち、英・駆逐艦『エンカウンター』と米・駆逐艦『ホープ』とともにセイロン島への脱出を試みるが、3月1日、日本艦隊・別働隊(重巡洋艦『足柄』『妙高』駆逐艦『雷』『曙』)に捕捉され、昼過ぎまでに全艦が撃沈された。

バタヴィアに逃げ込んでいた米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』は、再編成のためチラチャップへ向う。
途中で発見したバンタン湾の日本の大輸送船団(輸送船56隻)の攻撃に向ったが、日本側の迎撃により3月1日に両艦とも撃沈された。(バタヴィア沖海戦)

(参考:『歴史群像 2012年8月号』)

(平成25年10月21日 追記)


レイテ沖海戦

第2遊撃部隊(司令官・志摩清英中将率いる第5艦隊)は西村艦隊(第3艦隊)の後を追ってミンダナオ海をレイテ泊地に向けて進撃をつづけていた。
同部隊はマニラの南西方面艦隊に所属し、第1遊撃部隊(栗田艦隊)の別働隊である西村艦隊とはその指揮命令系統を別にしていた。
そして陸軍と共同のレイテ逆上陸支援の任務を急遽変更して、レイテ湾突入を命ぜられたこともあって、西村艦隊との間には事前になんら作戦計画の打ち合わせは行なわれていなかった。

第2遊撃部隊は一寸先もわからぬ猛烈なスコールの中を、前方両翼に駆逐艦2隻を配し、旗艦・重巡「那智」を先頭に、2番艦・重巡「足柄」、その後に第1水雷戦隊旗艦の軽巡「阿武隈」、それに駆逐艦2隻がしたがい、単縦陣をつくってボホール島の右岸沿いを航行していた。

スリガオ海峡入口の小さな島影に気がついて旗艦「那智」が右90度一斉回頭の信号を発し、後続の「足柄」「阿武隈」が回頭をはじめるのと、その島影から躍り出た米魚雷艇群が一斉に魚雷を発射したのとはほとんど同時であった。
「足柄」につづいて右旋回をはじめようとしていた「阿武隈」の左舷第1砲塔の真下めがけて魚雷は突進した。

「阿武隈」が被雷した頃、「那智」「足柄」は右に左に回頭して敵魚雷を回避しながら、敵魚雷艇群に機銃掃射を浴びせていた。
「那智」の艦橋には、特信班の亀田重雄少尉(明大出身)から米魚雷艇が基地とかわす会話の内容がつぎつぎと伝えられた。
すでに西村艦隊を襲撃していた米魚雷艇群には、この時もう発射する魚雷がなくなっていたのだ。
「敵は魚雷がないぞ!」
参謀長松本毅大佐は直ちに照明弾の打ち上げを命じた。
いる、いる。まるでイナゴの群れのようにうじゃうじゃいる!
敵魚雷艇は500〜600メートルの至近距離まで突っ込んできては機銃掃射をくりかえしている。
しかし、こちらには相手に魚雷がないことがわかっているから回避する必要もなく落ち着いて機銃で応戦できる。

【「最上」「那智」の衝突】

第2遊撃部隊(志摩艦隊)は、全速をあげ敵魚雷艇群を引き離すとふたたび進撃を開始した。
「那智」が前進するにつれて、炎の中に浮かび上がる艦影が戦艦「山城」と戦艦「扶桑」であることがはっきりしてきた。
やがて右前方に重巡「最上」が黒煙を上げて炎上しているのが見えた。
すでに砲戦はやんでいた。

目指す敵がどこにいるのか全くわからないが、志摩艦隊は薄靄と煙に包まれて視界不良のスリガオ海峡をなおも突き進んだ。
十数分が経った。
その時突然、参謀長が叫んだ。
「左舷に敵艦影、左魚雷戦用意!」
航海士の鈴木誠司少尉(函館水産出身)はあっけにとられて参謀長を見た。
左舷のどこに艦影が見えるのか?
さっきから18インチ眼鏡で眼を皿のようにして海面を睨んでいる見張員がなんにもいわないのに、肉眼で敵艦がわかるはずがない。
誰しも思いは同じだった。
参謀長に中止を求める声が上がったが、彼は頑として受けつけなかった。
「那智」「足柄」は片舷全射線8本宛、計16本の魚雷を闇夜の海にぶっ放すと右旋回した。
反応は予期した通り何もなかった。
鈴木少尉は、右旋回した「那智」の真正面にその時、突然真っ赤な焔が燃え上がっているのを見た。
「最上だ!」
見張員が口々に叫んだ。
見る見るうちにその艦が近づいてきた。
「オモ舵一杯!」という航海長(近藤賢一少佐)の切迫した声が飛んだ。
その時、正面の「最上」はトリ舵をとったらしく、艦首が思いなしか右にややそれたが、つぎの瞬間、両艦は衝突し、「那智」の艦首が「最上」の右舷前部に突っ込んだ。
一方、甲板上では異様な光景が繰り広げられていた。
舷を接した「最上」の甲板上に横たわる大勢の負傷者たちに、いきりたった「那智」の前部機銃砲塔の兵たちがその銃口を向け今にも引き金を引きかねまじき勢いなのだ。
「馬鹿野郎、貴様ら、なんで逃げた!俺がぶち殺してやる」
機銃指揮官があわてて銃口の前に大手をひろげて立ち、興奮している兵たちを制した。

「最上」は、艦橋に命中した3発の敵弾により4人の信号兵を残しただけで艦長以下総員が戦死し、この時わずかに人力操舵によって南下をつづけていたのだった。
艦はすでに大きく傾き、上甲板は瓦礫と化して、もはや軍艦の体型をなしていなかった。

衝突事故で「那智」は応急処置をしなければ、20ノット以上の速力は出せなくなっていた。
有力な敵を前にして、それは致命傷だった。
このまま進撃を続ければ西村艦隊の二の舞となることは必定である。
西村艦隊の惨状を見ても、ここは一応戦線を離脱して再起をはかる以外に方法はない。
司令部は突撃を断念し、全軍に反転を命じた。

「戦場離脱」電報は、それまで西村艦隊の戦況も第2遊撃部隊の動静もわからぬままに、イライラしていたマニラの南西方面艦隊司令部を激怒させた。
「命令違反だ。指揮官は銃殺だ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ参謀の横顔を、司令部付暗号士の長井清少尉(慶大出身)は唖然として見つめていた。
彼はそこにすさまじいまでに狂気に支えられた軍人精神を見た。
たとえ、その命令によって幾万の将兵が危殆に瀕しようが、参謀にとってそれは問題ではないのだ。

志摩艦隊が反転をはじめると、敵は直ちに魚雷艇群に対しその追撃を命じた。
艦隊はまた魚雷艇が待ち構えている海面を通過しなければならない。
敵はもう魚雷の補給を終えているはずだ。
「那智」艦長・鹿岡円平大佐がかたわらの航海長をかえりみた。
「魚雷は回避できるだろうか?」
操舵にかけては抜群の腕を持つ近藤航海長に艦長はいつもその全権をまかせていた。
「絶対大丈夫です。22ノット以上でれば回避できます」
「最上」と衝突後、修理を急いだ「那智」の最大速力は23ノットがやっとだった。
そしてその言葉通り彼はそれを実現した。
日頃から徹底的に訓練した見張員に全幅の信頼を置いていた航海長は、敵魚雷艇攻撃に直面しても決して海面を見なかった。
彼は見張員が叫ぶ雷跡角度の報告を聞きながら、羅針盤だけを見て号令した。
それはまさに神業だった。

魚雷艇の執拗な攻撃をかわした「那智」「足柄」などは、やがて途中で北上してきた「阿武隈」に出合い、その反転続行を命じた。
こうして志摩艦隊がようやくスリガオ海峡を抜けた頃、夜が白々と明けはじめてきた。

(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)

(平成27年8月3日・追記)




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