【利根】
ハワイ海戦、ポートダーウィン攻撃、ウェーキ島攻略作戦、ミッドウェイ海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦(サマール沖海戦)に参加して武勲をたてた歴戦艦。
昭和20年7月24日および28日の米英空母機動部隊による呉軍港大空襲の際、特に米空母タイコンデロガ搭載機の攻撃により、6発の命中弾および20発内外の至近弾を受け、遂に左に21度傾斜して大破沈座。
その姿のまま終戦を迎えた。
【利根型】
利根型(利根、筑摩)は、8,500トン型の最後の2隻で、「最上」型の経験を取り入れたが、全く違った艦型であった。
(要目)
基準排水量 8500トン
速力 35ノット
主砲 20センチ砲8門
高角砲 12.7センチ砲8門
発射管 61センチ12門
飛行機 水偵 5機
航続距離 14ノットで13,600キロ
(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
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重巡洋艦 利根 基準排水量 11,213トン 乗員 874名 全長 201.6m 全幅 19.4m 出力 152,189馬力 最大速力 35.55ノット 主要兵装 20.3cm連装砲 4基8門 40口径12.7cm連装高角砲 6基12門 61cm3連装魚雷発射管 4基12門 他 機銃多数 搭載航空機 6機 |
主要目
排水量 14,015t
全長 201.6m
全幅 19.4m
出力 152,000Hp
速力 35.86ノット
主砲 20cm8門
高角砲 連装4基8門
魚雷61cm3連装4基12門
25m/m3連装機銃12基36門
同単装20門他
3座水上偵察機 5機
建造所/三菱長崎造船所・同型艦に「筑摩」
(説明プレートより)
【軍艦「利根」】
帝国海軍最後の重巡洋艦として昭和13年11月、三菱の長崎造船所で完工した。
排水量約1万3千トン、20センチ連装主砲4基を前甲板に集中して後部に水上偵察機6機。
12.7センチ連装高角砲片舷2基8門、25ミリ機銃は三連装・単装計64門。
九三式魚雷三連装発射管片舷2基、計12射線、予備魚雷12本。
機械は4軸8缶の出力15万2千馬力、最高速力36ノット、18ノットで1万浬の航続距離を持つ。
世界に類を見ない重装備にしてユニークな巡洋艦で、しかも艦形は流れるように優雅であった。
若い士官をして一度は「ふねに乗るなら利根、筑摩」と言わせたほど魅力的な艦だった。
乗員も舞鶴鎮守府管下の精鋭、歴代艦長もそれぞれ相応しい粒よりの艦長が任命されてきた。
(参考:檜 喬 著 「巡洋艦「利根」 黛治夫 レイテ沖敵空母追撃戦」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)
(令和2年10月13日 追記)
真珠湾攻撃(昭和16年12月8日) |
部隊(艦) | 職 | 官 | 氏名 | ||
第1航空艦隊司令部 | 司令長官 | 中将 | 南雲 忠一 | ||
参謀長 | 少将 | 草鹿龍之介 | |||
参謀(首席) | 中佐 | 大石 保 | |||
参謀(航空甲) | 中佐 | 源田 実 | |||
参謀(航空乙) | 少佐 | 吉岡 忠一 | |||
参謀(航海) | 中佐 | 雀部利三郎 | |||
参謀(潜水艦) | 中佐 | 渋谷 龍■たつわか | |||
参謀(通信) | 少佐 | 小野寛治郎 | |||
参謀(機関) | 機少佐 | 坂上 五郎 | |||
機関長 | 機大佐 | 田中 実 | |||
軍医長 | 医大佐 | 新井 甫 | |||
主計長 | 主大佐 | 清水 新一 | |||
第1航空戦隊 | 赤城 | 艦長 | 大佐 | 長谷川喜一 | |
飛行長 | 中佐 | 増田 正吾 | |||
飛行隊長 | 中佐 | 淵田美津雄 | |||
加賀 | 艦長 | 大佐 | 岡田 次作 | ||
飛行長 | 中佐 | 佐多 直大なおひろ | |||
第2航空戦隊 | 司令部 | 司令官 | 少将 | 山口 多聞 | |
参謀(首席) | 中佐 | 伊藤 清六 | |||
参謀(航空) | 中佐 | 鈴木栄二郎 | |||
参謀(通信) | 少佐 | 石黒 進 | |||
参謀(機関) | 機少佐 | 久馬きゅうま 武夫 | |||
機関長 | 機大佐 | 篠崎 磯次 | |||
蒼龍 | 艦長 | 大佐 | 柳本 柳作 | ||
飛行長 | 中佐 | 楠本 幾登 | |||
飛龍 | 艦長 | 大佐 | 加来かく 止男 | ||
飛行長 | 中佐 | 天谷あまがい 孝久 | |||
第5航空戦隊 | 司令部 | 司令官 | 少将 | 原 忠一 | |
参謀(首席) | 中佐 | 大橋 恭三 | |||
参謀(航空) | 少佐 | 三重野 武 | |||
参謀(通信) | 少佐 | 大谷藤之助 | |||
参謀(機関) | 機少佐 | 吉田 毅 | |||
機関長 | 機大佐 | 牟田 菊雄 | |||
瑞鶴 | 艦長 | 大佐 | 横川 市平 | ||
飛行長 | 中佐 | 下田 久夫 | |||
翔鶴 | 艦長 | 大佐 | 城島 高次 | ||
飛行長 | 中佐 | 和田鉄二郎 | |||
第3戦隊 | 司令部 | 司令官 | 中将 | 三川 軍一 | |
参謀(首席) | 中佐 | 有田 雄三 | |||
参謀(砲術) | 中佐 | 竹谷 清 | |||
参謀(通信) | 少佐 | 森 虎男 | |||
参謀(機関) | 機少佐 | 竹内由太郎 | |||
機関長 | 機大佐 | 奥村 敏雄 | |||
比叡 | 艦長 | 大佐 | 西田 正雄 | ||
霧島 | 艦長 | 大佐 | 山口 次平 | ||
第8戦隊 | 司令部 | 司令官 | 少将 | 阿部 弥毅ひろあき | |
参謀(首席) | 中佐 | 藤田 菊一 | |||
参謀(水雷) | 少佐 | 荒 悌三郎 | |||
参謀(通信) | 大尉 | 矢島源太郎 | |||
参謀(機関) | 機少佐 | 佐藤 良明 | |||
機関長 | 機大佐 | 松島 悌二 | |||
利根 | 艦長 | 大佐 | 岡田 為次 | ||
筑摩 | 艦長 | 大佐 | 古村 啓蔵 | ||
警戒隊 | 第1水雷戦隊司令部 | 司令官 | 少将 | 大森仙太郎 | |
参謀(首席) | 中佐 | 有近 六次 | |||
参謀(砲術) | 少佐 | 三上 作夫 | |||
参謀(通信) | 大尉 | 岩浅 恭助 | |||
参謀(機関) | 機少佐 | 吉川 積つもる | |||
機関長 | 機大佐 | 田辺 保里やすのり | |||
阿武隈 | 艦長 | 大佐 | 村山 清六 | ||
第17駆逐隊 | 司令 | 大佐 | 杉浦 嘉十 | ||
谷風 | 駆逐艦長 | 中佐 | 勝見 基 | ||
浦風 | 駆逐艦長 | 中佐 | 白石 長義 | ||
浜風 | 駆逐艦長 | 中佐 | 折田 常雄 | ||
磯風 | 駆逐艦長 | 中佐 | 豊嶋 俊一 | ||
第18駆逐隊 | 司令 | 大佐 | 宮坂 義登 | ||
不知火 | 駆逐艦長 | 中佐 | 赤澤次寿雄しづお | ||
霞 | 駆逐艦長 | 中佐 | 戸村 清 | ||
霰 | 駆逐艦長 | 中佐 | 緒方 友兄 | ||
陽炎 | 駆逐艦長 | 中佐 | 横井 稔 | ||
秋雲 | 駆逐艦長 | 中佐 | 有本輝美智 | ||
哨戒隊 | 第2潜水隊 | 司令 | 大佐 | 今和泉喜次郎 | |
伊19 | 潜水艦長 | 中佐 | 楢なら原 省吾 | ||
伊21 | 潜水艦長 | 中佐 | 松村 寛治 | ||
伊23 | 潜水艦長 | 中佐 | 柴田 源一 | ||
補給隊 | 第1補給隊 | 極東丸 | 特務艦長(指揮官) | 大佐 | 大藤 正直 |
健洋丸 | 監督官 | 大佐 | 金桝 義夫 | ||
国洋丸 | 監督官 | 大佐 | 日台 虎治 | ||
神国丸 | 監督官 | 大佐 | 伊藤 徳堯 | ||
第2補給隊 | 東邦丸 | 監督官(指揮官) | 大佐 | 新美 和貴 | |
東栄丸 | 監督官 | 大佐 | 草川 淳 | ||
日本丸 | 監督官 | 大佐 | 植田弘之介 |
(参考:平塚柾緒著『パールハーバー・真珠湾攻撃』)
【リンガ泊地の猛訓練】
昭和19年6月のマリアナ攻防戦に惨敗した海軍の水上部隊は、7月初旬再びシンガポール南方のリンガ泊地に回航され、次の作戦に備え夜戦と対空戦闘お中心に猛訓練を開始した。
艦長の黛治夫まゆずみはるお大佐は航海長・阿部浩一中佐に雷爆撃回避の研究ならびに訓練を特命した。
航海長は自信満々、気に食わぬことがあるといささか脱線、平気で艦長にでも喰ってかかるといった猛者である。
雷爆撃回避の研究による腕は抜群、しかも頭が良くて理論家だった。
砲術長は、砲術学校の対空特修学生を卒業したベテランである。
対空指揮官の石原孝穂大尉も特に研究心が強く、高角砲の発砲電路を短絡することを考えつき、射撃速度を設計では毎分14発のところを20発までに向上させ、艦長を大喜びさせた。
黛艦長は、「戦力絶対」「滅私訓練」の標語を作成、「利根」全乗組員の総力を結集、血みどろの訓練が続けられた。
かくするうちに戦機が熟した。
10月17日夜半、艦隊はブルネイに進出することになり、リンガ泊地を抜錨。
10月20日朝、ブルネイに入港し合戦準備、重油の補給等を行なった。
(参考:檜 喬 著 「巡洋艦「利根」 黛治夫 レイテ沖敵空母追撃戦」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行
(令和2年10月13日 追記)
レイテ沖海戦(昭和19年10月20日〜25日) |
昭和19年10月22日午前6時、第一遊撃部隊がレイテ湾頭の敵攻略部隊を撃滅せんと、前進基地ブルネイ泊地を出撃。
「利根」は、第二群(第3戦隊司令長官・鈴木義尾中将指揮)の「金剛」「榛名」を中心とした輪形陣の左後方部に占位し、第7戦隊司令長官・白石万隆かずたか中将直属の「熊野」「鈴谷」「筑摩」に続く4番艦として参戦した。
12月24日、ようやく敵機の来襲も途絶えた。
「利根」は1〜2隻の駆逐艦と共に沈みかかった「武蔵」の援護をしていた。
「武蔵」の援護の必要を第2部隊指揮官の鈴木中将に信号で意見具申したのは「利根」艦長だった。
「利根」がこの任についたとき、栗田艦隊の本隊は一時、西に向かって逆航するという陽動行動をとり、遥か西方に姿を消していた。
果然、敵機の来襲が激しくなった。
対空戦闘中の艦長は防空指揮所に上り、鉄帽に身を固め、先端に紅白の房の付いた指揮杖を振りかざして目標を指示する。
主砲が三式弾(艦長が砲校防空科長時代に発明した焼夷榴散弾兼榴弾)を撃ち上げる。
ものすごい各砲の砲声と砲煙、ダイブに入る敵機の金属音、一大修羅場だ。
艦長は自若として仁王立ち、目標を的確に艦橋で頑張る航海長に指示する。
航海長は間髪入れず回避運動を続ける。
一連の敵襲が終り、しばしのしじまが訪れる。
このような戦闘が今朝以来何回も繰り返され、ようやく陽が西に傾くころ、栗田艦隊本隊が帰ってきた。
鈴木中将の旗艦からの信号は「利根は現在任務を続行せよ」であったが、栗田司令長官の信号は「利根は原隊に復帰せよ」と読めたので、ただちに増速し、本隊を追った。
やがてあたりが暗くなると間もなく、「利根」の右舷160度方向にパッと火の玉が輝き、「武蔵」の最期を告げた。
10月25日夜半、サンベルナルジノ海峡を通過。
午前6時頃、敵のマストが数本見えた。
各艦最大戦速に増速され、重巡戦隊が快速で追撃する。
敵との距離1万2千メートルくらいになり、主砲は照準をし始め、仰角がかかり「撃ち方始め」。
主砲4門ずつの斉射が20秒くらいの間隔で続く。
そのうち停止した敵空母(戦後「ガンビア・ベイ」と分かった)の7千メートルくらいに近づく。
各艦の砲火が集中し、戦艦からの弾着らしいピンクの水柱も上がる。
まもなく敵機による反撃が始まった。
機銃弾が1発、風防を破り艦橋に飛びこみ、艦橋の左舷前端にあるジャイロ・コンパスのレピーターに命中し、跳弾となったグラマンの13ミリ弾が艦長の右太腿の内側を抉り、航海長の左脚部を擦過した。
飛び散る鮮血に、加納軍医大尉が呼ばれ応急処置をする。
白い包帯がみるみる血に染まって痛々しい。
その後の艦長の戦闘指揮は益々冴えていた。
執拗に繰り返される敵機の波状攻撃下で追撃が続けられ、2時間くらいが経った。
右舷前方1万メートル付近に退却中の5隻の敵空母が見える。
先頭を切っているのは「利根」、左舷やや離れて「羽黒」、他ははるかに後方である。
「羽黒」だけに敵弾の水柱が集まっている。
艦長は迅速、冷徹だった。
「羽黒」には第5戦隊司令官・橋本中将が坐乗していた。
ただちに「後続する」と発信して、「羽黒」の後方に「利根」を占位させた。
「利根」も「羽黒」の敵と砲火を交え、かつ一緒に発射するためである。
「羽黒」の後ろに入ると、早速「統一魚雷戦」の意見具申をしたが、いささか冷たい返事。
この時、艦隊旗艦より「北方に現われた敵と決戦する。全艦集合せよ」の命令が突如下った。
「羽黒」が取舵を取って来たに向かい、「利根」も転舵して「羽黒」に続行した。
戦闘中の艦隊は組織戦闘で命令は絶対だった。
しかし、艦長は智将でもあった。
「われ空母の攻撃を続行中」「敵空母は火災にあらず煙幕展張、5隻健在なり」と情況報告を旗艦に急信した。
本音は本隊を呼び戻し、集中攻撃により敵を全滅させたいというところにあり、クールな航海長も全く同様に考えていたらしい。
この反転で、水上戦闘の戦機も去り、艦長の夢にまでみた艦隊の大砲撃戦は実現しなかった。
「利根」は爆弾の命中により一時陥った舵故障の危機を脱したが、海戦要務令や砲戦教範の教示を無視し、自衛的対空射撃に徹した。
これが「利根」が撃沈を免れた一因である。
10月26日、シブヤン海を西に退却中、B−24の空襲を受けたが、「利根」は向かってくる1機を三式弾の一撃で撃墜し、数機を僚艦との集中砲火で撃墜した。
10月28日、ブルネイ泊地に帰投した残存艦隊には、もはや大艦隊の威容を偲ぶよすがもなかった。
(参考:檜 喬 著 「巡洋艦「利根」 黛治夫 レイテ沖敵空母追撃戦」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行
(令和2年10月13日 追記)
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