海軍兵学校


海自・幹部候補生学校 平成18年3月20日

旧海軍兵学校跡


海上自衛隊
第1術科学校・幹部候補生学校
(広島県江田島市)

旧・海軍兵学校跡



(平成18年3月20日)

学校の歴史

江田島は、風光明媚な広島湾に位置して、東は呉市に、北は広島市に、西は那沙美島を隔てて名勝安芸の宮島に相対し、南は佐伯郡能美島に連なり、また、早瀬大橋、倉橋島、音戸大橋を経て呉市に通じています。
海軍兵学校は明治21年(1888)8月東京築地からこの江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスとともに世界3大兵学校としてその名は広く世界が知るところとなりました。
終戦により昭和20年12月1日、約60年の幕を閉じました。
以後の10年間は連合軍が教育施設等に使用しました。
昭和31年(1956)1月返還され、当時横須賀にあった術科学校が当地江田島に移転、その後、昭和32年5月10日に幹部候補生学校が独立開校し、現在に至っています。

(パンフレットより)

海自・幹部候補生学校



海上自衛隊・幹部候補生学校
(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)





(平成18年3月20日)

幹部候補生学校

幹部候補生学校は、海上自衛隊の初級幹部自衛官として勤務するのに必要な知識と技能を習得させるための教育訓練を行っています。
年間約600名の一般幹部候補生、幹部予定者、飛行幹部候補生等が教育を受け、3等海尉に任官して巣立っていきます。

(パンフレットより)

大講堂



大講堂
(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)

講堂の正面



(平成18年3月20日)
大講堂



大講堂
(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)





(平成18年3月20日)
大講堂内部



大講堂・内部
(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)

翌日の卒業式の準備中でした。



(平成18年3月20日)

大講堂

大正6年(1917)当時約40万円をかけ瀬戸内産の御影石(花崗岩)で造られた建物です。
講堂内は、床石畳、2階には貴賓室があり、天井はドーム型で舵輪をかたどったシャンデリアが設けてあります。
海軍兵学校時代には、天皇の名代として宮様のご臨席を仰ぎ厳粛に入校式、卒業式等の儀式が行われました。
収容人数は約2,000名です。

(パンフレットより)


大講堂

大正6年4月、後に国会議事堂に使用される倉橋島産の花崗岩をもって大講堂が完成している。
この建設に尽力したのが、第24代校長の山下源太郎であった。
当時海軍部内では、大講堂の建設費が30万円に達し、軽巡1隻の建造費に相当することから反対意見が起きていたが、山下が「器以上に器を動かす人材育成が大事」と主張し、完成させたものだった。

(参考:惠 龍之介著『敵兵を救助せよ』 草思社 2006年 第1刷)

(平成22年1月16日・記)


教育参考館



教育参考館
(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)





(平成18年3月20日)

教育参考館

教育参考館は幕末から第2次世界大戦までの海軍関係者の書や遺品が展示してあります。
特に自らを犠牲にして国のために散っていった若き特攻隊員の遺書が胸を打ちます。

(パンフレットより)

屋外展示品

特殊潜航艇・甲標的
特殊潜航艇・海竜
駆逐艦「雪風」の主錨
軍艦大和・主砲砲弾
戦艦「陸奥」の主砲

36センチ一式徹甲弾


36cm一式徹甲弾

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)

この砲弾は、昭和17年(1942年)10月13日夜ガダルカナル島飛行場の砲撃に参加した挺身隊の第3戦隊(「金剛」「榛名」)が発射したものである。


(平成18年3月20日)

砲弾の戦歴

日本海軍が1942年8月ガダルカナル島に建設した飛行場は わが航空部隊が進出する直前に連合軍の奇襲上陸により奪取された
この飛行場の確保が大東亜戦争の天王山と判断した両軍はその争奪を巡って死闘を繰り返した
日本海軍は陸軍のガ島総攻撃用の兵員及び軍需品の高速輸送を支援するため艦砲射撃による飛行場の制圧を計画した
1942年10月13日夜半挺身攻撃隊として編成された軽巡「五十鈴」駆逐艦「親潮」「早潮」「黒潮」「海風」「江風」「涼風」「高波」「巻波」「長波」戦艦「金剛」「榛名」はガ島に肉迫し「金剛」「榛名」の主砲をもって合計918発にのぼる砲撃を加えた
この猛攻によりガ島飛行場は一面火の海となりわが高速輸送船団は無事ガ島に突入し揚陸に成功した

砲弾の祖国帰還の経緯

本砲弾は 1983年8月 ガダルカナル島を訪れた赤沢璋一氏(比叡)及び永末英一衆議院議員(五十鈴)が川村庸也氏の案内により島内の戦跡を見て回った際に発見された
その後 関係者により本砲弾を祖国に帰還させるための努力が重ねられ 特に 川村氏の熱意と懸命な尽力とにより 1985年2月 40余年振りにガ島から祖国に帰ってきたものである
帰還後 海上自衛隊が調査を行った結果 本砲弾は「金剛」又は「榛名」が発射した一式徹甲弾であることが確認された
そこで挺身攻撃隊として 当時の作戦に従事した有志が集って保存会を結成し多くの会員の協力を得て 本砲弾を日本海軍ゆかりの地 江田島に展示し 永く後世に伝えることとした
なお この砲弾が損傷しているのは 不発弾処理によるものであり また 傾けてあるのは ガ島の方向を示すためである

1986年7月
ガダルカナル島砲撃弾保存会

(碑文より)

三景艦・主砲砲弾



三景艦 主砲々弾

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)





(平成18年3月20日)

三景艦 主砲々弾

これは日清戦争(明治27.28年(1894・1895年))黄海々戦において日本艦隊の主力として活躍した三景艦松島・橋立・厳島の主砲の砲弾である。
当時の清国海軍の主力艦定遠は、主砲としてドイツ製クルップ式20口径30.5cm連装砲2門を搭載し、舷側は356mm装甲板で防禦されていた。
一方当時の日本海軍最大の砲はクルップ式26cm砲で巡洋艦浪速・高千穂に2門づつを搭載しているに過ぎなかった。
日清間に風雲急を告げるとき、これに対抗するため松島・橋立・厳島を建造し、フランス海軍に依頼して製作した主砲38口径32cm単装砲1門づつを搭載した。

要目
全長 975mm
全重量 450kg
装薬量 220kg
さく薬量 10kg
最大射程 8000m
初速 650m/s

寄贈 愛知県豊田市 豊田海友会

(碑文より)


【江田島健児の歌】

大正8年8月、第50期生として298人が入校した。
その中で、たちまち有名になった生徒がいた。
神代猛男こうじろたけおである。
この年、創立50周年を記念して神代は「江田島健児の歌」を作詞した。
海軍軍楽隊の特務少尉、佐藤清吉がこれに曲を付け、校歌として歌われた。

一 澎湃ほうはい寄する海原の
  大涛おおなみ砕け散るところ
  常盤ときわの松の翠みどり濃き
  秀麗の国秋津洲あきつしま
  有史悠々数千載すうせんざい
  皇謨こうぼあおげばいや高し

神代は東京芝中学校から難関を突破して海兵に入り、卒業して任官したものの軍人をあまり好きになれなかったらしく、新聞記者に転身を試み、昭和3年に予備役になった。
だが記者にはならず、大阪で会社勤めをしたりして、昭和7年に33歳で病死した。

(参考:上原光晴 著 『落下傘隊長 堀内海軍大佐の生涯』 光和社 1993年9月発行)

(平成29年4月25日 追記)


【大正8年頃の海軍兵学校】

江田島の海軍兵学校といえば、世界一いそがしい学校である。
試験に合格したあと、入校の3、4日前までに生徒館の朝の様子を観察する機会を与えられる。
最初に起床動作を見て、その素早さに度肝を抜かれる。
まず、毛布を決まった大きさにたたむ。シーツをきれいに伸ばす。衣服を素早く身に着ける。洗面所へ突っ走る。
窓際の上級生にはカーテンを縛り、窓を規定に従って開けるという動作が加わる。
これだけを、2、3分で終えなければならない。
全員の毛布が横一直線に並んでいないとやり直しをさせられるという厳しいもので、これを見て、すっかり自信をなくし、こんな生活はとても、と言ってあっさりと諦めて江田島を去る者もいた。

ざっと見渡しただけでも国漢、英語、理数、地理、歴史、倫理などの普通学および軍事学がある。
これら膨大な科目の授業と並んで武道、各種スポーツ、それに三大行事といわれる安芸宮島までの遠泳、遠漕、宮島の最高峰である弥山みせん(海抜530メートル)の登山競技が課せられる。
この三大競技に備えて日頃の訓練があり、外国人の教師たちは、その超人的な激しさに驚く、というより呆れていた。
このため、体をこわして留年する生徒が毎年、各学年から10人から20人ぐらい出た。

兵学校では、生徒をいくつかの分隊に分け、分隊ごとの競技に力を入れる。
分隊とは、学年ごとに生徒をいくつかの組に分け、各学年の一組ずつが組み合わされてできたグループである。
新入生(時期により3号生徒または4号生徒)から最上級の1号生徒まで、各学年の特定の数の生徒たちで構成されている。
彼らは常に分隊の名誉にかけて勝とうと競うのである。

(参考:上原光晴 著 『落下傘隊長 堀内海軍大佐の生涯』 光和社 1993年9月発行)

(平成29年4月25日 追記)


【海兵70期】

海軍兵学校70期生(432名)は、あたかも太平洋戦争に間に合わせるために誕生させ、育まれてきたようなクラスである。
それまでの海兵生徒は毎年4月に入校するのが常だったが、この70期では例年より早められ、昭和13年12月1日に入校式が行われた。
そおして、卒業が3年後の昭和16年11月15日、まさに日米開戦の約3週間前だったのである。
普通なら翌昭和17年3月のはずだが、戦争に備えてとられた措置だった。
また、かつて実施されていた練習艦隊による遠洋航海など夢のまた夢であり、少尉候補生らしい何の実習も訓練もないまま、実戦艦隊に配乗されていった。

この海兵70期の卒業生の中から、約180名という従来にない多数の飛行学生が2回に分けて採用された。
兵学校卒業者からの航空要員は毎年漸増されてはきたが、海兵69期になると、ついにクラスの40%を超す大量の飛行士官養成に入った。
海兵70期では、はじめ昭和17年6月1日に130名が霞ヶ浦航空隊へ入隊したが、昭和18年1月15日に50名を第39期飛行学生として追加している。

また、それまでは船乗り修行をして飛行機乗りにかわったのだが、海兵72期卒業生からは兵学校を卒業すると、航空要員はすぐ飛行学生を命じられた。
打ち続く苛烈な激戦は、それまでのような正統的海軍飛行士官養成コースを踏む余裕を与えてはくれなかったのである。

(参考:雨倉孝之 著 『飛行隊長が語る勝者の条件』 光人社NF文庫 1999年11月発行)

(令和2年5月16日 追記)


【海軍兵学校 針尾分校】

針尾島に海軍兵学校針尾分校が誕生し、78期の生徒が入学したのは、敗色迫る昭和20年(1945年)4月3日である。
これに先立ち、海軍当局は、戦時下の中学生の学力、体力が栄養不足と勤労動員で低下していることを考え、昭和19年6月、兵学校に予科制度を設けることを決めた。
つまり、生徒の採用年齢を1年くりあげて、入校後の修業期間を1年延ばす。
その1年ほどを予科の教程として基礎学力の習得と体位の向上にあて、そのあとで本科に進学させるというものであった。

2ヶ月後の昭和19年8月、予科生徒の募集が告示され、約7万3千人が応募し、約4千人が採用された。
兵学校はじまって以来、全期を通じて最大のクラスとなる。

予科生徒という呼称は、明治19年に廃止されてから59年ぶりの復活であったが、復活して最初で最後のクラスとなる。
事実上の4号生徒であったため、彼らは78期生徒と呼ばれた。
昭和4年生まれが主体である。

78期生の最大の特色は、江田島ではなく針尾島での生徒館生活で、先輩がおらず、彼らが唯一の期(クラス)集団として教育・訓練を受けたことである。
同期生だけで7部、84の分隊からなる生徒隊を編成し、各分隊の伍長、伍長補も同期生の中から採用時の成績上位者が任命された。
1個分隊の人数は50人近いので、一般の学校の級(クラス)に当たり、伍長は級長に、伍長補は副級長に相当する。

普通学、訓育の双方とも極めて充実しており、とくに英語が週4時間あって、日本語を全く使わずにオーラル・メソッドによる授業を受けた。
二世出身の教官が流暢な英語で楽しく物語を聞かせることもあり、敗戦の日を5ヵ月たらずに控え、戦後の中学校や高等学校でさえ追いつけない先進的な英語教育をおこなっていた。
水泳では鶴田義行、遊佐正憲といったオリンピック優勝者が直接手を取って教えるぜいたくさであった。

(参考:上原光晴 著 『落下傘隊長 堀内海軍大佐の生涯』 光和社 1993年9月発行)

(平成29年4月25日 追記)


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