平成18年2月22日
海軍経理学校之碑
明治7年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、のち幾変遷を経て明治40年これが海軍経理学校となった。
その間明治21年校舎は築地に移されたが、、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。
明治時代その付近には海軍の施設が多くその一帯は海軍発祥の地とも称されている。
校舎はさらに幾度かの移築を経て、昭和7年この西側築地の一角に移築されたが、太平洋戦争中就学人員激増のため品川ほか地方三か所に校舎を増設した。
戦後の海軍解体に伴い昭和20年9月同校は約70年の歴史を閉じた。
その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。
戦後30年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑を建てる。
昭和51年4月
(碑文より)
「海軍経理学校之碑」のある場所 (東京都中央区築地6−20) 「かちどき 橋の資料館」前の公園 向こうに見えるのが勝鬨かちどき橋 (平成18年2月22日) |
「海軍経理学校之碑」の裏 (平成18年2月22日) |
「海軍経理学校之碑」裏の碑文
上場の門標は品川学校のものである。
―(校歌・略)―
築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が松平定信邸の浴恩園の跡に当りかつて生徒クラス会を浴恩会と称したいきさつにちなんで、戦後は海軍経理学校同窓会を浴恩会と称することとしたが、この碑はその浴恩会が建立した。
昭和51年4月
浴恩会
海軍経理学校跡 (築地市場) (平成18年2月22日) |
「かちときのわたし」碑 (東京都中央区築地6−20・「海軍経理学校之碑」脇) (平成18年2月22日) |
勝鬨の渡し
所在地 中央区築地6丁目20番
明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。
当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。
石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋區祝捷會挙行之日建之京橋區同志會」と陰刻されています。
設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。
対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。
勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。
とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。
勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
平成16年3月
中央区教育委員会
(説明板より)
浴恩園跡 (東京都中央区築地5−2−1) 中央卸売市場正門脇の塀に「説明銘板」がはめ込めてあります。 (平成18年2月22日) |
都旧跡 浴恩園跡
所在 中央区築地5丁目2番1号 東京都中央卸売市場内
指定 大正15年4月26日
江戸時代中期の陸奥白河藩主松平定信は老中の職にあって寛政の改革で幕政の建て直しを行ったが、老後には将軍よりこの地を与えられた。
当時この地は江戸湾に臨み風光明媚で林泉の美に富み、浴恩園と名付けて好んだという。
明治維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院などを設置して著しく園池の風景を変えた。
さらに、大正12年12月、日本橋にあった魚市場(俗に魚河岸)がこの地に移転して来るに及んで、かつての浴恩園の面影はまったく消滅し、現在は東京都中央卸売市場が設置されている。
平成6年3月31日 建設
東京都教育委員会
(銘板の銘文より)
海軍経理学校正門敷石 (東京都渋谷区神宮前・東郷神社) (平成18年1月24日) |
海軍経理学校の沿革
明治7年10月、芝山内天神谷に設けられた海軍会計学舎は幾度かその名称を変え明治40年に海軍経理学校となった。
この間校舎も数度位置を変えて、明治21年に築地の松平楽翁公邸の浴恩園後に移り、更に昭和7年同じ築地の隅田川河畔(現在の勝閧橋右岸)に移築された。
昭和20年9月、71年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は1萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。
その間諸戦役事変に際会して国に殉じた者も数多く、また軍務を離れても各界各方面で活躍し我が国の興隆発展に多大の貢献をしている。
昭和55年5月
浴恩会(海軍経理学校同窓会)
(正門敷石の説明板より)
海軍経理学校正門敷石 (東京都千代田区・靖国神社) (平成20年12月16日) |
海軍経理学校正門敷石 (東京都千代田区・靖国神社) (平成20年12月16日) |
海軍經理學校正門敷石
海軍經理學校の沿革
明治7年10月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計學舎は幾度かその名稱を変え明治40年に海軍經理學校となった。
この間校舎も数度位置を変えて、明治21年に築地の松平楽翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和7年同じ築地の隅田川河畔(現在の勝閧橋右岸)に移築された。
昭和20年9月、71年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は1萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戰力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。
その間諸戰役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献をしている。
昭和55年5月
浴恩會(海軍經理學校同窓會)
(説明板より)
海軍経理学校
明治7年、芝山内に創設された「海軍会計学舎」が発祥といわれている。
大正7年8月、「海軍経理学校令」の制定により「海軍経理学校」の基礎が確立。
教育方法は原則的に海軍兵学校、海軍機関学校とほぼ同じ。
採用試験も3校統一的に行われた。
生徒の修業期間は当初は3年、その後、昭和3年度から3年8ヶ月、昭和9年度からは4年に延長されたが、昭和13年度の30期からは3年、その後段階的に短縮され、2年4ヶ月となっている。
日米開戦後は、品川、浜松、垂水、橿原に分校を設置して分散教育を行なった。
主計科短現士官
(当初)
主計科士官の増員に対し従来の修業期間4年(生徒3年、候補生1年)では間に合わないため、当面の要請に応えるため「2年現役制度」の大幅な活用を行った。
1)大学の法学部・経済学部・商学部を卒業した者または高等文官試験合格者の中から選考試験によって現役海軍士官として採用する。
2)採用者は主計中尉に任官、海軍経理学校で4ヶ月間ほどの基礎教育(補修学生)後実施部隊に配属する。
3)服務期間は2年、期間満了後は一階級進級して予備役へ。
※このように2年間の短期現役に服務することから通称「短現」と呼ばれた。
(その後)
採用される学歴を高等専門学校・旧制高等学校卒業者にも拡大し、主計少尉候補生として採用、基礎教育後主計少尉に任用した。
日米開戦後は一定期間の基礎教育終了後に大学卒業者は主計中尉に、高等専門学校卒業者は主計少尉にする制度に改められた。
主計短現士官は第1期から第12期までで、総数は3,558名。(うち戦没者は403名)
(各期の特徴)
第1期生・第2期生
大学卒業者は任官後2年あまりで主計大尉となり予備役となったが、太平洋戦争勃発に伴い召集され主計少佐で終戦を迎えた人が多い。
第3期生
軍需工場監査制度の強化のため、ほとんど全員が大学の経済学部出身。
補修学生教程終了後は、全員が各地の海軍監査官事務所に配属。
昭和16年10月の満期前に服務延期となり、現役が6年も続いた。
4期生・7期生
服務延期令のため現役のまま終戦を迎える。
第11期生
学生の徴兵猶予の恩典廃止のため、在学中のまま海兵団に入隊、選考試験により水兵の身分で短現士官となる。
(参考:『丸・戦争と人物8・陸海軍学校と教育』)
【主計科士官】
兵学校をはじめ海軍の各種教育機関の中で、最も多くの普通科を組みこんでいるのが、海軍経理学校である。
主計科士官は戦闘中はその経過を記録するという任務もあるが、いずれにせよ、現実の動きを数字を通して冷静に記録し管理するのが任務である。
(参考:城山三郎 著 『指揮官たちの特攻』 新潮社 2001年9月第5刷発行)
(令和2年5月14日 追記)
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