海上挺進基地第8大隊

(通称号:暁16795部隊)

(編成地:広島県宇品・船舶本廠)


海上挺進基地第8大隊の碑

海上挺進基地第8大隊之碑
ルソン島リザール州ボソボソにて
陸軍  野口末男
昭和20年3月22日歿 行年51才
宮崎県延岡市出身
妻 野口文枝
(フィリピン共和国ルソン島バグサンハン・比島寺)



(平成18年11月2日)
比島寺



比島寺

(フィリピン共和国ルソン島・バグサンハン)


旅日記参照)


(平成18年11月2日)

編成人員:編成定員890名+増加人員18名
兵器:九九式短小銃730挺・九五式軍刀110振・軽修理車2組
フィリピン上陸後支給された兵器:大隊砲2門・重機関銃10挺・軽機関銃12挺・重擲弾筒8挺

職員表
大隊本部 大隊長 陸軍少佐 長 一二三 編成定員:69名
副官 陸軍中尉 堤 吉一(戦死)
暗号掛 陸軍大尉 内野 博
兵器掛 陸軍中尉 柏原 徹巌(のち副官)
通信班長 陸軍中尉 鮫島 宗二
瓦斯掛 陸軍少尉 楠見 静夫
経理 主計少尉 宮本 俊夫
衛生 軍医中尉 吉江 信芳(戦病死)
(第1中隊) 中隊長 陸軍中尉 大舘 敬明(戦死) 編成定員:252名
小隊長 陸軍少尉 廣岡 某 (戦死)
小隊長 陸軍少尉 野口 某 (戦死)
小隊長 陸軍少尉 元永 某 (戦死)
(第2中隊) 中隊長 陸軍大尉 北原 典生 編成定員:252名
小隊長 陸軍中尉 森本 静夫(戦死)
小隊長 陸軍少尉 川俣 武信
小隊長 陸軍少尉 前田 稔 (戦病死)
(第3中隊) 中隊長 陸軍中尉 鎌數 周行 編成定員:252名
小隊長 陸軍中尉 中薗 武義(戦死)
小隊長 陸軍少尉 井川 親 (戦死)
小隊長 陸軍少尉 木村 一人(戦死)
小隊長 陸軍少尉 上田 良一(戦死)
整備中隊 中隊長 陸軍中尉 寺尾 某 (台湾残置) 編成定員:65名
小隊長 陸軍少尉 市来 某 (台湾残置)
小隊長 陸軍少尉 高橋武夫(生死不明)
中隊付 技術中尉 本田 某 (台湾残置)

(中隊番号は便宜上付記したもの)


昭和19年8月29日、宇品船舶本廠にて編成。(8月31日編成完結)
昭和19年9月4日、宇品港を出帆。
途中、門司港にて一部転載し高雄港に寄港。
昭和19年9月14日、第14軍命令によりボルネオ守備軍司令官の指揮下に入り、海上挺進基地を設定する為大隊長はマヌカン島に先行。
高雄港にて海上挺進第8戦隊長の指揮下に入った整備中隊(増加要員の主計将校1名・軍医将校1名を含め60名)は台湾空襲のため台湾に残置となる。
昭和19年10月8日、海上挺進基地第8大隊主力マニラ到着(現地増加要員10名を含め840名)
警備・基地設定の作業に就く。
昭和19年10月15日、状況の変化により大隊長にマニラへの帰還命令が出る。
昭和19年10月18日、ラモン湾、マウバン海岸線に基地を設定。水際殲滅を狙う。

昭和19年11月3日、ラモン湾に部隊を転移して河嶋兵団の指揮下に基地の設定を行い、海上挺進第8戦隊及び海上挺進基地第8大隊整備中隊の来着を待つが、海上挺進第8戦隊1個中隊のみ来着。
戦況已む無く戦隊本隊及び基地大隊整備中隊は台湾残置となる。
昭和20年1月3日、勤兵団(第105師団)兵団長の指揮下に入り、マニラ東方高地ボソボソ地区に防御陣地を構築せよとの命令を受ける。

軍需品の集積および輸送は輸送車両がないため集積状況は不良。
輸送は人力に頼り、一時は水牛も使用する。

昭和20年1月10日〜6月16日、野口兵団(歩兵第82旅団)の沖田支隊(独立歩兵第186大隊)長の指揮下に入る。
昭和20年1月30日よりボソボソ川流域神力山に陣地を構築。(3月12日完成)
約5kmにわたる山岳地帯に約380名を動員して陣地を構築し、第一線に3個中隊を、第二線に大隊本部および予備1個小隊を配置。
陣前斬込み、肉迫攻撃により敵を撃滅する予定が、防御配備の担当地区正面が広すぎるため隙間が出来てしまい防御は困難な状況となる。

昭和20年3月中旬より、マニラ市内斬込み攻撃、マニラ東方高地防御戦闘、振武集団総攻撃に参加。
敵の砲爆撃により蛸壺陣地の殆どが破壊され、洞窟陣地の3分の1も崩壊する。
敵機の来襲は1日平均30機〜100機。
主としてP38であったが、時々B25が来襲したという。
軽修理車2組は敵機の爆撃により損耗する。
この間の戦果は撃墜2機(うち1機は観測機)
終戦までゲリラとの遊撃戦を展開し、その間、約58名の俘虜を得たが米正規兵ではなくゲリラのため取調べ後に銃殺したという。
3月中旬からの防御戦闘では状況悪化に伴い逐次後退。
陣地防御戦闘では中隊長以下1個中隊を失い、斬込み攻撃や集団の総攻撃では3個小隊を損耗する。
その間、兵力の約半数をマラリアや餓死により失う。
また、物資蒐集による生死不明多数に及ぶ。

(仮称)第2中隊の川俣小隊は、マウバン、テレサに転戦し、野口兵団に属して決勝山、東山(東光輝山?)の戦闘に参加。
剣山にて他部隊の転進を擁護する。

大隊主力が神力山から武勲山に後退した時は、生存者は大隊長以下30余名。
兵器の損耗により殆ど戦闘不可能な状況となり、兵団糧秣輸送の確保と護衛に任ずる。

昭和20年4月以降、食糧が欠乏し、更にマラリア罹患者が全体の90%にも及ぶ。
5月以降には山中深く食糧皆無の為、竹の子、木の実、雑草に食糧を頼ったが栄養失調により多数の餓死者を出す。
昭和20年6月17日、軍直轄部隊として振武集団(第41軍)長の指揮下に入り、9月2日の停戦命令を受領。(この時点での大隊兵力は生存者61名)
昭和20年9月8日、陣地を撤収しラグナ湖北岸のタナイにある米軍駐屯地に降伏。

生存者:将校9名、下士官22名、兵19名  計50名
戦死・戦傷死者:約280名
戦病死者:390名
生死不明者:約120名


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