平成23年2月13日

亀山天皇 かめやま・てんのう

建長元年5月27日(1249年7月9日)~嘉元3年9月15日(1305年10月4日)

福岡県福岡市・東公園でお会いしました。


後嵯峨天皇の皇子。
名は恒仁つねひと
母は西園寺実氏の女・姞子きつし
兄・後深草天皇の皇太子となり、正元元年(1259年)に第90代天皇に即位。
在位:正元元年11月26日(1260年1月9日)~文永11年1月26日(1274年3月6日)
文永9年(1272年)、御嵯峨上皇が没し、皇位継承問題が起こったが、鎌倉幕府の諮問に対し大宮院は亀山天皇を支持したので、幕府もこれに従った。
文永11年(1274年)、皇子・後宇多天皇に譲位して院政を始める。(亀山上皇)
訴訟制度の改革などに取り組んだり、伝領した所領に八条院領などを加えて大覚寺統の所領の基礎を作った。
弘安10年(1287年)、皇位が持明院統の伏見天皇に移ると、正応2年(1289年)に出家。




亀山上皇銅像
(福岡市博多区東公園)

明治37年11月建之
製作者 山崎朝雲



(平成23年2月13日)

亀山上皇銅像

13世紀後半の元げん(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄ゆぢたけお氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元寇に縁ゆかりあるこの地に建立されました。
高さ約6メートルを誇るこの像の原型となった木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町くしだまえまち生まれの彫刻家山崎朝雲ちょううんの代表作のひとつで、現在は筥崎宮はこざきぐうの奉安殿ほうあんでんに安置されています。

(説明板より)


【持明院統と大覚寺統】

第88代後嵯峨天皇の二人の皇子は、それぞれ第89代後深草天皇、第90代亀山天皇と、兄弟で皇位を継いだ。
これが皇統を二つに割り、幕府の介入を招く契機となった。
後深草天皇の皇統が持明院統と呼ばれた。
そして亀山天皇の皇統が大覚寺統と呼ばれた。

(参考:『特別展 常陸南北朝史~そして、動乱の中世へ~』 茨城県立歴史館 平成26年2月発行)

(令和2年9月30日 追記)




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