神風特別攻撃隊・敷島隊


関行男慰霊之碑



関行男慰霊之碑

(愛知県西条市・楢本神社)





(平成19年11月11日)

碑文

人類6千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。
「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。
この種の攻撃を行ったものは、わが日本民族を除いては見当らないし、日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は、国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。
憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意思に基いて、絶対生きて還ることない攻撃に赴いた事実は、眞にわが武士道の精髄であり、忠烈萬世に燦たるものがある。
神風特別攻撃隊第一陣は、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、昭和19年10月20日、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。
この攻撃隊18機(うち半数は直掩隊)は10月25日出撃し、6機は敵護衛空母に命中し、3機は至近弾となって敵艦を損傷した。
中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(1万400屯)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体二つに折れて轟沈するという偉攻を奏した
関行男大尉がその教へ子に残した辞世は
  教へ子は散れ山桜
          かくの如くに

元航空幕僚長 参議院議員 源田實 撰文

昭和19年10月25日
於比島スルアン島沖合にて戦死

昭和50年3月
西条海軍会建之

副碑




副碑






(平成19年11月11日)

関中佐功績顕彰歌

栗田友市 作詞
根本邦雄 作曲

一 武丈の花の精うけて
      大和心の 敷島隊
   吹けよ 神風 花吹雪
      散りて尊き軍神

ニ 必死必中敵艦に
      あゝ壮烈の体当たり
   鬼神もさくる特攻の
      先陣切りし関中佐

三 見送る基地に手をあげて
      こたふ間もなく雲の上
   生も死もなき心境に
      取る零戦の舵かるし

四 スルアン近く 敵の艦
      忽ち覆ふ弾幕に
   ニッコリ笑って振る翼
      我につづけと急降下

五 五つの肉弾 轟然と
      あげる火柱 水柱
   いさおも高き忠烈は
      いや輝かん萬世に

六 大君の為 神風は
      翼つらねて今日も征く
   中佐の霊や故郷の
      我等に何を求むらん

(副碑・碑文より)

軍神・関海軍中佐事歴

関行男は西条市栄町関勝太郎の長男 大正10年8月生誕す。
幼少より怜悧、果敢、何事も衆に秀づ、昭和9年3月大町小学校卆業次で県立西条中学校へ入学。
昭和13年12月江田島海軍兵学校(第70期生)へ入学し帝国海軍軍人としての宿望を果すと共に、航空技術を習得して教官となり累進して海軍大尉に任官す。
大東亜戦争末期、日本国の命運旦夕に迫りし昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊々長として出撃し、皇国悠久の大義に殉ず。
豊田聯合艦隊司令長官は、忠烈萬世に燦たる関の殊勲を全軍に布告し、二階級特進の栄冠によりその偉功を賞揚す。
西条市の旧海軍々人の有志相謀りて、遺族無き軍神関行男の慰霊碑を建立し、源田実氏除幕して、その功績を永久に顕彰す。
自今、毎年10月25日、軍神が敵空母「セント・ロー」に直撃して、轟沈破の日を例祭と定め、碑前に献花供饌して霊魂安眠の礼を執り行って遇す。
依りて、世界恒久平和の魁として鎮護されむことを

昭和50年3月21日
楢本神社 宮司 西条市海軍会々長 石川梅蔵

(副碑・碑文より)

碑文

昭和50年3月21日遺族無き軍神関行男隊長の慰霊碑建立後、2番機中野磐雄軍神にも遺族無きを知りしため小職は隊員五軍神の命の祀碑を隊長碑の許に建立すべく計画し、昭和52年9月より毎年敷島隊の飛び立ちし、比島の現地マバラカットの旧飛行場跡に現地人の建立せし神風特攻隊員の巨大の慰霊碑前にて3ヶ年に亘り慰霊祭を執り行いこの敷島隊々員の命達と御遺族の方々に御同斎の御了承を得ると共に全国の篤志の方々に檄して物心両面の御協力を得、軍神等が搭乗の零戦に抱いて突入せし250キロ爆弾と仝形の祀碑に要文を記して彫刻しこれを垂直に屹立せしめ後代子孫が敬仰尊崇の碑として建立し毎年命達が散華せし10月25日に祭儀を厳修す。

維時 昭和56年10月25日
神風特別攻撃隊敷島隊奉賛会長 石川梅蔵

(副碑・碑文より)

鎮魂

昭和56年10月25日

大東亜戦争末期、敵の大機動部隊のレイテ湾進攻を阻止し、大和民族の純血を守らんとして神風特別第1号敷島隊は、一機一艦轟沈を目差して世界最初の公式の人間爆弾となり国家悠久の大義に殉ず
嗚呼 若き血の迸る五軍神命達よ
    世界恒久平和の魁としてこれの聖所に安かに斎かれまさんことを祈る

五軍神の祀碑の下には命達の遺品を各々埋没してあります

日本が世界に誇る神風の五軍神の祀碑西条に建つ

(鎮魂碑・碑文より)

関行男祀碑


五軍神祀碑

神風特攻敷島隊
1番機 海軍中佐 関行男命碑
愛媛県西条市出身 行年23才



(平成19年11月11日)
中野磐雄祀碑


五軍神祀碑(手前)

神風特攻敷島隊
2番機 海軍少尉 中野磐雄命碑
福島県原町市出身 行年19才



(平成19年11月11日)
谷暢夫祀碑


五軍神祀碑(手前)

神風特攻敷島隊
3番機 海軍少尉 谷暢夫命碑
京都府舞鶴市出身 行年20才



(平成19年11月11日)
永峰肇祀碑


五軍神祀碑(奥)

神風特攻敷島隊
4番機 海軍飛行兵曹長 永峰肇命碑
宮崎県宮崎市出身 行年19才



(平成19年11月11日)
大黒繁男祀碑


五軍神祀碑

神風特攻敷島隊
5番機 海軍飛行兵曹長 大黒繁男命碑
愛媛県新居浜市出身 行年20才



(平成19年11月11日)
楢本神社




楢本神社






(平成19年11月11日)

楢本神社のしるべ

一.鎮座地 西条市大町1,138番地
一.御祭神 大国魂神外三柱
一.祭日
春 4月7日 秋 10月15日
特攻の先陣神風特別攻撃隊敷島隊 追悼式典 10月25日
一.由緒と沿革
西条の名の発祥地、西条荘守護神として奈良朝以前創祀されたが詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に焼失し、つまびらかならず。
一.産子うぶこと崇敬者
産子 大町郷3500戸
崇敬者 北海道より沖縄までの全国各地に散在す。
一.社宝
神宝貝正則作 短刀一振
神宝蝮封じ石 二個
一.境内坪数 500余坪

境内主要建造物
一.関行男慰霊碑
大東亜戦争末期世界最初の公式の人間爆弾となりし神風特別攻撃隊敷島隊々長関行男中佐の慰霊碑を建立し昭和50年3月21日元航空幕僚長源田実参議院議員により除幕。
一.真鍋嘉一郎誕生の家
東大医学部に物理療法学の講座を開設し初代教授となった奇代の大英才、真鍋嘉一郎の生家を昭和53年8月に復元して記念館とす。
一.大東亜戦争特攻記念館
全国各地の同志の奉賛を得て昭和54年10月25日に建設を終り開館す。
一.神風特攻第一號敷島隊 五軍神祀碑建立
第1番機 海軍中佐      関行男   愛媛県西条市出身 行年23才
第2番機 海軍少尉      中野磐雄 福島県原町市出身 行年19才
第3番機 海軍少尉      谷暢夫   京都府舞鶴市出身 行年20才
第4番機 海軍飛行兵曹長 永峰肇   宮崎県宮崎市出身 行年19才
第5番機 海軍飛行兵曹長 大黒繁男 愛媛県新居浜市出身 行年20才
昭和56年10月25日全国の有志諸賢奉賛により五軍神達が各々搭乗の零戦に抱いて敵艦に突入の250キロ爆弾と同型の祀碑を戦闘隊形に建立し、19才、20才と云う若者達が国家の悠久繁栄を信じ大和民族の純血を守らんとせし心情を偲ぶ囚よすがとせり。

日本が世界に誇る神風の
   祀碑竝び建つ四国西条


(説明板より)

神風特攻記念館



神風特攻記念館
(愛媛県西条市・楢本神社境内)





(平成19年11月11日)

フィリピン・ルソン島
201空本部跡


201空本部跡
(フィリピン・ルソン島マバラカット)

関行男大尉が体当たり「特攻」を決断した本部兼士官宿舎。
現在は当時の2階建ての建物は取り壊され建て直されています。



(平成16年5月7日訪問)
マバラカット西飛行場記念碑



マバラカット西飛行場記念碑


『第二次世界大戦に於て日本神風特別攻撃隊が最初に飛び立った飛行場』



(平成16年5月7日訪問)
飛行場跡の小高い丘




マバラカット西飛行場跡






(平成16年5月7日訪問)
マバラカット西飛行場跡




マバラカット西飛行場跡






(平成16年5月7日訪問)
神風平和記念廟



神風東飛行場平和記念碑
(フィリピン・ルソン島マバラカット)





(平成16年5月7日訪問)
解説文の碑



神風東飛行場平和記念碑
(フィリピン・ルソン島マバラカット)





(平成16年5月7日訪問)
神風東飛行場平和記念碑
本場所は、第二次世界大戦中、日本最初の神風特別攻撃隊が飛び立ったマバラカット東飛行場の跡である。
1944年10月20日、神風特別攻撃隊は海軍中将大西瀧治郎により此処ルソン島パンパンガ州マバラカットに於いて創設された。
同攻撃隊の最初の志願隊員は、当時マバラカットに駐留していた日本帝国海軍第一航空艦隊・201航空隊に所属する玉井浅一中佐麾下の23名のパイロット達であり、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の4隊に分けられ、関行男大尉が全体の隊長に任命された。
1944年10月25日朝7時25分、関行男大尉は中野盤雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長及び大黒繁男上飛の敷島隊を率いてこの東飛行場から飛び立った。
同日午前10時45分、レイテ島沖の米機動部隊に対し同敷島隊は攻撃を開始、関機が先ず最初に米空母セント・ローに体当たりした。
同艦は炎上、20分後に沈没した。
他の隊員も全員体当たりを果たし、米空母カリニン・ベイ、キトカン・ベイ、サンガモン、サンティー、スワニー及びホワイト・プレーを大破あるいは中破させ、米軍に多大な損害を与えた。
成功裡に終わったこの最初の神風特別攻撃は、当時敷島隊を空から掩護・誘導した西澤広義飛曹長ー103名の米軍撃墜死が確認されている、日本の撃墜王と言われた名パイロットによって目撃・報告されている。
戦後、多くの戦争歴史研究者が関行男大尉を世界最初の人間爆弾であったと公に認めている。
(注記)
マバラカット観光局(MTO)が神風平和記念廟の建立を推進した理由は、神風特別攻撃隊の栄光を称賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて世界の民族に平和と友好の尊さを訴える為である。
神風平和記念廟が神風特別攻撃隊のような不幸な出来事を二度と繰り返さないと誓う場所となることを祈念する。
マバラカット観光局長
ガイ”インドラ”ヒルベロ
マバラカット東飛行場跡




マバラカット東飛行場跡






(平成16年5月7日訪問)

【関行男の母・サカエ】

墓とは別に、立派な慰霊碑が建ち、毎年慰霊祭が行われるようになったが、「神風特別攻撃隊」の名付け親である源田実が来ると聞いてから、サカエは参列しなくなったという。

石鎚山から流れる川の谷間にある、中学校も併設した小さな小学校の小使いにならぬかと縁者を介して、サカエに話が持ち込まれた。
交通が不便なので、一部の教員や児童のための宿舎もあり、サカエも働きながら小使い室で寝起きも出来る、という。
小躍りして、サカエはその仕事に飛びついた。
昭和23年8月のことである。
朝早くか湯を沸かすことから始まり、お茶汲み、掃除、給食の世話など。
小中学合わせて150人ほどとはいっても、かなり忙しかったはずだが、サカエは愚痴をこぼしたことがない。

だが、高血圧が進んでおり、その谷間で働き出して5年ほど後、昭和28年11月、村の雑貨屋の店先で倒れ、戸板で小使い室まで運ばれ、絶命した。
ときに55歳だった。

(参考:城山三郎 著 『指揮官たちの特攻』 新潮社 2001年9月第5刷発行) 

(令和2年5月14日 追記)


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