観阿弥 かんあみ

正慶2年・元弘3年(1333年)〜至徳元年・元中元年5月19日(1384年6月8日)


初代観世大夫でシテ方観世流の祖。
実名は清次きよつぐ、芸名は観世、のちにこれが座名となる。
観阿弥は法名観阿弥陀仏の略称。
大和国の山田猿楽、美濃大夫の養子の三男で、通称三郎。
世阿弥の父。
大和猿楽四座の結崎ゆうざき座に属し、能役者の棟梁として大和国以外でも活動した。
永和元年・天授元年(1375年)頃に京都今熊野いまくまのの能で将軍足利義満よしみつに認められ、天下に名声を博した。
この催しで、猿楽座本来の座衆である翁おきな猿楽専門の芸人と能大夫の分離が決定的となり、芸能史上の画期とされる。
広い芸域で観客を魅了し、能の音曲に革命をもたらした。
能作者としても『自然居士じねんこじ』『四位少将しいのしょうしょう(通小町かよいこまち)』などが知られる。
至徳元年・元中元年(1384年)駿河国で客死。


観阿弥供養塔



観世流祖 観阿弥供養塔

(奈良県大和郡山市・大和郡山城





(平成19年4月11日)

【隠密?】

昭和37年(1962年)、三重県上野市の旧家から古文書が発見されました。
これを上嶋家文書といいますが、要するに能楽の観世家の系図なのです。
ここには楠木正成の父である楠木正遠の娘(正成の妹)が伊賀の服部一族に嫁いだことが記されています。
服部一族とは、かの徳川幕府の御庭番(隠密)として召し抱えられた服部半蔵のご先祖様にあたる方なのです。
この伊賀の服部持法じほうと正成の妹が結婚し、その子が能楽を興した観阿弥であるとされています。
そして子の世阿弥へと能楽は継承・発展していくのです。

能楽者は全国各地を巡業したり、芸能者としていろいろな屋敷に出入りが可能でした。
また、江戸時代に各地に設けられていた関所でも芸人は通行手形なしでも通れたのです。
かつてのソ連にはボリショイ・サーカスとかボリショイ・バレエ団のような国営芸術団体がありましたが、文化や芸術の演者として工作員が紛れ込み、様々な人間関係を構築しつつ、情報を収集したりしているのです。
まさに能楽とは、当時の貴族・武家・仏寺などとの交流から情報工作と表裏一体の関係にあった可能性が考えられます。
観阿弥の子、世阿弥はパトロンであった足利義満の死後、室町幕府からは冷遇されるようになり、遂に佐渡に流されますが、その子の元雅もとまさに至っては、伊勢で暗殺(一説によると御家人により)されているところが何を物語るものなのか考えさせられる点です。

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行

(令和元年11月8日 追記)




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