久慈郡金砂郷町大字上河内字峰巣
西金砂山は「頼朝の金砂攻め」として史上名高い金砂城址である。
もっとも城とはいえ城郭を構えたものでなく、天険の山そのものが城であった。
知承4年(1180年)11月4日、源頼朝の佐竹氏討伐に、三代佐竹秀義は太田城の本城を捨てて西金砂山に篭城・応戦。
要害険阻なこの山に籠もった秀義軍は、数千の強兵を相手に一歩も退くことなく奮戦、攻め手頼朝軍勢は雨霰と降りかかる矢・石にうたれて苦戦、狭小絶壁の道なき道に進退ならず、放つ矢は敵に届かず、空しく矢をつがえて機を待つばかり。
兵法に迷う激しい攻防の二日後、味方のスパイ行為によってついに落城した。
尚この西金砂山は、南北朝争乱期に南朝方と激戦を交えた時の篭城の地となり、さらに応永10年から100年余にわたって繰り広げられた支族山入氏義との内紛の折、佐竹義舜が篭城して死力を尽くした地であり、佐竹家初代昌義が尊信するようになってから、佐竹が西金砂山に篭城の都度戦いが有利に展開したので、金砂山は佐竹開運の山として崇敬された山であり神社であった。
(金砂郷町教育委員会)
西金砂神社があるあたり一帯が「金砂城址」らしいのですが・・・
「西金砂山城」と「金砂山城」と「金砂城」は同じ城なのだろうか?
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金砂城址の説明板 |
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こういうところに説明板があるんですが・・・
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