金ヶ崎城 かねがさきじょう

福井県敦賀市金ヶ崎


金ヶ崎城跡 平成20年4月12日

金ヶ崎城址碑



史跡 金ヶ崎城址碑

昭和11年3月建設




(平成20年4月12日)



敦賀町の東方に位する半島部に在り延元元年10月新田義貞皇太子恒良親王尊良親王を奉じて立籠りたる処にして賊軍の攻撃加はるに及び城兵険に據り奮戦力闘せしも衆寡敵せず翌年3月城遂に陥り尊良親王自刃し給ひ新田義顕以下数百人戦没せし処なり
城地の主要部は今官幣中社金崎宮の境内に属し其の背面の高処には城戸焼米出土地月見御殿址等あり
略旧規を存せり

昭和10年11月
文部省

(説明板より)


金ヶ崎城跡

南北朝時代 新田義貞、尊良・恒良親王を奉じて敦賀へ

延元元年(1336)10月
後醍醐天皇は新田義貞に命じ、尊良親王、恒良親王を奉じて北陸道に下向せしめた。
一行は、気比神宮の大宮司気比氏治けひのうじはるに迎えられその居城、金ヶ崎城に拠られた。
しかしここも足利軍の攻めるところとなり、総大将高師泰こうのもろやすは兵6万余りを以て陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、杣山城の瓜生保うりゅうたもつ等兵5千余の応援も功を奏せず3月6日遂に落城、尊良親王、新田義貞が嫡子義顕よしあき以下将士300余人が共に亡くなられた。
尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。
恒良親王は、気比氏治が子息斎晴なりはるによって脱出されたが、後に捕らえられ、延元3年(1338)4月13日毒薬をもられて亡くなられた。
御年15歳であったという。

戦国の世 金ヶ崎に信長・秀吉・家康が勢揃い

元亀元年(1570)4月
織田信長は越前の朝倉義景討伐の軍をおこし、敦賀に進軍、天筒山城、金ヶ崎城を落し、越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽退却、この時金ヶ崎城に残り殿(しんがり=軍隊を引き上げる際、最後尾にあって追って来る敵を防ぐこと)を務めこの難関を救ったのが木下藤吉郎(豊臣秀吉)で、その活躍にて無事帰京することが出来たと伝えられる。

金ヶ崎は天下取りへのターニングポイント
この戦いの2ヶ月後、信長は近江姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、天正元年(1573)8月には夫々を滅ぼす。
また秀吉もその後信長の信任を受け天下取りの道をすすみ、家康は秀吉の殿しんがりを助けて、後に謝意を受けるなど金ヶ崎での戦いは、信長・秀吉・家康それぞれの武将にとっても天下取りへのターニングポイントになったところといえる。

金ヶ崎の退き口かねがさきののきぐち
金ヶ崎の戦いは秀吉・家康にとって大きな武功の一つとされるが、秀吉が無事、殿しんがりを務めたため後に「秀吉の退き口」などといわれ、撤退の見本とも称される。
またこの時ともに戦ったとされる山内一豊や秀吉の家来達も秀吉の出世とともに功名を挙げてゆく。
その武将らにとっても「金ヶ崎の退き口」は大きな転換点であったのだろう。

(金崎宮のチラシより)


案内図 案内図

金碕古戦場碑




金碕古戦城碑






(平成20年4月12日)
月見御殿址碑




月見御殿址碑






(平成20年4月12日)

月見御殿

この付近は金ヶ崎の最高地(海抜86メートル)で月見崎といい通称月見御殿と呼んでいて、南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といい、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。

(説明板より)

月見御殿跡 月見御殿跡から見た景色
三の木戸跡




三の木戸跡






(平成20年4月12日)

三の木戸跡

ここは南北朝時代(西暦1336年〜1392年)金ヶ崎城の三の木戸の跡である。
地名は水の手といい、当時の用水場で付近から清水が、わき出ていたと伝えられる。

(説明板より)

焼米石出土跡




焼米石出土跡





(平成20年4月12日)

焼米石出土跡

この付近は戦国時代、金ヶ崎城の兵糧庫があり、織田・朝倉の攻防戦で落城の際、倉庫は焼け落ちその焼米が後に出土したと伝えられる。

(説明板より)

二の木戸跡




二の木戸跡





(平成20年4月12日)

二の木戸跡

この付近 南北朝時代(西暦1336年〜1392年)金ヶ崎城の二の木戸(第2の関門)跡であり、この付近で激戦があったといわれる。
これより東の方位へ120メートルに一の木戸跡がある。

(説明板より)

二の木戸周辺
一の木戸跡




一の木戸跡





(平成20年4月12日)

一の木戸跡

ここは南北朝時代(西暦1336年〜1392年)金ヶ崎城の一の木戸(最初の関門)跡でこの付近で激戦があったと伝えられる。
この掘割は敵の侵入を妨害する役割を果たした。
なお戦国時代朝倉氏もこれを利用した。

(説明板より)


絹掛神社



摂社 絹掛神社
(福井県敦賀市金ヶ崎・金碕宮境内)





(平成20年4月12日)

摂社 絹掛神社の由来

延元2年(1337)3月6日金ヶ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃した。
祭神はその人達である。
氏名の判明する者僅かに十数名、大半の人は近畿、中国、四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少くはない。
籠城5ヶ月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向かった壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。

(説明板より)


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