金沢貞顕 かねざわ・さだあき

弘安元年(1278年)〜正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日)


従四位上・修理権大夫。
執権。
北条一門の顕時の子。
評定衆・六波羅南方・引付頭人・六波羅北方などを経て、正和4年(1315年)連署に就任。
嘉暦元年(1326年)3月、執権北条高時の出家後、長崎高資に推されて執権となるが、高時の弟泰家らの反対によりまもなく出家、法名は崇顕すうけん
翌月、赤橋守時が執権に就任。
元弘3年(1333年)一門と共に東勝寺で自害。
父や祖父と同様に学問を好み、多数の書籍を書写・収集した。


金沢貞顕の墓



金沢貞顕の墓
(神奈川県横浜市金沢区・称名寺)





(平成20年2月8日)
金沢貞顕の墓



金沢貞顕の墓

(神奈川県横浜市金沢区・称名寺)

門には「北条顕時公廟所」とあるが、実際は貞顕の廟所です。



(平成20年2月8日)

北条顕時・金沢貞顕の墓

顕時(1248〜1301)は北条実時さねときの子で、鎌倉幕府の重職であった引付衆ひきつけしゅう、評定衆ひょうじょうしゅうなどを歴任しました。
1285年の霜月騒動しもつきそうどうによりまして一時政界を退きましたが、その間、禅に傾倒し、五山版ござんばんのさきがけとなります『伝心法要でんしんほうよう』の開版をおこないました。
貞顕(1278〜1333)は顕時の子で、六波羅探題ろくはらたんだいをつとめたのち、第十五代執権しっけんとなりました。
和漢の書物を多数収集し、金沢文庫かねさわぶんこを国内屈指の武家の文庫に創りあげるとともに、称名寺の伽藍がらんや庭園の整備につくし、その最盛期を築きました。
1333年、新田義貞の鎌倉攻めにあい、北条高時たかときおよび北条氏一族とともに鎌倉の東勝寺とうしょうじで滅びました。
墓地は、従来、向かって右の五輪塔ごりんとうが貞顕、左の五輪塔が顕時の墓とされていましたが、1935年に右の五輪塔から青磁壺せいじつぼ(重要文化財)が発見され、さらに、その五輪塔の様式等から、右の五輪塔が顕時、左の五輪塔が貞顕で南北朝期の供養塔と確認されました。

平成6年3月31日
横浜市教育委員会

(説明板より)

北条顕時・金沢貞顕の廟所



北条顕時・金沢貞顕の廟所
(神奈川県横浜市金沢区・称名寺)





(平成20年2月8日)
称名寺



称名寺

(神奈川県横浜市金沢区金沢町212−1)





(平成20年2月8日)

国指定史跡
称名寺境内

    大正11年10月12日 指定
追加 昭和47年1月31日  指定
(史跡面積 155,245u)

称名寺しょうみょうじは、金沢山きんたくざん称名寺と号し、真言律宗りっしゅうの別格本山として西大寺末の律院りついんで、本尊には木造弥勒菩薩立像みろくぼさつりゅうぞう(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏かなざわほうじょうし一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉しょうか2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224〜1276)が、六浦荘むつうらのしょう金沢の居館内に営んだ持仏堂じぶつどうから発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍がらんの整備が着手され、実時の子、顕時あきとき(1248〜1301)の時代には、弥勒堂みろくどう、護摩堂ごまどう、三重塔さんじゅうのとうなどが建立され、さらに、顕時の子、貞顕さだあき(1278〜1333)は伽藍の再造営を行い、元亨げんこう3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵らいごういたえ(重要文化財)に荘厳された金堂こんどうを初め、講堂こうどう、仁王門におうもんなど、七堂しちどう伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅じょうどまんだらにもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘げんこう3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。

平成6年3月
横浜市教育委員会
史跡称名寺境内愛護会

(説明板より)



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