平成18年3月11日
万延元年10月28日(1860年12月10日)〜昭和13年(1938年)5月4日
東京都文京区春日1丁目・講道館でお会いしました。
東大卒。
明治15年(1882年)学習院講師になり、東京下谷の永昌寺で講道館を開き柔術を教える。
古来の柔術を改良して講道館柔道を編み出した。
後に、第一高等中学校校長、東京高等師範学校校長を歴任。
明治42年(1909年)にアジアで最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となる。
明治44年(1911年)大日本体育協会初代会長に就任。
大正元年(1912年)第5回オリンピック大会に団長として参加するなど、国際的にも活躍した。
昭和9年(1934年)オリンピックの東京誘致のためアテネに向かう。
昭和13年(1938年)5月4日、IOC総会の帰途、船中で没す。79歳。
嘉納治五郎先生像 (講道館) 昭和35年10月28日建立 (平成18年3月11日) |
講道館 (東京都文京区春日1丁目) (平成18年3月11日) |
【講道館柔道】
講道館柔道の創始者、嘉納治五郎は、明治期、それまでさまざまな流派が入り乱れていた柔術を一本化し、柔道を起こした。
が実は、柔道と柔術を比較すると、柔術のほうが強いのだという。
というのは、柔道では関節技は過度に使ってはいけないことにしたらしいが、当時の柔術ではむしろそれが大事で、関節を折ることは一向にかまわなかったという。
だから本気で殴り合いの喧嘩をした場合、関節技が使える柔術のほうが、ずっと有利だったという。
柔道の術でいくら投げ飛ばしても、相手はまた起き上がって戦うことができる。
背負い投げで投げようが、内股で倒そうが、相手に体力が残っている限り、勝ちは見えない。
ところが、柔術の関節技を使えば、簡単に相手を動けなくすることができる。
それでも抵抗して暴れるのなら、腕を折ってしまえばそれでおしまいだ。
だから、勝負のことだけを考えるならば、柔術のほうがよかった。
だが、嘉納治五郎はそうはしなかった。
治五郎は「柔」も道だと考えた。
そしてその「道」は、勝ち負けを超えたところにある、と考えた。
だから、敢えて危険な関節技を抑制し、その上に立って、精神性を鍛えることを重視した。
勝ち負けよりも道を極めること、それが講道館の柔道だったのだ。
(参考:渡部昇一 著 『知的余生の方法』 新潮新書 2010年11月発行)
(平成28年12月9日 追加)
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