岐阜県岐阜市加納丸之内・加納公園
平成19年4月3日
国史跡
加納城跡
文部省告示第128号
指定昭和58年10月28日
徳川家康は、慶長6年(1601)3月、娘婿の奥平信昌おくだいらのぶまさを加納城主として10万石を与え、また亀姫かめひめの粧田として2千石を給した。
築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。
本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪うまやぐるわ、南曲輪(大薮曲輪おおやぶぐるわ)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城郭であった。
加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。
明治2年加納城第16代城主、永井肥前守尚服なおことが版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至った。
加納城跡は、この本丸のほかは二之丸北側の石垣をわずかに残している。
岐阜市教育委員会
(説明板より)
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石垣 (平成19年4月3日) |
史跡「加納城跡」本丸の石垣
この後に見えるのは加納城本丸北面の石垣です。
岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられています。
角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められています。
石垣の角の部分は「算木積さんぎずみ」という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初め頃の姿を留めています。
これほど良好に近世初頭の石垣が現存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。
加納城の石垣は本丸外周や二の丸北面(現加納小学校南側)などに現存しています。
平成16年3月
岐阜市教育委員会
(説明板より)
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加納城跡(加納公園)入口 (平成19年4月3日) |
案内図
発掘!加納城
加納城は、徳川家康が慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。
北から南へ5つの曲輪くるわ(三の丸、厩曲輪うまやぐるわ、二の丸、本丸、大薮曲輪おおやぶぐるわ)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮ぶ城」という景観でした。
また、石垣などは関ヶ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。
初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌おくだいらのぶまさで10万石が与えられ、それ以降代々の城主は譜代大名が勤めました。
明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では、本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、三の丸北東部分に当時を偲ぶことができます。
今あなたが立っているところは本丸の北門にあたります。
本来の本丸の出入り口である大手口は東側凸字形に出っ張った部分にありました。
これは「外桝形そとますがた」という、徳川氏が初期に作った城の特徴といわれる形です。
昭和58(1983)年に本丸が国の史跡に指定されてから、発掘調査が行なわれ、江戸時代の加納城の地面の下に戦国時代の加納城の土塁どるいが埋もれているのが確認されました。
また、本丸の堀の底には「堀障子ほりしょうじ」と呼ばれる畝うね状の仕切りがあったことも分かりました。
城下町は加納城の北から西にかけて造られました。
町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11(1634)年には「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が一つになりました。
岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道、御鮨おすし街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝ようしょうでもありました。
町の北西部と南西部に寺社が集中して置かれ、城の北と西側一帯、北の町外れにも武家屋敷がありました。
美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、宝暦年代(1760年頃)、当時の藩主永井氏が財政の助けとするため奨励し、武士と町民の分業作業として発展しました。
明治以後も加納の伝統産業として受け継がれてきています。
(説明板より)
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本丸跡 | 東側の外桝形部分 |
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臆病門跡 (加納城南側) (平成19年4月3日) |
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コンクリート製の門柱 旧陸軍第51航空師団司令部が置かれた時のものか? (平成19年4月3日) |
西暦 | 年号 | 事項 | 城主 | 石高 | 備考 |
1445 | 文安 2 | 美濃国守護代斉藤利永が加納城(中世加納城)を築城する | |||
1457 | 長禄 1 | 大田道灌 江戸城を築く |
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1567 | 永禄10 | 織田信長、斉藤龍興を追放し、稲葉山城を占拠 | |||
1600 | 慶長 5 | 関ヶ原の合戦の前哨戦で岐阜城落城 | |||
1601 | 慶長 6 | 奥平信昌、加納を拝領する | 奥平信昌 | 10万 | |
1602 | 慶長 7 | 加納城築城開始 奥平信昌、致至し三男忠政城主となる |
奥平忠政 | 二条城建築 | |
1614 | 慶長19 | 忠政没し、嫡男忠隆城主となる | 奥平忠隆 | 高山右近 国外追放 |
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1615 | 元和 1 | 大坂夏の陣 | |||
1632 | 寛永 9 | 奥平忠隆没し、加納奥平氏断絶、大久保忠職が城主となる | 大久保忠職 | 5万 | |
1634 | 寛永11 | 加納宿創設 | |||
1635 | 寛永12 | 参勤交代制 の確立 |
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1639 | 寛永16 | 大久保忠職播磨明石に転じ、替って戸田(松平)光重が入城 | 戸田光重 | 7万 | 鎖国を断行 |
1668 | 寛文 8 | 戸田光永、城主を継ぎ、弟2人に5千石を分知、6万石となる | 戸田光永 | 6万 | 江戸大火 倹約令 |
1694 | 元禄 7 | 松尾芭蕉没す | |||
1696 | 元禄 9 | 城下の大火により、追手門、侍屋敷、町屋など焼く | |||
1700 | 元禄13 | 徳川光圀没す | |||
1705 | 宝永 2 | 戸田光永没し、嫡男光熈城主となる | 戸田光熈 | ||
1711 | 正徳 1 | 戸田光熈山城淀へ移り、備中高松から安藤信友が転ずる | 安藤信友 | 6.5万 | 西国・東海道 大風雨 |
1722 | 享保 7 | 安藤信友、老中となる | 参勤交代緩む | ||
1728 | 享保13 | 大火により城下の大半を焼失(二の丸、侍屋敷炎上) | 荻生徂徠没す | ||
1732 | 享保17 | 安藤信友没し、孫信尹跡を嗣ぐ | 安藤信尹 | 大飢饉 | |
1753 | 宝暦 3 | 加納藩家中騒動 | |||
1755 | 宝暦 5 | 信尹、隠居を命じられ、1万5千石を減じ嫡子信成相続する | 安藤信成 | 5万 | 幕府、財政緊縮 |
1756 | 宝暦 6 | 安藤信成、岩城平藩へ転封 武蔵岩槻から永井直陳が転ずる |
永井直陳 | 3.2万 | 米価騰貴により 蓄米を禁ず |
1762 | 宝暦12 | 直陳没し、甥尚備跡を継ぐ | 永井尚備 | 寺院への田畑 寄進を禁ず |
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1769 | 明和 6 | 尚備没し、長男尚旧跡を継ぐ | 永井尚旧 | 賀茂真淵没す | |
1773 | 安永 2 | 飛騨の一揆 | |||
1782 | 天明 2 | 大風雨により城の石垣崩れ、堤防が決壊する | |||
1783 | 天明 3 | 天明の大飢饉 | |||
1787 | 天明 7 | 松平定信 老中筆頭に就任 |
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1790 | 寛政 2 | 尚旧没し、甥尚佐跡を継ぐ | 永井尚佐 | 寛政異学の禁 | |
1798 | 寛政10 | 大洪水により加納城下大被害 加納藩農民一揆 |
百姓の強訴を 禁ず |
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1800 | 寛政12 | 伊能忠敬 蝦夷地を測量 |
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1802 | 享和 2 | 二の丸御殿新築、御城高塀普請 | |||
1808 | 文化 5 | 間宮林蔵 樺太を探検 |
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1828 | 文政11 | シーボルト事件 | |||
1839 | 天保10 | 尚佐没し、長男尚典跡を継ぐ | 永井尚典 | 蛮社の獄 | |
1853 | 嘉永 6 | ペリー来航 | |||
1860 | 万延 1 | 井伊直弼暗殺 | |||
1862 | 文久 2 | 尚典隠居し、養嗣子尚服跡を継ぐ | 永井尚服 | ||
1867 | 慶応 3 | 大政奉還 | |||
1869 | 明治 2 | 永井肥前守尚服、版籍を奉還 | |||
1871 | 明治 4 | 加納藩を廃し、加納県を置く(同年廃される) | 廃藩置県 | ||
1872 | 明治 5 | 城門等売却され、取り壊される | 太陽暦採用 | ||
1873 | 明治 6 | 隅櫓、多聞櫓、塀などが取り壊される | 征韓論破れ 西郷隆盛下野 |
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1939 | 昭和14 | 加納城本丸跡、陸軍第51航空師団司令部となる | ノモンハン事件 | ||
1954 | 昭和29 | 加納城本丸跡、自衛隊駐屯 | 自衛隊法成立 | ||
1975 | 昭和50 | 加納城跡本丸から自衛隊移転する | ベトナム戦争終結 | ||
1983 | 昭和58 | 加納城跡本丸、国の史跡に指定される | 大韓航空機 撃墜事件 |
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美濃加納城主 松平忠政墓所 (和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院) 奥平忠政は母が家康の娘だったので、家康の養子になって松平姓を許された。 (平成21年4月9日) |
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