笠間城 かさまじょう

茨城県笠間市佐白山


初めてこの地に城が築かれたのは定かではない。
一説には、平忠通が常陸国押領使としてここに城を構えて居城したという。
史上、ここに城が築かれたとするは、天文年間(1532年〜1555年)に当時の豪族・笠間持朝によるもので、その後、宇都宮国綱が領した。
天正17年(1585年)、城主・宇都宮綱家の代に嗣子がないため、宇都宮氏は城代を置く。
文禄年間(1592年〜1795年)に、宇都宮氏の家臣・玉生美濃守高宗が城主となる。
しかし、有名な宇都宮国綱の嗣子問題により、豊臣秀吉は宇都宮氏の総領地を没収。
笠間城は秀吉の持城となった。
慶長3年(1598年)会津若松城にあった蒲生氏行が、宇都宮城に転封され、笠間城も蒲生氏の持城となり、城代が置かれた。
その後、大坂冬・夏の両陣で戦功をたてた永井直勝が上野国小幡城より入城したが、まもなく古河城に移った。
代わって浅野長重が、常陸真壁城から5万3000石を領して入城。
長重は寛文10年(1670年)播磨国赤穂城に転封となり、その子・浅野長友が笠間城主となった。
その長友の子が長矩で、かの有名な「忠臣蔵」でその名が知られている。
延宝3年(1675年)長友は33歳で病没。
その後、城主は井上正賢を経て、延享4年(1747年)、牧野貞通が日向延岡より入城。
以後、牧野氏歴代が城主を務め明治に及んだ。

(参考:大類伸監修・昭和45年初版『日本城郭辞典』より)


八幡台櫓



八幡台櫓
(茨城県笠間市・真淨寺)





(平成21年2月11日)

茨城県指定文化財
旧笠間城八幡台櫓

笠間城は藤原時朝によって今を距る740年余り前の文暦元年佐白山頂上に構築され、天守閣をはじめ八幡台、宍ヶ崎の両櫓等を備えた要害堅固を誇る山城として、13代の城主等により700余年受け継がれて来たが明治維新の際廃城となった。
此の建物は元八幡台に据座していた物見櫓で、正保2年浅野長直が播州赤穂へ國替えとなる前修覆されたと伝えられているが明治13年當山寺号復活の年檀頭園部清兵衛等の尽力で払下げを受け原形のまゝ山頂からこの地に移築されたものである。
尓来當山所有の仏堂として七面大明神 三十番神 鬼子母神の三尊神が奉祀され通称七面堂と呼ばれ親しまれている。
然るに太平洋戦争によって城郭建造物としては県内唯一のものとなってしまったため、昭和44年12月1日県教育委員会はこれが保存の必要を認め、文化財保護條例によって正式に茨城県指定有形文化財に指定し、次いで昭和47年4月県補助事業として大修理を施すこととなり、市當局當山壇信徒並に市民有志協力の下、49年3月まで2ヶ年を費やして完成した。

昭和53年4月識
眞淨寺

(説明板より)





真浄寺

(茨城県笠間市笠間323)





(平成21年2月11日)



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