加藤光泰 かとう・みつやす

天文6年(1537年)~文禄2年8月29日(1593年9月24日)


織豊期の武将。
はじめ斎藤竜興たつおきに仕え、その後豊臣秀吉に従い、小牧・長久手の戦などに功をあげた。
天正13年(1585年)、美濃国大垣4万石を得たが、蔵入地支配に違背があり、知行を返上し豊臣秀長に属した。
天正15年(1587年)、許され、近江国佐和山などを経て甲斐国甲府24万石を与えられた。
文禄元年(1592年)、軍監として漢城(ソウル)に赴いたが、その冬に発病。
漢城撤退後は釜山に駐留した。

(参考・引用 『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月 第1版第1刷発行)


加藤光泰の墓(甲斐善光寺)

(平成25年5月13日)

甲府市指定史跡
加藤光泰の墓

指定年月日 昭和62年3月31日
所在地    甲府市善光寺3丁目36番1号
所有者    善光寺

加藤遠江とおとうみ守光泰は、天正19(1591)年から文禄2(1593)年まで甲斐国の領主であった。
文禄2年に豊臣秀吉の命を受け朝鮮へと出発するが、同年8月29日に病死する。
甲斐国在任中の2年間に甲府城の築城工事を受け継いだが、完成を見ることなく死亡した。
この五輪塔は江戸時代中頃の元文4(1739)年に、彼の子孫によって建てられたもので、光泰の死後146年経ってから建てられた、祖先崇拝の供養塔である。

昭和63年2月

甲府市教育委員会

(説明板より)





甲斐善光寺
(山梨県甲府市善光寺3-36-1)




(平成25年5月13日)

定額山浄智院善光寺由来

定額山浄智院善光寺は 武田信玄公が 永禄年中 川中島の合戦の折 信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ 本尊阿弥陀如来その他 諸仏 寺宝 大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し 大本願第三十七世鏡空上人を開山に迎え 信濃善光寺開基本田善光公追葬の地 ここ板垣の郷に新たに建立せられたものである
その後 江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け 浄土宗甲州触頭として 金堂 山門 三重塔 鐘楼をはじめ本坊三院十五庵の大伽藍を有し 荘厳を極めるに至った
ところが 宝暦4年2月 門前の農家の失火により類焼し 堂塔ことごとく烏有に帰してしまった
そこで 中興■誉 性誉両上人が再興勧進に奔走し 三十有余年の歳月を費して 寛政8年8月 金堂が落慶した
これが現在の伽藍で 昭和30年6月 金堂 山門共に重要文化財に指定され 同32年より5年間にわたり大修理が行なわれた
金堂は 日本有数の大建築として著名である
本尊は 建久6年尾張の僧定尊が霊夢により造立した金銅善光寺式一光三尊阿弥陀如来像で 重要文化財の指定を受けている
このほか 文禄年間 甲斐国主浅野長政公が他寺より動坐した
木造阿弥陀三尊像二組も それぞれ重要文化財である
また 県指定文化財の 木造源頼朝像 木造釈迦涅槃像 当麻曼荼羅図 梵鐘など多数の寺宝を所蔵している
寺域には 文禄2年 朝鮮の役で戦病死した国主加藤光泰公の墓所などもある
当山は 創建以来時に盛衰はあったが 全国の深い尊信を集め 今日に至っている

(由来碑・碑文より)



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