平成22年5月1日
文久元年2月22日(1861年4月1日)〜大正12年(1923年)8月24日
広島県広島市・広島市中央公園でお会いしました。
日清・日露戦争および第一次世界大戦に従軍。
日露戦争では連合艦隊参謀長として、明治38年(1905年)の日本海海戦を指揮した。
日露戦争後、海軍次官・海軍大臣として海軍の拡充に努める。
大正3年(1914年)、清浦圭吾の組閣を阻止。
ワシントン会議では全権として軍縮条約を締結し、英米両国との建艦競争に歯止めをかけた。
大正11年(1922年)6月、首相に就任し、外交面では軍縮やシベリア撤兵を実行。
内政面でも行財政の整理を推進したが、翌年8月、首相在任中に死去した。
(参考・引用:『日本史人物辞典』 山川出版社 2000年第1版)
内閣総理大臣正二位大勲位 ワシントン軍縮会議首席全権 加藤友三郎 像 (広島市中区・広島市中央公園) (平成22年5月1日) |
題字 広島大学名誉教授 森井一幸 書
彫像 新制作協会 会員 吉田正浪 作
石工事 (有)三好石材店
基礎工事 野村建設(株)
加藤友三郎 功績碑 (碑文)
加藤友三郎は、文久元(1861)年2月22日、広島藩士加藤七郎兵衛の三男として現在の広島市中区大手町で生まれた。
修道学園の前身である藩校や海軍兵学校などに学び海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務める。
第一次世界大戦後、わが国は周辺防備のため海軍の増強を図ることの必要性から、大幅な軍備の再編を進めたが、これにより国家予算に占める国防費は異常な事態となって財政は破綻の危機に至り、軍事費を削減してこの建て直しが迫られることとなった。
欧米諸国も同様の状態に至り、国際世論も軍備の縮小が叫ばれる情勢にあった。
このような状況のもとで大正10(1921)年11月から翌年2月、ワシントンにおいて主要9か国による「海軍軍縮会議」が開催され、加藤友三郎はこの会議に首席全権として出席、アメリカから示されたわが国の海軍軍備を対米英比6割に縮減する提案に対して、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点から妥当な線と判断し、軍部の強い反対を抑えてこの提案を受け入れ諸条約に調印した。
このとき軍部の強硬派に対して「国防は軍人の占有物ではない。国防は国家総動員の上に築かれなければならぬ。言い換えれば、民間工業力や貿易を盛んにして、国富の裏打ちがなければ国防力は高まらぬ」と述べている。
大正11(1922)年6月、軍縮会議後の施策推進最適任者として推挙され、第21代の内閣総理大臣に就任。
軍事予算の削減、陸海軍の兵員艦船縮減の英断を下し、隣国との協調にも配慮する諸政策を断行して「ワシントン軍縮会議」の精神を忠実に履行したのである。
軍事予算の削減分を教育や民生の充実に回したほか、国民生活に直結する諸政策をも進めるなどの業績を残した。
総理大臣在任中の大正12(1923)年8月24日病死、享年63。
内閣総理大臣加藤友三郎の国際協調による世界平和の具現を称え
没後85周年にあたり銅像を復元した
平成20(2008)年8月24日
加藤友三郎銅像復元委員会 会長 確井静照
『華府第一回平和会議首席全権 先内閣総理大臣元帥海軍大将 正二位大勲位功二級 子爵加藤友三郎閣下生誕之地』の碑 (広島市中区・大手町第二公園) 昭和5年8月建之 (平成22年5月1日) |
大手町第二公園 (広島市中区大手町3丁目11番) (平成22年5月1日) |
修道中学卒 | ||
明治 6年10月 | 海軍兵学寮予科入学 | |
明治 9年 9月 | 海軍兵学校本科入学 | 入学成績12番 校長:松村淳蔵大佐 |
明治13年12月 | 海軍兵学校卒業・少尉補 | 海兵7期 卒業成績2番 校長:仁礼景範大佐 |
明治14年 3月 | 『乾行』乗組 | |
明治14年 9月 | 『摂津』乗組 | |
明治15年 4月 | 『龍驤』乗組 | |
明治16年11月 | 少尉 | |
明治19年 2月 | 海軍兵学校教官 | 校長:松村淳蔵少将 |
明治19年12月 | 大尉 | |
明治20年 7月 | 『筑波』分隊長 | |
明治21年 9月 | 海軍大学校副官 | 校長:井上良馨少将 |
明治21年11月 | 海軍大学校・甲号学生 | 甲号第1期生(9名) |
明治22年 7月 | ||
明治22年 8月 | 『浅間』乗組 | |
明治23年 5月 | 『高千穂』砲術長 | |
明治24年 4月 | 横須賀海兵団分隊長 | |
明治24年 7月 | 海軍参謀本部出仕 | 参謀部長:井上良馨少将 |
明治24年10月 | 造兵監督官(英国出張) | 在英国武官:河原要一大佐(海兵2期) |
明治26年 6月 | 『吉野』砲術長 | |
明治27年12月 | 軍務局1課 | 局長:伊藤雋吉中将 課長:松永雄樹大佐(海兵2期) |
明治28年 2月 | 少佐 | |
明治29年11月 | 軍務局課僚兼海軍大学校教官 | 局長:山本権兵衛少将(海兵2期) |
明治30年 4月 | 軍務局軍事課僚兼海大教官 | |
明治30年12月 | 中佐 | |
明治30年12月 | 『八島』副長 | |
明治31年10月 | 『筑紫』艦長 | |
明治32年 6月 | 軍事課課長心得 | |
明治32年 9月 | 大佐 軍事課長 |
軍務局長:諸岡頼之少将(海兵2期) |
明治33年 5月 | 軍務局1課長 | 軍務局長:斉藤 実少将(海兵6期) 1課長前任:世良田 亮大佐 1課長後任:斎藤孝至大佐(海兵7期) |
明治35年 6月 | ||
明治33年 5月 | 兼・教育本部1部長 | 本部長:諸岡頼之少将(海兵2期) 1部長後任:島村速雄大佐(海兵7期) |
明治33年12月 | ||
明治33年 6月 | 兼・軍務局2課長 | 軍務局長:斎藤 実少将(海兵6期) 2課長前任:伊地知彦次郎中佐(海兵7期) 2課長後任:藤井較一大佐(海兵7期) |
明治34年 2月 | ||
明治34年 4月 | 兼・軍務局2課長 | 軍務局長:上村彦之丞少将(海兵4期) 2課長前任:藤井較一大佐(海兵7期) 2課長後任:斎藤孝至大佐(海兵7期) |
明治35年 6月 | ||
明治35年 6月 | 常備艦隊参謀長 | 司令長官:日高壮之丞中将 |
明治36年10月 | 軍務局1課長兼2課長 | |
明治36年11月 | 軍務局先任局員 | |
明治36年12月 | 第2艦隊参謀長 | 司令長官:上村彦之丞中将(海兵4期) 参謀長後任:藤井較一大佐(海兵7期) |
明治37年 9月 | 少将 | |
明治38年 1月 | 第1艦隊兼連合艦隊参謀長 | |
明治38年 6月 | 連合艦隊参謀長 | 司令長官:東郷平八郎大将 参謀長前任:島村速雄大佐(海兵7期) |
明治38年12月 | 軍務局長 | 前任:斎藤 実少将(海兵6期) 後任:武富邦鼎少将 |
明治39年 1月 | 海軍次官 | 海軍大臣:斉藤 実中将(海兵6期) 前任:斉藤 実少将(海兵6期) 後任:財部 彪少将(海兵15期) |
明治39年 1月 | 兼・軍務局長 | |
明治39年11月 | ||
明治41年 8月 | 中将 | |
明治42年12月 | 呉鎮守府長官 | 前任:山内万寿治中将(海兵6期) 後任:松本 和中将(海兵7期) 参謀長:竹内平太郎少将(海兵8期) |
大正 2年12月 | 第1艦隊司令長官 | 前任:出羽重遠中将(海兵5期) 後任:藤井較一中将(海兵7期) 参謀長:竹下 勇大佐(海兵15期) |
大正 4年 8月 | 大将 海軍大臣 |
前任:八代六郎中将(海兵8期) 後任:財部 彪大将(海兵15期) |
大正 9年 9月 | 男爵 | |
大正10年 9月 | ワシントン会議全権委員 | 国連海軍代表:竹下 勇中将(海兵15期) |
大正11年 3月 | ||
大正11年 6月 | 内閣総理大臣 | 前任:高橋是清 後任:山本権兵衛 |
大正11年 6月 | 兼・海軍大臣 | |
大正12年 5月 | ||
大正12年 8月 | 死去 |
(参考:秦郁彦 編 『日本陸海軍総合辞典』 1991年初版 東京大学出版会)
【海軍大臣】
加藤友三郎は、第二次大隈重信内閣(大正3年4月16日〜大正5年10月9日)のとき、八代八郎のあとを継いで海相に就任してから、寺内正毅内閣(大正5年10月9日〜大正7年9月29日)、原敬内閣(大正7年9月29日〜大正10年11月13日)と6年近く海相の職にあった。
加藤は閣議の席では、絶対他省のことには口を出さず、議論も大嫌いで、ただちに核心をとらえて、結論だけを簡潔に述べるのを常とし、知っていても不必要なことは一切口にしない。
しかし一度言い出すと、まさに名刀のような切れ味を示した。
したがって、全閣僚から絶大なし信用を得ていた。
彼の最大の身上しんじょうは、確固たる信念と無私無欲であろう。
したがって、原首相とは肝胆相照らし、互いに信頼しあい、尊敬しあっていた。
(参考:鳥巣建之助 著 『日本海軍失敗の研究』 文春文庫 1993年2月 第1刷)
(平成29年10月17日 追記)
【ワシントン会議】
日本海軍創設以来、山本権兵衛伯、東郷平八郎元帥とならんで、加藤友三郎という人は大将軍であり、大参謀長であり、大政治家であり、大外交家である。
フランスの軍令部長は「海軍士官仲間から、こういう人がでたのは、国籍を問わず我々海軍士官の誇りである」と言って誉めた。
出発前、私(山梨勝之進)が大臣室で、「大臣、あなたは不愛想なので、あなたぐらい新聞記者に評判の悪い人はいない。今度アメリカへ行くと、アメリカは新聞記者と女性によって国論が左右されるような国柄だから、よほど注意してやらないとダメじゃないでしょうか」と言うと、加藤さんが「断々固としてあきらめているんだ。新聞記者の御機嫌をとろうなんて気は俺にはないんだ」という話であったが、渡米中、あのくらいアメリカ及び各国新聞記者からほめられ、偉いと思われた人はいない。
こういう国際会議には、世界の一流新聞記者がみな集まる。
インタビューの質問に対する返事から、その偉大さを見抜いてしまうほどの腕利きの記者ばかり集まっているところで、一目見て、これは大したものだという評判をとったのは偉いものです。
バルフォアなんていうのは生まれたときから外交官なんです。
イエスなのかノウなのかわからないシュッド(should)とかウッド(would)とかを使うのです。
記録を読むと、こんな激しい悪辣なことを言っていたのかと感じられる。
やっている時は、それこそ笑みをたたえて討論しているのだが、イエスなのか、ノウなのかわからない。
「そうでないでもない、のでもない」というような三重否定を使っている。
加藤さんは小さい時からダグラスという先生に英語を習っておられるので、そういう手合いの中に入って半分わかるのです。
(参考:山梨勝之進 著 『歴史と名将〜戦史に見るリーダーシップの条件〜』 毎日新聞社 昭和57年2月第9刷発行)
(平成29年5月5日 追記)
【加藤友三郎の根本理念・「不戦海軍論」の思想】
加藤友三郎元帥がワシントン条約を成立せしめた根本理念が、日本海軍は断じてアメリカと戦わないということにあったのは公然の秘密であった。
(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)
(令和元年10月7日 追記)
【ワシントン会議後】
加藤友三郎は、ワシントン会議後、ひそかに日本は二正面作戦(仮想敵のソ連に加えて米国)は出来ない。
従って、日米戦争は不可能であるという、いわゆる日米不戦論を書類にして海軍省の金庫に入れておいたが、歴代の海軍大臣はこれを見なかったという。
(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)
(令和元年5月7日 追記)
「ろうそく内閣」の異名をとった加藤友三郎内閣はろうそくの火のごとく燃え尽きた。
加藤は海相としてワシントン条約の成立に尽くしたことで首相になったが、もともと頑健でなく、持病が悪化して、在職のまま死去した。
後任首相には関東大震災のさなか、再度山本権兵衛が任命されたが、摂政裕仁親王の車に難波大介という無政府主義の青年が発砲するという、いわゆる虎の門事件が起き、総辞職した。
後継首班に枢密院議長・清浦奎吾が推され、貴族院研究会を土台とした内閣を組織したことから、特権内閣と非難され、ここから護憲運動が起こった。
清浦内閣への態度をめぐって政友会は分裂し、床次竹二郎一派は脱党して、議員149名を以て政友本党を組織し、清浦内閣の与党となった。
(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)
(平成29年1月31日 追記)
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