勝海舟像 平成15年11月8日

勝海舟 かつ・かいしゅう

文政6年1月30日(1823年3月12日)〜明治32年(1899年)1月19日

東京都墨田区墨田区役所裏でお会いしました。


安政2年(1855年)海軍伝習のため長崎へ赴き、4年後には軍艦操練所教授方頭取となりました。
万延元年(1860年)咸臨丸で渡米。
蕃所調所・講武所・軍艦操練所の勤務を経て、文久2年(1862年)軍艦奉行並になりました。
元治元年(1864年)軍艦奉行となり安房守と称しましたが、同年に罷免となりました。
坂本龍馬が門弟となり、西郷隆盛に討幕の示唆を与えました。
慶應2年(1866年)軍艦奉行に再任。
長州戦争の処理につき萩藩と折衝しました。
明治元年(1868年)海軍奉行並、陸軍総裁。
西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現しました。
明治32年(1899年)1月19日、脳溢血で没す。数え77歳。

(平成18年2月28日改訂)


勝海舟像



勝海舟像

東京都墨田区墨田区役所




(平成15年11月8日)

建立の記

勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。
西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。

海舟生誕180年
平成15年(2003年)7月21日(海の日)
墨田区長 山崎昇

(碑文より)

墨田区役所



墨田区役所

(浩養園跡)





(平成15年11月8日)

浩養園こうようえん
所在:墨田区吾妻橋1丁目23番

この地は常陸谷田部ひたちやたべ藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移りかわり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
文政5年(1822)水野忠成ただあきらの別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園りんせんしきていえんを築造。
丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。
万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
その後、明治33年札幌麦酒ビール東京工場がここに設置され、39年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦レンガ造りの建物が庭園のなかばを占めました。
大正9年の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。
平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。

平成3年3月  墨田区

(説明板より)


勝海舟生誕の地碑



『勝海舟生誕之地』の碑

(東京都墨田区両国4丁目25番・両国公園)

法務大臣 西郷吉之助書



(平成16年9月28日)

碑文

勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる
剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す
明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談
官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり
明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ

昭和43年12月吉日  秀魚書

勝海舟両国顕彰会
両國1丁目町会
両國2丁目町会
両國3丁目町会
両國4丁目町会有志
元男谷邸跡

由来碑

(表)
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。
墓は洗足池畔に建立されている。

平成元年10月
墨田区
(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)

※『由来碑』では亡くなった日は21日となっています。

(裏)
社団法人 東日本硝子工業会
会長 瀧波榮一郎 之納
両国勝海舟 顕彰会
平成元年10月吉日

勝海舟生誕地跡



勝海舟生誕地(男谷邸)跡

(東京都墨田区両国4丁目25番・両国公園)





(平成16年9月28日)

勝海舟生誕の地
所在 墨田区両国4丁目25番

勝海舟は文政6年(1823)1月30日本所亀沢町の父小吉の実家である男谷おだに家に生まれ、7歳まで育ちました。
幼名は麟太郎と言います。
幕臣とは言っても下級武士だったため、苦しい生活を強いられました。
それでも少年時代は剣を島田虎之助に学び、向島の弘福寺に参禅するという日々を送る一方、蘭学者永井青崖について蘭学や兵学について学びました。
その後、弘化3年(1846)に赤坂に転居するまでは本所入江町(緑4丁目24番)で暮らしていました。
嘉永6年(1853)、幕府に提出した開国後の方針を述べた意見書が採用され、世に出ました。
万延元年(1860)には、日米修好通商条約批准のため軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復しました。
慶応4年(1868)3月、徳川幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物である西郷隆盛と会見しその結果、江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦禍から救ったことは有名です。
海舟は、成立間もない明治政府の土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿・枢密顧問官などを歴任し、伯爵となりました。
明治32年1月19日、77歳で病没しましたが、養子相続手続きの関係で秘され、21日に死去が報じられたために、官報や大田区洗足池畔の墓石にも21日と刻まれています。

平成9年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)

勝海舟翁像 平成15年11月8日

東京都墨田区本所4丁目の妙見山・妙見堂でお会いしました。

勝海舟翁像



勝海舟翁之像
(東京都墨田区本所4丁目・妙見堂)




(平成15年11月8日)

勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎え海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた。

昭和49年5月12日

(碑文より)

妙見堂



妙見堂

(本所4丁目6番の交差点の角に位置します)




(平成15年11月8日)

軍艦操練所跡



軍艦操練所跡

(東京都中央区築地6−20先・東京都中央卸売市場)

歩道の脇に説明板が設置されています。



(平成18年2月22日)

軍艦操練所跡

所在地 中央区築地6−20先

現在、中央卸売市場となっている一帯の土地は、かつて、江戸幕府の軍艦操練所があった場所です。
安政4年(1857)4月、外洋航海の必要性から幕府は旗本、御家人、その他の希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置しました。
軍艦操練所と名付け、頭取(向井将監・勝海舟等が就任)以下、教授方出役・取調方等を任命しました。
元治元年(1864)に焼失して、南隣りの松平安芸守の屋敷に仮移転し、慶応2年(1866)7月、海軍所と改称しました。
同年11月、再び類焼して現在の浜離宮に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建ちました。

平成11年3月
中央区教育委員会

(説明板より)


勝海舟寓居地の碑


勝海舟寓居地の碑

(和歌山市船大工町)

文久3年(1863年)4月、海岸砲台検分のため数日間和歌山に滞在した。



(平成19年4月13日)
勝海舟寓居跡


勝海舟寓居跡
(和歌山市船大工町28・ファミリーショップ・クイノセ)

実際の場所は、ここから少し川の方へ行ったところらしい。




(平成19年4月13日)

勝海舟歌碑



勝海舟歌碑
(鹿児島県鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)

勝海舟歌碑

明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島に戻り、青年の教育のため私学校を設立しました。
ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。
ついには西南戦争を引き起こしたのです。
この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
隣に立つ常夜燈じょうやとうは、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。
歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石けだないしでできています。

(説明板より)

歌碑と常夜燈



歌碑と常夜燈

(鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)

史跡駐輦の碑


史跡駐輦の碑

(福井県敦賀市・気比の松原)

勝海舟が松原を訪れた際に明治天皇の巡幸を回想して漢詩を詠みました。
昭和29年12月21日敦賀市指定史跡


(平成20年4月12日)
気比の松原



気比の松原
(福井県敦賀市・気比の松原)





(平成20年4月12日)

名勝 気比の松原

ここ気比の松原は 三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている
その昔 聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した
そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した
そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた
敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去ったという
この伝説に因んで「一夜の松原」とも称される
現在 気比の松原はおよそ東西1千メートル南北4百メートル広さ37.9ヘクタールで樹数約1万3千本を数え海岸林としては全国的にも珍しく赤松が群生している

(碑文より)


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