勝海舟像 平成15年11月8日

勝海舟 かつ・かいしゅう

文政6年1月30日(1823年3月12日)〜明治32年(1899年)1月19日

東京都墨田区墨田区役所裏でお会いしました。


安政2年(1855年)海軍伝習のため長崎へ赴き、4年後には軍艦操練所教授方頭取となりました。
万延元年(1860年)咸臨丸で渡米。
蕃所調所・講武所・軍艦操練所の勤務を経て、文久2年(1862年)軍艦奉行並になりました。
元治元年(1864年)軍艦奉行となり安房守と称しましたが、同年に罷免となりました。
坂本龍馬が門弟となり、西郷隆盛に討幕の示唆を与えました。
慶應2年(1866年)軍艦奉行に再任。
長州戦争の処理につき萩藩と折衝しました。
明治元年(1868年)海軍奉行並、陸軍総裁。
西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現しました。
明治32年(1899年)1月19日、脳溢血で没す。数え77歳。

(平成18年2月28日改訂)


勝海舟像



勝海舟像

東京都墨田区墨田区役所




(平成15年11月8日)

建立の記

勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。
西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。

海舟生誕180年
平成15年(2003年)7月21日(海の日)
墨田区長 山崎昇

(碑文より)

墨田区役所



墨田区役所

(浩養園跡)





(平成15年11月8日)

浩養園こうようえん
所在:墨田区吾妻橋1丁目23番

この地は常陸谷田部ひたちやたべ藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移りかわり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
文政5年(1822)水野忠成ただあきらの別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園りんせんしきていえんを築造。
丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。
万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
その後、明治33年札幌麦酒ビール東京工場がここに設置され、39年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦レンガ造りの建物が庭園のなかばを占めました。
大正9年の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。
平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。

平成3年3月  墨田区

(説明板より)


勝海舟生誕の地碑



『勝海舟生誕之地』の碑

(東京都墨田区両国4丁目25番・両国公園)

法務大臣 西郷吉之助書



(平成16年9月28日)

碑文

勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる
剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す
明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談
官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり
明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ

昭和43年12月吉日  秀魚書

勝海舟両国顕彰会
両國1丁目町会
両國2丁目町会
両國3丁目町会
両國4丁目町会有志
元男谷邸跡

由来碑

(表)
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。
墓は洗足池畔に建立されている。

平成元年10月
墨田区
(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)

※『由来碑』では亡くなった日は21日となっています。

(裏)
社団法人 東日本硝子工業会
会長 瀧波榮一郎 之納
両国勝海舟 顕彰会
平成元年10月吉日

勝海舟生誕地跡



勝海舟生誕地(男谷邸)跡

(東京都墨田区両国4丁目25番・両国公園)





(平成16年9月28日)

勝海舟生誕の地
所在 墨田区両国4丁目25番

勝海舟は文政6年(1823)1月30日本所亀沢町の父小吉の実家である男谷おだに家に生まれ、7歳まで育ちました。
幼名は麟太郎と言います。
幕臣とは言っても下級武士だったため、苦しい生活を強いられました。
それでも少年時代は剣を島田虎之助に学び、向島の弘福寺に参禅するという日々を送る一方、蘭学者永井青崖について蘭学や兵学について学びました。
その後、弘化3年(1846)に赤坂に転居するまでは本所入江町(緑4丁目24番)で暮らしていました。
嘉永6年(1853)、幕府に提出した開国後の方針を述べた意見書が採用され、世に出ました。
万延元年(1860)には、日米修好通商条約批准のため軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復しました。
慶応4年(1868)3月、徳川幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物である西郷隆盛と会見しその結果、江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦禍から救ったことは有名です。
海舟は、成立間もない明治政府の土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿・枢密顧問官などを歴任し、伯爵となりました。
明治32年1月19日、77歳で病没しましたが、養子相続手続きの関係で秘され、21日に死去が報じられたために、官報や大田区洗足池畔の墓石にも21日と刻まれています。

平成9年3月
墨田区教育委員会

(説明板より)


【勝海舟の祖先】

勝の先祖はどういう人物か。
越後の田舎から出てきた無一文の盲人だった。
江戸時代、士農工商という身分制度で、商人は差別されていたが、実はその商売の中でも、最も卑しい職業として差別されたのが金貸し業であった。
商人は額に汗して物を作らないクズのような連中だが、金貸しは商品すら動かさず、自分の金を右から左に動かして不当な利益を上げるとんでもない連中、というのが朱子学における金融業の位置づけだったのである。
しかし儲かる商売であることも事実だ。
それに店舗や商品がなくても手軽に営業できる。
そこで幕府は生まれつきハンデを背負っている盲人たちに、特別に金貸しを営業する権利を与えた。
すると彼らの中には、按摩に励んで貯めた小金を元手に(金貸しをして)大金持ちになるような人物も出てきた。
彼らにとっての最大の出世は千両もの金を貯め、それをもって京都に行き「検校けんぎょう」という朝廷が認めた盲人の監督者の地位を獲得することである。
勝はこの検校の曾孫にあたる。
つまり曾祖父の代には武士ではなかったどころか、「卑しい」金貸しであったのだ。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)


勝海舟翁像 平成15年11月8日

東京都墨田区本所4丁目の妙見山・妙見堂でお会いしました。

勝海舟翁像



勝海舟翁之像
(東京都墨田区本所4丁目・妙見堂)




(平成15年11月8日)

勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎え海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた。

昭和49年5月12日

(碑文より)

妙見堂



妙見堂

(本所4丁目6番の交差点の角に位置します)




(平成15年11月8日)

海軍伝習所跡碑



イエズス会・奉行所西役所・海軍伝習所跡の碑
(長崎県長崎市・長崎県庁)

寄贈 長崎北ロータリークラブ建之
昭和42年6月


(平成20年11月22日)
長崎県庁



長崎県庁
(長崎県長崎市江戸町2−13)





(平成20年11月22日)

勝海舟
〈1823〜1899 東京都(江戸)出身〉

勝海舟は、幕末・明治期にかけて、幕府軍として第二次長州征伐時の長州藩との和睦の成立や戊辰戦争時の西郷隆盛との会談の末の江戸城無血開城の実現など、多くの功績を残した人物です。
安政2年(1855)長崎奉行所西役所内に設立された長崎海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から西洋技術、航海術、砲術など多くの近代的な知識を習得しました。
そして、万延元年(1860)ジョン万次郎や福沢諭吉などを乗せた咸臨丸かんりんまるの艦長として太平洋横断航海に成功したのち、神戸に海軍操練所を開いて、坂本龍馬や陸奥宗光など新時代を担う人物を育てました。

(説明板より)

西役所前景 西役所前景(説明板より)

長崎海軍伝習所跡

安政2年(1855)、長崎奉行所西役所内に海軍伝習所が設けられました。
教授陣には、オランダ海軍の士官らを招き、航海技術、造船技術などの軍事教育は無論のこと、その他、西洋の近代的学問を教育しました。
勝海舟らの幕臣をはじめ佐賀、福岡、薩摩などから多数の藩士たちが派遣され、幕末から明治にかけて活躍した多くの人材を送り出しました。

(説明板より)


勝海舟寓居の地



「勝海舟寓居の地」碑
(長崎県長崎市・本蓮寺)

昭和49年9月建立 長崎市



(平成20年11月22日)

碑文

安政2年6月(1855)長崎江戸町の地に あらたに設けられた海軍伝習所の伝習生首班として当地に来任した勝海舟は この本蓮寺境内にあった大乗院に 安政6年まで止宿し大いに勉強に励み 海外文化の吸収につとめた

勝海舟寓居の地

勝海舟(1823〜99)は、通称を麟太郎といい、勝小吉の長男として江戸本所亀沢町(現:東京都墨田区亀沢)に生まれた。
安政2年(1855)から約4年間、長崎奉行所西役所に設置された海軍伝習所の伝習生となり、オランダ海軍士官カッテンディケ等の指導を受けた。
長崎に滞在の海舟は、この地にあった大乗院に宿泊したが、長崎の女性、梶くまとの間に一男一女をもうけた。
くま(法名は容誉智顔麗光大姉)の墓は、本蓮寺隣の聖無動寺・梶家墓地内にある。

(説明板より)

 (説明板より)

本蓮寺



本蓮寺
(長崎県長崎市筑後町2−10)





(平成20年11月22日)

本蓮寺ほんれんじ

元和6年(1620)、大村本教寺おおむらほんきょうじ住職の日恵にちえが開創。
サン・ジョアン・バプチスタ教会、サン・ラザロ病院の跡地でした。
慶安元年(1648)、朱印地に指定され、長崎三大寺の一つでした。
江戸時代末、大乗院だいじょういんと一乗院いちじょういんという塔頭たっちゅうがあり、大乗院には、勝海舟が4年ほど滞在し、海軍伝習所で航海術や砲術などを学びました。
近所に住むお久ひさ(梶クマ)とのロマンスは、切れた下駄の鼻緒を直してくれたのが始まりといわれています。
一乗院には、シーボルトが息子アレキサンダーと滞在し、おタキや娘のおイネと会った場所です。
写真の二天門は原爆で焼失しましたが、往時の礎石の跡が残っています。

管理者:長崎市

(説明板より)

 二天門 (説明板より)


軍艦操練所跡



軍艦操練所跡

(東京都中央区築地6−20先・東京都中央卸売市場)

歩道の脇に説明板が設置されています。



(平成18年2月22日)

軍艦操練所跡

所在地 中央区築地6−20先

現在、中央卸売市場となっている一帯の土地は、かつて、江戸幕府の軍艦操練所があった場所です。
安政4年(1857)4月、外洋航海の必要性から幕府は旗本、御家人、その他の希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置しました。
軍艦操練所と名付け、頭取(向井将監・勝海舟等が就任)以下、教授方出役・取調方等を任命しました。
元治元年(1864)に焼失して、南隣りの松平安芸守の屋敷に仮移転し、慶応2年(1866)7月、海軍所と改称しました。
同年11月、再び類焼して現在の浜離宮に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建ちました。

平成11年3月
中央区教育委員会

(説明板より)


 平成23年2月7日

熊本県熊本市・高橋公園でお会いしました。





横井小楠と維新群像
(熊本県熊本市・熊本城前・高橋公園)

左から2番目が勝海舟像



(平成23年2月7日)

横井小楠をめぐる維新群像

横井小楠 諱いみなは時存ときあり 通称平四郎、幕末維新期の大思想家。
横井家は細川藩士家禄150石の家で、小楠は文化6年(1809)熊本城下の内坪井で生れた。
藩校時習館に学び居寮長に推されて数年、江戸遊学を命ぜられて天下の俊秀と交わり活眼を開く。
帰国後実学を主唱し、中級武士と惣庄屋層の支持を得る。
越前侯松平春嶽しゅんがくに聘せられて福井藩にその経綸を実現し、後春嶽の幕府総裁職就任に当ってはその顧問として幕政改革に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えた。
文久3年帰国を命ぜられ士席を除かれて隠栖すること5年、明治元年経世の才を買われて新政府の参与に出仕、抱負の実現を図ったが、翌2年正月京の町で志半ばで凶刃に倒れた。
明治3年熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川護久もりひさ 大参事同護美もりよしの下に、藩士山田・嘉悦・内藤等及び惣庄屋層の徳富、竹崎・長野等による肥後の維新の到来を見た。

この群像は横井小楠の生誕190年、没後130年(1999年)を記念して翌2000年3月建立された

(碑文より)


勝海舟寓居地の碑


勝海舟寓居地の碑

(和歌山市船大工町)

文久3年(1863年)4月、海岸砲台検分のため数日間和歌山に滞在した。



(平成19年4月13日)
勝海舟寓居跡


勝海舟寓居跡
(和歌山市船大工町28・ファミリーショップ・クイノセ)

実際の場所は、ここから少し川の方へ行ったところらしい。




(平成19年4月13日)





通用門(長屋門)

(東京都練馬区石神井台・三宝寺)





(平成23年7月17日)

通用門(長屋門)

練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、當時の練馬区長須田操氏の斡旋で、當山に移建された。
昭和35年(1960)11月、新井工務店の手によって解体移建された。

(説明板より)


池田屋事件と海軍操練所の廃止

元治元年(1864年)6月5日夜、長州勢と倒幕派浪士ら20数人が旅籠はたごの池田屋に集合したことを知り、新撰組が踏み込み乱闘の末に新撰組は9人を殺害、多数を捕獲した。
池田屋事件で殺害された9人の中に、土佐脱藩浪士で海軍操練所修業生だった望月亀弥太もちづきかめやたがいたことが明らかとなった。
坂本龍馬と苦楽を共にしてきた同志の一人だったが、幕閣の間に驚きと憤りが噴出したのは言うまでもない。
幕府の資金を使って設立、運営されている海軍操練所の修業生に、あろうことか倒幕派の浪士が加わっていたのである。
海舟の責任追及は当然のことで、10月末に江戸に召還されて謹慎を命じられ、翌月軍艦奉行職を罷免された。
発足して半年足らずの海軍操練所は休眠状態となり、翌慶応元年(1865年)春には正式に廃止と決まった。

(参考:『歴史街道』 2010年2月号)

(平成22年9月23日追記)


【勝海舟が憎まれた理由】

勝海舟の「海外貿易で金を稼いで軍備を充実させる」という主張、幕末当時これ以外に日本の生きる道はなかった。
ところがまったくの正論を唱える勝がなぜ命を狙われたのか。
それは朱子学では貿易は悪人のやることだからである。
そして徳川家康が朱子学を武士の基本教養として採用したことは、他にも多くの問題を引き起こした。

旗本とはいえ勝の家は極めて特別な家柄であった。
それは当時の常識から言えば決して良い意味ではない、むしろ差別すべき対象であったのだ。
当時、日本には旗本株を買うという習慣があった。
旗本株とは、平たく言えば養子になる権利ということである。
たとえばここに旗本の老夫婦がいるとしよう。
後継ぎはいない。
家を潰すわけにはいかないから、どこかから養子を迎えなければならない。
下級の旗本となると、実質的には誰でも養子に選べた。
誰でも、というのは百姓や町人の子でもいいということである。
そこで後継ぎのいない老夫婦が、金持ちの商人の次男坊などを養子に迎える代わりに、礼金として多額の金を受け取るという慣行が生まれた。
これを「旗本株を売る(あるいは買う)」と称したのだ。

幕府のエリートたち、つまり絶対、旗本株を売ることのない名門の人間は、勝という男をどう見ていたかわかるだろう。
「さすがは卑しい男の子孫だ、考え方まで卑しい。あんなヤツは旗本ではない、ニセモノだ」
そういうこともわからないと、歴史はわからない。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)


江戸無血開城の真相

江戸城総攻撃と徳川家処分についての勝海舟と西郷隆盛の会談は、慶応4年(1868年)3月15日の総攻撃予定日の直前、3月13日と14日の二日に分けて行なわれた。
3月13日、新政府軍の木梨精一郎が総攻撃の際の打ち合わせのために横浜のパークスを訪ね、江戸攻撃で負傷者が出た場合は病院に収容させて欲しいと申し入れたところ、意外にもパークス公使は色をなして「すでに恭順した慶喜公を討つのは万国公法に反する。もし左様な無法を犯すならば、わがイギリスはフランスと共に、新政府を攻撃するであろう」と厳しく言明した。
木梨の急報に西郷は愕然となったという。
このため、14日の第2回目の会談で、急遽、総攻撃の中止が決まった。
これは勝と西郷の腹芸の美談ではなく、西郷がぐうの音も出なかったというのが真相である。

この江戸無血開城を最後に、勝は歴史の表舞台から身を引く。
その後の勝は主に旧幕臣の生活の救済と、旧主・徳川慶喜の名誉回復に力を尽くした。

(参考:『歴史街道 2011年4月号』)

(平成25年10月3日 追記)


【年表】

年号 西暦 年齢 出来事 その他の出来事
文政 6年 1823年  1歳   誕生 シーボルト来朝
文政 8年 1825年 3歳     異国船打払令
文政11年 1828年 6歳     シーボルト事件
文政12年 1829年  7歳   将軍家斉の孫・初之丞の相手として江戸城に出仕 江戸大火
天保 2年 1831年  9歳   犬に睾丸を噛まれ重傷を負う  
天保 8年 1837年 15歳     大塩平八郎の乱 
天保 9年 1838年 16歳   旗本・勝家の家督を相続
この頃、島田虎之助道場で剣術修業を開始
天保10年 1839年 17歳     蛮社の獄
天保11年 1840年 18歳   島田の勧めで、牛島弘福寺で座禅を始める  
天保12年 1841年 19歳     水野忠邦の政治改革 
天保14年 1843年 21歳   島田より剣術の免許皆伝を授かる 阿部正弘、老中就任
弘化 1年 1844年 22歳   佐久間象山と出会う オランダ国王開国進言
弘化 2年 1845年 23歳   この頃、蘭学者・永井青崖に入門  
9月 幕臣・岡野孫一郎養女・民(25歳)と結婚
弘化 3年 1846年 24歳 9/15 長女・夢、誕生 海防の勅諭、幕府に下る
弘化 4年 1847年 25歳   蘭日辞書『ヅーフ・ハルマ』を筆写  
嘉永 1年 1848年 26歳     佐久間象山、大砲を鋳造 
嘉永 2年 1849年 27歳 10/29 次女・孝、誕生  
嘉永 3年 1850年 28歳   父・小吉、歿す
この頃、赤坂田町に蘭学塾を開く
高野長英、自害
潜伏中の高野長英が来訪
嘉永 5年 1852年 30歳 2/17 長男・小鹿、誕生 ロシア船、下田に来航
薩摩に反射炉建設
  この頃、妹・順子(16歳)、佐久間象山(42歳)と結婚
嘉永 6年 1853年 31歳 7/12 黒船来航に際し、幕府に「海防意見書」を上申 ペリー来航
関東大地震
安政 1年 1854年 32歳 12/18 次男・四郎、誕生 ペリー再来航
日米和親条約締結
下田地震・大津波
安政 2年 1855年 33歳 1月 異国応接掛手附蘭書翻訳御用に任命 江戸大地震
藤田東湖圧死
長崎海軍伝習所開設
洋学所設置
1/23 伊勢・大坂方面の海岸巡視に出発
7/29 海軍伝習重立取扱に任命、長崎海軍伝習所に勤務
安政 3年 1856年 34歳 3月 講武所砲術師範役
安政 5年 1858年 36歳 2月 咸臨丸で五島・対馬を航海 安政の大獄始まる
日米修好通商条約締結
将軍・家定、没す
3月 遠洋航海で薩摩山川着。
薩摩藩主・島津斉彬と会う
安政 6年 1859年 37歳 1月 軍艦操練所教授方頭取 吉田松陰橋本佐内ら処刑
11月 咸臨丸渡米の艦長に選ばれる
万延 1年 1860年 38歳 1月 咸臨丸出帆 桜田門外の変
井伊直弼、討たれる
2/26 サンフランシスコ着
5/6 アメリカより帰国
8/3 三女・逸、誕生(母・増田糸)
文久 1年 1861年 39歳   天守番之頭格・講武所砲術師範役
文久 2年 1862年 40歳 7/4 軍艦操練所頭取 坂下門外の変
皇女・和宮、降嫁
寺田屋事件
生麦事件
閏8/17 軍艦奉行並(役高1000石)
坂本龍馬が勝の弟子になる
11/19 横井小楠を訪ね海軍を論じ、意見一致をみる
文久 3年 1863年 41歳 3月 長州藩の井上聞多、桂小五郎と会う
海軍興隆の急務を説く
長州藩、外国船を砲撃
薩英戦争勃発
8月18日の政変
4/23 将軍・家茂に神戸海軍操練所設置を訴える
5/9 摂海警衛の朝命を受ける
元治 1年 1864年 42歳 2/5 神戸海軍操練所の運営を命じられる 池田屋事件
禁門の変
国連合艦隊、下関を砲撃
第一次長州征伐
佐久間象山(54歳)、害死
    
5/14 軍艦奉行
7/24 禁門の変後の対策を建議
9/11 大坂で西郷隆盛と対面、雄藩連合を説く
11/10 軍艦奉行を罷免される
12/6 二男・梅太郎、誕生(母・梶久)
慶応 1年 1865年 43歳   この頃、元氷川の屋敷に閑居 横須賀造船所起工
摂津、隠岐に打ち壊し運動
3月 神戸海軍操練所が正式に閉鎖となる
10月 松平慶永に長州の寛大な処分を説く
慶応 2年 1866年 44歳 5月 軍艦奉行に復職する 薩長同盟成立
第二次長州征伐
将軍・家茂、死去
慶喜、第15代将軍に就任
江戸・大坂に打ち壊し運動    
6/22 板倉勝静と会見し薩摩・会津間の調停を説く
 8/16 慶喜から第二次長州征伐の調停を一任される 
9/2 長州藩・広沢兵助らと会見、和議をまとめる
9/11 慶喜に和議を報告
しかし、長州藩への強硬な処罰を告げられる
9/13 軍艦奉行の辞表を提出
10月 次男・四郎、死去
四男・七郎、誕生(母・小西かね)
慶応 3年 1867年 45歳 3/5 海軍伝習掛 大政奉還、上奏
坂本龍馬暗殺
王政復古のクーデター 
兵庫開港勅許  
8月 英国公使・パークスと数度にわたり会見
10/20 大政奉還を知る
12/15 榎本武揚の手紙で王政復古を知る
明治 1年 1868年 46歳 1/11 鳥羽・伏見の戦いから逃れた慶喜を出迎える 鳥羽・伏見の戦い
慶喜、寛永寺に蟄居
江戸開城
上野戦争勃発
榎本武揚、五稜郭に立て籠もる         
1/17 海軍奉行並を拝命
1/23 陸軍総裁を拝命
1/26 フランス公使・ロッシュと会談
この後、フランスと手を切る
2/25 陸軍総裁を免じられ、軍事取扱を拝命
この頃、新門辰五郎らと江戸焼土計画を準備
3/1 近藤勇土方歳三らを甲府に出撃させる
3/5 山岡鉄舟と会談
翌日、駿府の西郷のもとへ出発させる
3/13 高輪薩摩藩邸で西郷と会談
3/14 芝田町薩摩藩邸で西郷と会談
10/11 江戸を去り、駿府へ
明治 2年 1869年 47歳 7/13 安芳と改名する 戊辰戦争終結
版籍奉還
横井小楠(60歳)、害死 
全国に農民一揆 
7/18 外務大丞を拝命するが、まもなく辞表を提出
11/23 兵部大丞を拝命するが、即日辞意を表明
12/28 退藩願を提出
明治 4年 1871年 49歳       廃藩置県
岩倉具視ら欧米派遣
明治 5年 1872年 50歳 5月 海軍大輔を拝命
この頃、氷川町4番地に転居、終の住処とする
太陽暦採用
陸軍省・海軍省を置く
新橋・横浜間鉄道開通
明治 6年 1873年 51歳 10/25 参議兼海軍卿を拝命 征韓論敗れ西郷ら下野
ウィーン万国博覧会に参加出品
明治 7年 1874年 52歳 8/29 この日より登庁せず
(「官吏人員削減」の自説を実行)
佐賀の乱
台湾に出兵
明治 8年 1875年 53歳 4/25 元老院議官(2日後に辞表提出) 江華島事件
ロシアと千島・樺太の交換
11/28 元老院議官を免官となり、新政府より去る
明治 9年 1876年 54歳       熊本神風連の乱
萩の乱、秋月の乱 
海軍兵学校を置く
明治10年 1877年 55歳       西南の役
全国にコレラ流行
明治11年 1878年 56歳 3/21 薩軍の軍資金援助疑惑で警視庁から事情聴取 大久保利通(49歳)暗殺
商法会議所設立
株式取引所設立
明治16年 1883年 61歳 10/2 西郷の名誉回復に関して吉井友実と相談 鹿鳴館落成
明治17年 1884年 62歳   西郷の遺児の待遇問題で奔走する 加波山事件、秩父事件
大山巌、兵制視察のため渡欧
明治18年 1885年 63歳 3月 五女・たへ、誕生(母・香川豊) 内閣制度制定
日朝講和条約締結
隅田川洪水
明治20年 1887年 65歳 5/9 伯爵を受ける 東京に電燈がつく
明治21年 1888年 66歳 4/30 枢密顧問官になる 山岡鉄舟没す
枢密院設置

市制・町村制公布
海軍大学校設立
メキシコと通商条約締結
磐梯山噴火
明治22年 1889年 67歳        大日本帝国憲法発布
貴族院令公布
地租条例改正
東海道本線全通
明治23年 1890年 68歳 7/10 貴族院議員伯爵議員互選選挙に当選(辞退する) 第1回帝国議会開く
明治24年 1891年 69歳       大津事件 
清国北洋艦隊来航
濃尾大地震
足尾鉱毒問題
明治25年 1892年 70歳 正月 福沢諭吉から書簡「?我慢の説」届く(翌月、返書) 条約改正委員会設置
水力電気工業各地に起る
2/7 長男・小鹿、歿
2/17 慶喜の末息子・精を養子に迎える
明治27年 1894年 72歳       朝鮮東学党の乱
日清戦争
庄内地方大地震
明治28年 1895年 73歳      下関条約調印
台湾平定
明治30年 1897年 75歳 12月 松方正義首相に辞職を勧告する 貨幣法公布(金本位制確立)
明治31年 1898年 76歳 3/2 慶喜と明治天皇の謁見を斡旋する 隈板内閣成立(最初の政党内閣)
明治32年 1899年 77歳 1/19 脳充血で急逝
法号・大観院殿海舟日安大居士
外国人の内地雑居を許可
横浜大火
「中央公論」創刊

(参考:『歴史街道 2011年10月号』)
(参考:児玉幸多 編 『日本史年表・地図』 吉川弘文館 2003年第9版)

(平成25年10月4日 追記)







勝海舟別邸跡
(東京都大田区南千束2丁目)




(平成23年11月26日)

勝海舟別邸(洗足軒)跡

勝海舟(1823〜99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺の農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。
海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。
明治24年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。

  池のもに 月影清き今宵しも
     うき世の塵の跡だにもなし

晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。

  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
     秋はにしきを織りいだすらむ

明治32年(1899年)77歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。
当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。

平成11年3月
勝海舟没後百年を記念して
社団法人 洗足風致協会

(説明板より)


勝海舟歌碑



勝海舟歌碑
(鹿児島県鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)

勝海舟歌碑

明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島に戻り、青年の教育のため私学校を設立しました。
ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。
ついには西南戦争を引き起こしたのです。
この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
隣に立つ常夜燈じょうやとうは、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。
歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石けだないしでできています。

(説明板より)

歌碑と常夜燈



歌碑と常夜燈

(鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)

史跡駐輦の碑


史跡駐輦の碑

(福井県敦賀市・気比の松原)

勝海舟が松原を訪れた際に明治天皇の巡幸を回想して漢詩を詠みました。
昭和29年12月21日敦賀市指定史跡


(平成20年4月12日)
気比の松原



気比の松原
(福井県敦賀市・気比の松原)





(平成20年4月12日)

名勝 気比の松原

ここ気比の松原は 三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている
その昔 聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した
そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した
そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた
敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去ったという
この伝説に因んで「一夜の松原」とも称される
現在 気比の松原はおよそ東西1千メートル南北4百メートル広さ37.9ヘクタールで樹数約1万3千本を数え海岸林としては全国的にも珍しく赤松が群生している

(碑文より)







顕彰碑
(東京都大田区・洗足池公園内・留魂祠)




(平成23年11月26日)

碑文

慶應三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ爾来 三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一二隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ■メタルノ賜ナリ今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ當年兩雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ茲ニ奠都七十年ニ際シ兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆ニ傳フ

昭和十四年四月
東京市長従三位勲一等小橋一太謹識






留魂祠
(東京都大田区南千束・洗足池公園内)





平成23年11月26日)





留魂祠
(東京都大田区南千束・洗足池公園内)





平成23年11月26日)

留魂祠りゅうこんし

一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年9月24日

由緒
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔せんぞくいけはんに洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。
南洲先生はその後、明治10(1877)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治16(1883)年、その魂魄こんぱくを招祠して留魂祠を建立せられました。
留魂祠の名は、漢詩「獄中有感ごくちゅうかんあり」の「願留魂魄護皇城ねがわくはこんぱくをとどめてこうじょうをまもらん」に由来するものです。
この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木1−5−9)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正2(1913)年、石碑とともに現在の地へ移されました。
右隣には勝先生御夫妻の奥津城おくつき(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。

南洲会

(説明板より)







勝海舟夫妻の墓所
(東京都大田区南千束・洗足池公園内)




(平成23年11月26日)


勝海舟夫妻の墓

(東京都大田区南千束・洗足池公園内)

右:海舟
  明治三十二年一月二十一日
左:勝海舟室
  故伯爵勝安芳室民子明治三十八年五月廿三日


(平成23年11月26日)

大田区文化財
勝海舟夫妻の墓

勝海舟、諱いみなは義邦、初め麟太郎りんたろう、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。
文政6年(1823)江戸に生れる。
幕臣として万延元年(1860)咸臨丸かんりんまるで渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟でいしゅう・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
   千束せんぞく村の別墅べっしょ
       楓樹数株を植ゑて
  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
     秋はにしきを 織りいだすらむ
  染めいづる 此の山かげの 紅葉は
     残す心の にしきとも見よ
          (氷川歌集より)

昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

(説明板より)


【徳川家と親戚となる】

明治32年1月21日、海舟が77歳で死去すると、徳川慶喜の十男・精くわしが養子として迎えられ、先に亡くなった海舟の長男・小鹿ころくの長女・伊代子の婿となり、勝家と徳川家は親戚関係となった。

(参考:『歴史読本 2001年3月号』 新人物往来社 発行)

(令和2年9月7日 追記)


 (関連商品のご紹介)

咸臨丸  軍艦奉行



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送