葛飾北斎像 平成19年12月28日

葛飾北斎 かつしか・ほくさい

宝暦10年9月23日(1760年10月31日)〜嘉永2年4月18日(1849年5月10日)

東京都台東区元浅草・誓教寺でお会いしました。


本姓は川村、のち中島。
俗称は時太郎、のち鉄蔵。
はじめ勝川春章の門に入り春朗と号した。
宗理・画狂人・為一・卍まんじまど多くの号をもつ。
活躍期は70年にも及び、狩野派・琳派・洋風画などの諸流派の画法を学んだ独自の画風で、錦絵版画・摺物すりもの・版本挿絵・絵本・肉筆画とあらゆるジャンルにわたって作画を行った。
代表作の『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などを通じてヨーロッパ後期印象派の画家たちにも影響を与えた。


葛飾北斎翁



葛飾北斎翁
(東京都台東区元浅草・誓教寺)





(平成19年12月28日)

碑文

葛飾北斎翁は 世界に誇る浮世絵師である
その稀有な才能は多岐にわたり 欧米の近代芸術発展に 大きな影響を与えた
いま生誕230年にあたり その偉業を讃え 功績を永世に伝えるため この地に顕彰の像を建立する

平成2年12月
葛飾北斎翁像建立委員会
台東区
日本浮世絵協会会長 楢崎宗重 書

(銘板より)

葛飾北斎墓



葛飾北斎墓
(東京都台東区元浅草・誓教寺)





(平成19年12月28日)

〜都指定旧跡〜
葛飾北斎墓
(指定:昭2.4.)

北斎は、宝暦10年(1760)9月23日、江戸本所割下水(墨田区亀沢)に川村某の子として生まれました。
19歳のときに、浮世絵師勝川春章の門に入り、本格的に絵画の修行を始めました。
そのときに与えられた名前が、勝川春朗です。
画号は春朗、宗理、画狂人、卍翁など約30種類あります。
寛政4年(1792)に春章が没すると、勝川派を離れ、狩野派、土佐派、琳派や西洋画なども学び、独自の画境を開きました。
北斎は、奇行に富んだ人であり、住居を93回も移しました。
嘉永2年(1849)4月18日、江戸浅草聖天町の長屋で三女の阿栄おえい(葛飾應為おうい)に看取られて亡くなりました。
北斎の墓は、幕末まで北斎の父と合葬されていましたが、現在の墓は、後に他家の養子となっていた次男の崎十郎が建てたとも、その娘の白井多知が建てたとも言われています。
墓石正面に「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に時世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれています。

(東京都教育庁・東京文化財ウィーク絵葉書より)

誓教寺



誓教寺

(東京都台東区元浅草4−6−9)





(平成19年12月28日)

都旧跡 葛飾北斎墓

所在 台東区元浅草4丁目6番9号 誓教寺内
指定 昭和2年4月

江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖である。
本姓は中島、名ははじめ時太郎のち鉄蔵といった。
号は春朗、宗理、可候、画狂人、卍翁など三十余ある。
宝暦10年(1760)9月江戸本所割下水で生まれ、父は徳川家用達の鏡師中島伊勢といった。
14、5才の時彫刻師に学び、19の時に浮世絵師勝川春章の門に入ったが、ひそかに狩野派の画法を学び師の知るところとなり破門。
以来土佐派、琳派、洋風画、中国画などを学び独自の画境を開いた。
肉筆画、版画、絵本、さし絵などに手腕をふるい、特に風景画は広重とともに称賛され、「富岳三十六景」をはじめ傑作が多い。
彼の作品はヨーロッパに多く流れ、フランスの印象派の人びとに大きな影響を与えた。

昭和43年3月1日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)


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