川路聖謨 かわじ・としあきら

享和元年4月25日(1801年6月6日)〜慶応4年3月15日(1868年4月7日)


旧姓は内藤。川路家の養子。通称は左衛門尉。
佐渡奉行・小普請奉行・普請奉行・奈良奉行・大坂町奉行を経て、嘉永5年(1852年)に勘定奉行。
公事方・海防掛となり、主にロシアとの外交交渉にあたる。
禁裏造営・軍制改革に尽力。
安政5年(1858年)堀田正睦まさよしの上京に随行したが、帰府すると井伊直弼に左遷され、翌年に隠居差控となる。
文久3年(1863年)一時外国奉行となるが5ヶ月で辞任。
幕府滅亡時にピストル自殺する。


植桜楓の碑



植桜楓之碑

(奈良県奈良市・興福寺近く)





(平成19年4月10日)

植桜楓之碑しょくおうふうのひ

幕末の弘化3年(1846)から嘉永4年(1851)までの5年間奈良奉行を勤めた川路聖謨かわじとしあきらはその識見と善政によって住民から深く敬愛された。
この碑はその一端 彼の呼びかけで桜と楓の苗木数千株を東大・興福両寺を中心に南は白毫寺西は佐保川堤まで植樹した時の記念碑である。
多くの苗木を寄附した奈良の住民たちの自然景観への愛着と配慮、また後世の人に補植を呼びかけたその先見の鋭さは奈良公園愛護の教訓として敬服のほかない。
なお彼は大坂町奉行 外国奉行等幕閣に重きをなし慶応4年3月15日(1868明治元年)江戸落城の報に自尽じじんして幕政に殉じた。

植桜楓之碑

寧楽な都となるや古より火災少なし。
是を以て先年の久しきを閲(け)みして、■然としてなお存するもの枚挙に遑あらず。
豈(それ)、大和の国は天孫始闢の地なり。
故に神ありて或は之を佑護するか。
且つ土沃え、民饒かに、風俗淳古にして、毎(つね)に良辰美景に至れば、即ち都人■(たる)を下げる挈(さ)げて興福東大の二大刹に遊び、筵を敷き席を設けて、嬉(たの)しみを遨(あそ)び、娯(たの)しみを歓び、まことに撃壤の余風、太平の楽事なり。
是の時に当たり遠遊探勝するものもまた千里よりして至る。
故に二刹嘉木奇花多し。
而して宝暦中、桜の千株を植うるものあるも、侵就枯槁して今即ち僅かに存するのみ。
今季、都人相議し、旧観に復さんと欲し、すなわち桜楓数千株を二刹の中に植う。
以て高円佐保の境に及ぶ。
一乗大乗の両門跡これを嘉し、賜うに桜楓数株以てす。
是に於て靡然として風を仰ぎて、之を倣うもの相継ぎ、遂に蔚然として林を成す矣。
花時玉雪の艶、霜後酣紅の美、みな以て遊人を娯しませて心目を怡(よろこ)ばすに足る。
衆人喜び甚しくまさに碑を建て其の事を勒せんとして記を余に請う。
余謬って 寵命を承け、此の地に尹(奈良奉行)として五季なり矣。
幸いにして僚属の恪勤、風俗の醇厚に由りて職時暇多し、優游臥(ふ)して累歳を治むるに滞り無し。
獄囹圄時に空しくして、国中竊盗もまた減ずること半ばに過ぐ。
是に由り官賞して属吏に賜う。
而して都人もまた以て其の楽しみを楽しむを得。
況んや今此の挙あるや、唯に都人の其の楽しみを得るのみならず、而して四方の来遊者もまた相ともに其の楽しみを享(う)く。
此れ余の欣懌してやむあたわざるところなり。
然れども歳月の久しき、桜や楓や枯槁の憂い無きあたわず。
後人の若し能く之を補えば、則ち今日の遊観の楽しき、以て百世を閲みして替えざるべし。
此れ又余の後人に望むところなり。
故に辞さずして之を記し、以てこの碑に勒す。
一乗法王為めに其の額に題す。
余の文の■陋(せんろう)観るに足らず。
然れども法王の親翰、則ち桜楓をして光華を増さしむるに足らん矣。

嘉永3年歳次庚戌3月 寧楽尹 従五位 下左衛門尉源朝臣聖謨撰并書

(説明板より)

※ ■はパソコン上で表示不可能の文字です。


日露会談

嘉永6年7月18日(1853年8月22日)、プチャーチンのロシア軍艦4隻が長崎に入港。
在勤の長崎奉行大沢豊後守乗哲は、直ちに早飛脚を江戸に出し、対応についての指示を仰ぐ。
日本側の対応は、江戸へ帰る筈だった大沢豊後守と、今度長崎に赴任する目付出身の切れ者で幕閣からの信任も厚かった新任の水野筑後守忠徳の二人が共同で当たることになり、通訳は、江戸帰りの西吉兵衛と森山栄之助が担当することになった。
6月22日(西暦7月27日)の将軍家慶の死去もあり、しばらくは国書に対する回答は出来ないとの日本側に対して、プチャーチンは、あくまで回答を要求した。
これに対して幕府は全権団を長崎に派遣して会談をすることを決定。
ロシア応接掛の筒井肥前守政憲まさのり、川路左衛門尉聖謨かわじとしあきら、荒尾土佐守成充しげみつ、古賀筑後守増(謹一郎)の4名が江戸を出発。
それに対し、ロシア艦隊は祖国のクリミア戦争の行方を心配し、上海へ出帆。
上海にひと月程滞在し、12月5日、再び長崎に入港した。

川路の長崎での宿舎は、長崎代官で鉄砲方を勤めていた高木定四郎の屋敷で新大工町の中島川の辺りにあった。

ロシア使節と日本側全権団との交渉は、接待・訪問・宴会・贈答などの儀礼的な行事に二週間ほどが費やされ、交渉は嘉永6年12月20日(1854年1月7日)から始まった。
この日露会談において最も重要な働きをしたのは副全権の川路左衛門尉聖謨であった。
4人の全権団のうち、荒尾石見守成充は監察として、古賀謹一郎は顧問格として、会談中二人はほとんど発言しなかった。
事実上の全権は川路で、彼がほとんど発言し、その通訳は森山栄之助が担当した。
主席全権であった筒井肥前守政憲は、始めの挨拶か川路の発言を補佐する程度で、その通訳は西吉兵衛があたった。

日露の会談は6回にわたって行われ、日本側から言わせると、川路の巧みな弁舌で、ロシア側は、さしたる成果を上げることなく日本を離れることになった。
ロシア使節プチャーチンは、再度来日することを言明して、嘉永7年正月8日(1854年2月5日)長崎を出帆していった。
この日露会談が、幕府の意図するような結果になったのは、ロシア使節の紳士的な穏やかな態度によることもあったが、川路の巧みな交渉術と栄之助の正確な通訳によることも大きかった。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年

(平成22年1月4日追記)


日露和親条約

長崎での交渉に不満を持っていたロシアのプチャーチンは、日米和親条約締結(嘉永7年3月3日)を知ると新鋭艦ディアナ号で安政元年8月30日には函館に入港し、9月には大坂湾内に姿を現して京阪神地方を騒がせた。
10月14日には下田に入港し、和親条約の締結を要求した。
この時の応接は、大目付の筒井肥前守政憲、勘定奉行であった川路左衛門尉聖謨、下田奉行の井沢美作守政義が全権となって行なった。
17日に幕府から全権の命令が下り、18日に江戸城へ登って拝謁の後、直ちに出発している。
下田に着いたのが21日で、最後の日は三島から下田までの26里(約104km)余りを1日で駆け抜けている。
聖謨54歳であった。

11月3日に玉泉寺で第1回の会談が行なわれることになった。
プチャーチンは、アメリカにならって日露間にも条約を結ぶ希望を述べ、特に国境画定と通商開始を求めた。
この第1回の会談は、開港場の問題で行き詰まり、後日を期して散会した。
有名な安政の大地震が起きたのは、その翌日の11月4日であった。
地震・津波騒ぎが落ち着いた13日から、正式の会談が行なわれた。
会談は川路聖謨も巧みな交渉術によって、ロシア側の主張通りにはならなかったが、国境画定という難題もあって、連日激論が交わされた。
結局、日米和親条約という前例もあり、かなりの条項は、その線に沿って合意されていったが、難問は領事駐在の件であった。
最恵国待遇を認めた以上、アメリカと同様に領事駐在の件についての条項も載せざるを得なかった。
しかも、希望的観測で条約文を作成したために、日露の条約文に違いが出てきて、後に紛争の種となった。

12月14日、第4回目の交渉の時には、国境問題で決着がつかず、最後は、通詞の森山栄之助とロシア側の副官ポシェットとの間で原案を作成し、条約の付録に「樺太島の儀は嘉永5年までに日本人並びに蝦夷アイノ(アイヌ)居住したる地は、日本領たるべし」との一項を付加することで決着している。
こうして、ロシア使節プチャーチンと日本全権川路聖謨との間のせめぎ合いの中、5回の会談を経てようやく決着し、12月21日に日露和親条約が調印された。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年)

(平成22年1月11日追記)


日露和親条約締結・その後

幕府は、全権団をひとまず江戸に呼んで日露和親条約締結の報告を聞くことにした。
川路が江戸に戻ったのは、年が明けた安政2年正月3日のことである。
ところが、この日米和親条約に準じたほど同じような内容の中で、領事駐在の条項が大問題となり、特に水戸の徳川斉昭は、領事駐留の削除を強硬に主張した。
この領事条項は、日米和親条約の英文の内容に近く、川路は最善を尽くしたと自認していたが、老中・阿部正弘は、水戸の徳川斉昭を説得することができず、川路に再度、6条削除のためにプチャーチンと交渉することを命じた。
2月12日、再び下田に向けて出発する。
おりから聖謨の養父は重病で危篤に陥っており後ろ髪を引かれる出立であった。
2月18日に下田に到着する。
今回の交渉団は、川路聖謨を中心に、勘定奉行の水野筑後守忠徳、海防掛目付の岩瀬忠震であった。
プチャーチンと領事条項の撤廃についての交渉に入ったが、「条約文を本国へ送ってしまった」の一点張りで埒が明かず、結局、この交渉は幕府の満足するような結果出すことができず、川路は、交渉の経過を報告するためにいったん江戸に戻った。
報告を済ませると、プチャーチンとの交渉を続行すべく、3月20日、三たび下田に向かったが、藤沢まで来た所で戸田から書状が届いた。
プチャーチンが出帆してしまったというのである。
川路たちも肝心の交渉相手が居なくてはどうしようもなく、江戸に戻ることになった。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年)

(平成22年1月11日追記)


左遷

日米修好通商条約締結にあたって幕府がもっとも心配したのは、諸大名の動向であった。
老中・堀田正睦は、条約締結へのゴーサインを出してから大名たちに繰り返し、交渉の経過を知らせ了解を求めた。
条約の内容がほぼまとまった安政4年12月29日には、江戸城内に諸大名を集め、条約を結ぶに至った経過とその内容を詳しく説明し、賛同を求めた。
大名たちからはさしたる反対もなかったが、隠居していた水戸の斉昭は、激怒してハリスの首を刎ねろと喚いたという。
ともかく、天皇の許可(勅許)を得なければと、堀田正睦は、岩瀬忠震と川路聖謨を連れて、安政5年1月21日(1858年3月6日)に上京した。
時の天皇は孝明天皇であったが、条約締結を拒否し、たとえ戦争になっても構わないと、攘夷を主張し続けた。
堀田正睦は、4月20日(6月1日)江戸に戻った。
幕府は進退窮まってしまった。
その3日後の4月23日(6月4日)、井伊直弼が大老に就任した。
大老とは、非常時に置かれる特別な役職で、将軍を補佐し、絶大な権力を持っていた。
直弼は、大老に就任すると直ちに行動を開始し、5月6日、大目付の土岐丹波守と勘定奉行の川路聖謨らを左遷し、次期将軍に紀州の慶福(家茂)を立てることを発表し人々を驚かせた。

(参考:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年)

(平成22年1月11日追記)




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