川上眉山 かわかみ・びざん

明治2年3月5日(1869年4月16日)〜明治41年(1908年)6月15日


本名は亮あきら
大阪府出身で、幼児父母と共に上京。
第一高等中学校を経て帝国大学法科に進む。
尾崎紅葉・山田美妙・巌谷小波らと知り合い、硯友社に参加。
『墨染桜』『賎機しずはた』の浪漫的作品で世に出る。
日清戦争後に社会や人生を糾問する『大さかづき』『書記官』『うらおもて』を発表、泉鏡花と並んで観念小説の代表的作家となる。
のち、作家としての行き詰まりから自殺。







眉山川上亮墓

(東京都文京区・吉祥寺)





(平成23年1月22日)





川上眉山の墓所
(東京都文京区・吉祥寺)





(平成23年1月22日)

川上眉山の墓

明治2年〜明治41年(1869〜1908)。
大阪の生まれ。
名は亮あきら
小説家。
東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。
また「文学界」同人とも交わる。
明治28年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。
後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。

東京都文京区教育委員会

(説明板より)






吉祥寺
(東京都文京区本駒込3−19−17)





(平成23年1月22日)

曹洞宗 諏訪山 吉祥寺  本駒込3−19−17

長禄2年(1458)太田道灌江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇いちうを設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。
現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。
明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として栴檀林せんだんりん(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。

古い堂塔
山門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
経蔵 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。

墓所
二宮尊徳 (江戸末期の農政家)           (墓地内左手)
鳥居燿蔵 (江戸南町奉行)              (墓地内左手)
榎本武揚 (江戸末期の幕臣、明治時代の政治家)(墓地内右手)
川上眉山 (小説家)                   (墓地内右手)

文京区教育委員会  平成6年3月

(説明板より)




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