念願のモンテンルパ再訪問!

(モンテンルパ)


平成17年11月22日

早朝、”アンチポロ”のホテルをチェックアウトして”モンテンルパ”に向かう。
アンチチポロではどこにも行かないの?
この辺に山下閣下と本間閣下の処刑の地があるはずなんですけど・・・
ガイドさんの話では、山下奉文大将の処刑地(最期の地)は管理者が変わって入場料も高くなったそうで、今は誰も入れないと言う。
そうなのだろうか?
2年半前の平成15年5月に訪問した後、「最期の地」は整備されたというメールを写真付で私のHPに訪問してくださった方からいただいていたので、整備されたのなら当然立ち寄るのかと思っていたのだが・・・・
どうもガイドさんはそのことは知らなかったらしい。
「そうなんですか?」と言う。
アララ・・・
どんな風に整備されたのか是非見たかったのだが・・・残念。

途中、”カンルーバン”を通過。
ここには終戦時捕虜収容所があった場所だが、遺族の皆さんにとっては何の縁もない場所でしょうから通過しても仕方がない。

”モンテンルパ”では『モンテンルパ世界平和祈念公園』を訪問。
周りの景色が以前と比べると随分変わっていました。
入り口の近くまでお墓が迫っていて、こんな感じだったかなぁ〜?

モンテンルパ世界平和祈念公園 モンテンルパ世界平和祈念公園


以前訪れた時は、こんなに緑がなかったのですが・・・
これは季節のせいなのだろうか?

ここは是非もう一度訪れたいと思っていた場所。
実はどうしても確認したいことがあったのです。

もう時効でしょうから公表してもいいでしょう。
2年半前の平成15年5月にここを初めて訪れたとき、ここには小柄な老人がおりました。
一見、現地のフィリピン人のように見える人でしたが日本人でした。
この人が、公園内を案内してくれたのですが、その時、戦犯として処刑された人達の写真があまりにも汚かったので「デジタル修復でもして綺麗なものを展示してあげないとかわいそうですね」という話をしたのです。
後日、彼から「是非預かってほしい」と、この戦犯に関する資料のコピーが送られてきました。
その中にコピー代として5,000円ほど送金してくれないかという手紙が入っていました。
早速、お金を送金してあげたのですが、その後、この処刑された方々のうち半数の方の写真が送られてきました。
「是非デジタル修復をしてもらいたい」と・・・・
そこで私は写真店の協力を得てデジタル修復して、原本と修復版の両方を送り返したのです。
ところが・・・その後、残りの半数の写真が届かない。
いくら待っても音信がない。
旅行社の方に調査を依頼したところ、「彼は日本人の囚人で、刑期を終えてちょうど出国手続き中のようだ、すでに出国したかもしれない」と言うのです。
彼が囚人だったことに驚きましたが、私にとってはそんなことはどうでもいいこと。
それより私の送った写真は無事に着いているのか?
旅行社ではそこまではわからないと言う。
その後、私のHPを訪問してくれた方から「写真の半数は盗まれたそうですね」というメールをいただきました。
ええっ!
何ということか!
この方に調査を依頼したところ、確かに間違いなく”盗まれた”とのこと。
俺が犯人?まさか・・・
残っている写真は、私が送り返した写真なのか、それとも未修復の残り半数の写真なのか・・・
それをこの目で確かめたかったのです。

処刑された方々の写真 処刑された方々の写真

私が修復した写真は展示されていませんでした。
ショックです。

どうも、この”管理人”は芳名帳なども持って消えてしまったようです。
悪用されなければ良いが・・・・

良かれと思ってやったことが、こういう結果になってしまったとは・・・・
参りました。

この公園を後にして、刑務所の近くに日本軍の大砲らしいものがあるというので寄ることになりました。
ガイドさんは「多分日本軍の大砲だと思うんですけど・・・」と自信なさそうでしたが・・・
現物を確認。
確かに日本軍の大砲でした。

日本海軍の高角砲 日本海軍の高角砲
45口径十年式十二糎センチ高角砲

昭和19年呉海軍工廠製
製造番号6750号
重量:2910瓩キログラム

刻印を探してみたところ海軍の高角砲でした。
高角砲というのは陸軍の高射砲と同じで、飛行機を打ち落とすための大砲です。
その刻印のなかでどうしてもわからない文字がありました。
『(\)加■右』の文字です。(■は判読不明)
\はローマ数字の9です。
漢字3文字の右端の「右」の文字は何だろうか?
連装のうちの右側の砲という意味なのだろうか?
9というローマ数字は何を意味するのだろうか?
なんとも謎ばかりの文字の羅列です。
しかも海軍の砲が何でモンテンルパ刑務所の近くに置いてあるのか?
ここまで持ってきたの?
船から外して?
現地では簡単に砲の説明をしましたが・・・・この砲のいわれは不明です。
敵弾が当たった跡も見当たらないし、破壊された跡も見当たりません。
使用可能な状態で放置され戦後に部品を盗まれたという感じでした。

この後、バスは一路マニラに向かいました。


 


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