ファーミーとカリラヤで慰霊祭

(ファーミー・カリラヤ)


平成17年11月21日

さて、小学校に別れを告げて・・・・・どこをどう走ったのやら。
バスに乗っているとダメですね。
団体旅行だと気が緩んでしまうのか全く旅程に興味が失せてしまう。
これが個人旅行と団体旅行の大きな違いかな?

いつの間にか、”ファーミー”という町に着きました。
ここで、適当な空き地を探して慰霊祭を執り行いました。
ここでの慰霊祭は当初の日程にはなかったもの。
どうやら今回の旅に参加できなかった遺族からの依頼で急遽ここで慰霊祭を行うことになったらしい。

ファーミーの空き地 ファーミーの空き地

写っている車は荷物運搬車と我がマイクロバス
空き地での慰霊祭 空き地での慰霊祭

さて、この空き地の持ち主は誰なのだろうか?
そんなことはお構いなしに慰霊祭を行いましたが・・・・
迷惑をかけていなければ良いのですが・・・
すぐ脇はスラム街。
子供達や大人達が集まってきました。
そりゃ、珍しいでしょうねぇ〜
この町で慰霊祭を行う慰霊団なんかないんじゃない?

ここでは簡単な慰霊祭を執り行い、次の目的地の”カラリヤ”へ。
”カラリヤ”は戦場跡ではありませんが、ここには日本政府が作った合同慰霊場があります。
ガイドさんから「ここには来たことがありますか?」と尋ねられましたが、私は初めての訪問。
各地を歩いている割には、ここに来たことがないというのは意外だという顔をされてしまいました。
でもねぇ〜個人で歩いている場合、こういう整備された場所には来ないんだよねぇ〜

カラリヤの合同慰霊祭場 カラリヤの日本政府建立合同慰霊祭場

天気は快晴。日差しも強く、山の上なのに暑い。
しかも湿度もある。
乾季のはずなのに、思ったより湿度が高い。
風が吹いてくれたので、まだ我慢できるが、これで風がなかったら最悪だ。

比島戦没者の碑 比島戦没者の碑

遺骨箱を模った慰霊碑。なんともシンプルな碑です。
こう言っては失礼でしょうが、政府が作る慰霊碑ってこんなものなのか・・・という印象を受けました。
敷地は広大で、ガードマンや清掃する人もいて、よく管理はされているのですが・・・
どこか拍子抜けするような施設です。
慰霊碑の後の壁はただの壁。何も記載されていません。
フィリピン全土で戦没した人達は50万人以上います。
彼らの名を全て記せとは言いませんが、少なくとも部隊名くらいは記してもいいんじゃないかな?
各地の慰霊碑を撤去して、慰霊はここ1箇所で行なわせるつもりなのでしょうが・・・・
なにか・・・ピンとこないんですよね。
縁もゆかりもない場所で慰霊をするのかぁ・・・

慰霊祭 慰霊祭

ここでの「追悼の言葉」は私の担当。
今まで各地の慰霊祭では、縁ある遺族の方々が「追悼の言葉」を行なっていましたが、ここはフィリピン全土の慰霊を一括して行なう場所なので、私が適任だろうという事で役目をおおせつかりました。
でも正直言うと私はこういうのは苦手なんですよねぇ〜
本来ならば紙にちゃんと書いて「追悼の言葉」を申し上げるのが礼儀でしょうが、どう頭をひねっても言葉が出てこないので紙に書かないままここまでやってきてしまいました。
結局、土壇場でアドリブでの「追悼の言葉」となってしまいました。
祖父を生還させてくれたのは多くの戦没した部下のおかげ。
祖父が生還したから今の私がいるのです。
祖父に出会えてなかったら、今のような自分にはならなかったでしょう。多分、全く別人になっていたと思うのです。
そういう意味で戦没した部下の皆さんは私の恩人なのです。
祖父の部下の捜索第10連隊の戦没将兵と祖父と縁あった第1師団、第16師団戦車第2師団の戦没将兵のために「追悼の言葉」を述べましたが、なぜか涙が止まらず参りました。

高台から見た景色 慰霊碑の後の高台から見た景色

この広大な敷地内に戦友会が建立したのでしょうか、部隊名の記された慰霊碑がいくつか建っていました。
ガイドさんの話では「勝手に建てた」と言ってましたが・・・・
皆さんから離れたのでは迷惑をかけると思って、写真を撮りに行きませんでしたが・・・
今度、一人で来た時にゆっくり見ようかなと思います。



 


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