川之江城 かわのえじょう

(別称:仏殿城)

愛媛県四国中央市川之江町(旧:川之江市)


川之江城 平成19年11月12日

川之江城史

南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。
興国3年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。
義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。
細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。
元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻めいったが、撃退している。
土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部氏に通じた。
怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。
天正7年(1579)前後のことと思われる。
河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に敗れ、戦死落城している。
その時、姫ヶ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時最終的に廃城になった。
数々の攻防は川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。
戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり城山に城を築こうとしたが寛永19年(1642)病没。
領地は没収されて幕領となり明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。

(説明板より)

櫓門




櫓門






(平成19年11月12日)

川之江城復元記念碑・碑文

1611年(慶長16年)城主加藤嘉明候 川之江城を解き松山へ運ぶ されどこの町を人呼んで城下町と言う
1984年(昭和59年)市制発足30周年を期して8阡余の市民・ゆかりの人 浄財を持ち寄りこの城を復元する

昭和63年戊辰卯月
川之江城復元募金委員会
会長   高原勇太郎
副会長 篠原源太郎
同    薦田治郎吉
同    高原良二
題字撰文
川之江市長 石津榮一

模擬天守




模擬天守






(平成19年11月12日)
涼櫓




涼櫓すずみやぐら
(模擬)
(二の丸跡)




(平成19年11月12日)
鎮魂の碑




鎮魂の碑

(本丸跡)




(平成19年11月12日)

碑文

延元2年(1337)土肥義昌鷲尾山上に築城この方、この地に眠れる将兵の鎮魂を祈る。
佛殿城築城650周年に当る今、昭和新城の完成をみてこの碑を建てる。

昭和61年丙寅■月(1986)
川之江城復元募金委員会会長 高原勇太郎
■文 題字  川之江市長 石津榮一

三の丸跡




三の丸跡






(平成19年11月12日)
川之江城史碑




川之江城史碑

(三の丸跡)




(平成19年11月12日)

川之江城史  川之江市川之江町

人皇第45代聖武天皇天平13年行基勅ヲ奉シテ伊豫國越智郡國分寺創立ノ際此ノ地ニ来リ止リテ法ヲ説キ且シ信徒ノ乞ニヨリ自ラ阿弥陀如来座像一躯ヲ彫刻シ草庵ヲ結ビ之ヲ安置シ居ルコト3年ニ及ブ
後人皇第65代花山天皇ノ御宇寛和2年比叡山首■厳院恵心僧都源信行脚ノ■當地ニ来リ行基ガ結ビシ草庵ヲ訪ヒ佛塔興隆ノ念起リ信徒ト共ニ殿堂ヲ鷲尾山(今専ラ城山ト云フ)の頂ニ建立セリ
名ヅケテ鷲尾山恵心院佛法寺ト號ス
時ニ寛和3年ニシテ実ニ佛法寺開基ノ起元ナリ
人皇第95代後醍醐天皇延元2年3月伊豫國大領河野通政足利氏ノ賊兵ヲ防ガントテ川之江ニ城廓ヲ構ヘントスルニ當リ部将土肥義昌(義昌本姓ハ越智河野氏ノ支流ナリ)ニ建築セシム
義昌即チ地ヲ鷲尾山ノ頂ニ卜シテ築城セントシ巡検ノ際其山頂ニ堂宇アリ恵心僧都開基建立ノ旨ヲ聞キ新ニ佛殿ヲ城中ニ造営シテ之ヲ祭リ武運ヲ祈ルコト厚シ之ヨリ當城ヲ名ヅケテ佛殿城ト称ス
興國2年5月足利ノ賊将細川頼春兵7千余騎ヲ引卆シテ當國ニ攻入リ佛殿城ヲ陥ル
義昌郎党ヲ随ヘ備後ニ走リ新田止義興ニ属シ戦功ヲ立テ遂ニ鎌倉ニ至リ足利基氏ヲ窺フ然ルニ却ッテ足利氏ノ術中ニ陥リ武州矢口ノ渡ニ於テ義興等ト共ニ戦死セリ
時ニ正平13年10月10日ナリ
義昌ノ位牌ハ佛法寺ニ納メ其墓標鷲尾山ニ存スルト雖モ星霜ヲ経ルニ従ヒ文字詳ナラズ
依ッテ後裔土肥邦助祖先ヲ追想スルノ念深ク自ラ資ヲ投ジテ明治31年2月新規五輪ノ塔一基ヲ再建セリ
却説義昌佛殿城落去リテヨリ細川頼春當城ニ入リテ守衛ス
然ルニ其後河野氏ノ攻撃屡々強烈ナリケレバ間モナク河野氏ノ掌中ニ復シ之ヨリ世々交々河野氏ノ部将守衛スル処トナレリ
元亀3年6月河野氏ノ部将妻鳥采女正友春此城ヲ守衛ス時ニ阿波國三好存保ハ軍勢ヲ引卆シテ當城ニ攻入リ城ヲ圍ム
妻鳥氏精兵ヲ以テ大ニ防戦ス
三好勢敗走シテ去ル
依ッテ妻鳥氏ハ其ノ賞ニヨリ佛殿城ヲ領セリ
然ルニ妻鳥氏ハ密カニ土州長曽我部元親ニ通ス
河野氏大ニ怒リ河上但馬守安勝ニ命シテ妻鳥氏ヲ討タシム
妻鳥氏力盡キテ悉ク城中ニ死ス
依ッテ安勝ヲ城主トナス
時ニ天正3年11月ナリ
天正10年6月本郡金川村轟城主大西備中守元武その臣秋山嘉平ニ命シ安勝ヲ本郡村松字崩ニ於テ計畧ヲ構ヘ暗夜ニ之ヲ誘殺セシム
之レ6月10日ノ夜ノコトナリキ
安勝ノ墓標ハ村松字崩ニ存ス
■テ天正10年6月10日大西勢ハ早速佛殿城ヲ乗取リシモ間モ無ク長曽我部元親ノ手ニ陥リ土佐ノ番兵コレヲ守ル
天正12年池田信輝當城ヲ領ス
天正13年9月豊臣氏畧掌スル処トナリ同年小早川隆景ニ當城ヲ與フ
天正15年越智郡國分城主福島正則ニ属ス
慶長5年徳川氏略定シテ伊豫郡松前城主加藤嘉明ヲ當城ニ封ス
寛永4年藩主忠知松山城ニ封シ本郡ヲモ合領ス
同12年幕領ニ属ス
同13年5月一柳直家ヲ宇摩郡3万石ニ封シ川之江城ニ入ル
同19年一柳氏播州小野ニ封ヲ移サル
同20年復幕領トナリ城廓崩除ノ後松山城主松平定長ノ御預リ所トナル
延寶6年更ニ復幕府ノ直轄(即天領)トナル
享保6年再ビ松山藩主松平隠岐守ノ領トナリ以テ明治元年ニ至ル
明治元年3月ヨリ土州山内氏ノ支配ニ転ジ(即高知藩)明治4年廃藩置縣トナリ同年正月備中倉敷縣ニ属シ同年5月丸亀縣ニ移リ同年11月松山縣ヲ置クニ及ビ之ニ属ス
明治5年2月松山縣ヲ石鎚縣ト改称シ6年2月伊豫一國ヲ合セテ愛媛縣トナス
同時ニ當地ヘ第一大區役所ヲ置キ元高知藩官舎ヲ之ニ充ツ本郡一圓ヲ管轄シ各村ニ小區役所ヲ置キ小區ニ戸長ヲ置カル
明治11年愛媛縣ヲ18郡ニ分チ郡役所ヲ設クルニ至リ當地ニ宇摩郡役所ヲ設ク

昭和31年1月
川之江市教育委員会
川之江文化協会
会計 三好勣 刻

(銘板・碑文より)

観光案内図 平成19年11月12日

姫ヶ嶽



姫ヶ嶽ひめがだけ
(城山公園)





(平成19年11月12日)

姫ヶ嶽

天正10年(西暦1582年)6月10日川之江城主河上かわかみ但馬守たじまのかみが三島宮みしまぐうに詣でての帰途、村松字あざくずれの松原に於おいて、謀臣ぼうしん秋山嘉兵衛かへえの為に誘殺ゆうさつされ、城は秋山の内通ないつうにより轟とどろき城主大西備中守びっちゅうのかみの急襲をうけて、落城するに至った。
この時、但馬守たじまのかみの息女そくじょ年姫としひめは横死おうしの父のあとを追って、この断崖だんがいより燧灘ひうちなだに身を躍おどらして、はかなくも花の生涯を閉じたといわれている。
春風秋雨しゅんぷうしゅうう380余年、落城の悲話として、今に伝えて、ここを姫ヶ嶽ひめがたけと呼ぶ。

姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果ても
   うまして入りぬ 大名の娘は
                       与謝野晶子

(説明板より)


川之江城遠景 川之江城遠景


一柳陣屋門

旧川之江藩 一柳陣屋門遺構
(愛媛県四国中央市川之江町・川之江八幡神社)

この建物は「旧川之江藩一柳陣屋門」の遺構である。
江戸初期の乳児門様式を知る上からも極めて貴重で、末永く後世に伝えるものとして、この度文化庁より登録有形文化財に指定された。

(石柱・碑文より)

(平成19年11月12日)

由緒

この陣屋門は一柳直家公が川之江藩(2万8千6百石)の藩主となっていた寛永13年(1636)から寛永19年(1642)の間、新町にあった陣屋の表門である。
直家公は城山々上に城を再建しようと夢見ていたが、寛永の飢饉などで時期が悪く、志を得ないうちに急病にかかって、江戸で亡くなった。
跡継ぎがないため川之江藩は取り潰しとなり断絶、養子直次は播州小野(1万石)に移っていった。
記録ではその時陣屋にあった表門を宝積寺(現川之江八幡神社)に賜うとある。
この門は松山城築城の際に用いられている慶長尺(1間=6尺5寸)を使って建てられており、江戸初期の建物であることにまちがいない。
全国的にみても陣屋門が残っている例は少なく、特に2階建ての陣屋門はここにしかない貴重なものである。

平成11年6月29日
川之江市文化財保護審議委員 石川定男
愛媛県文化財保護審議委員   河合 勤

(説明板より)


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