川島芳子 かわしま・よしこ

光緒33年4月12日(1907年5月24日)〜昭和23年(1948年)3月25日


清朝の王族粛親王善耆しゅくしんおうぜんきの第14王女。
中国名は愛親覚羅顕シ〔王偏に子〕アイシンギョロけんし
大正2年(1913年)川島浪速の養女となる。
清朝復興の夢を追い、満洲事変・第一次上海事変・熱河進攻の際の謀略活動に暗躍。
男装の麗人・東洋のマタハリといわれた。
昭和20年(1945年)国民政府に逮捕され、昭和23年(1948年)3月銃殺。


川島浪速の墓


国士 川島浪速墓
  同婦人 福子
  同女  芳子
(長野県松本市・正麟寺)




(平成20年10月25日)
川島家墓所



川島家墓所
(長野県松本市・正麟寺)





(平成20年10月25日)

男装の麗人 川島芳子さん

川島芳子さんは、1906年清国粛親王の第13王女として生まれ大正3年9歳のとき旧松本藩士で当時の満蒙に活躍し国士といわれた故川島浪速翁の養女となり同翁とともに浅間温泉に居を移し松本高等女学校(現蟻ヶ崎高校)に入学、馬に乗って通学するなどお転婆娘といわれ市民の話題の的となった。
その後戦前の中国大陸を舞台に男装の麗人といわれ満洲国建立のため大活躍をし有名を馳せたが昭和23年2月42歳の若さでその波乱の生涯をとじました。

(説明板より)

正麟寺



正麟寺

(長野県松本市蟻ヶ崎4−10−1)





(平成20年10月25日)

【川島芳子】

川島芳子は粛親王善耆しゅくしんおうぜんきの第14王女として北京に生まれた。
辛亥革命後の1912年、粛親王は北京を脱出して旅順りょじゅんに逃れ、5歳の“けんし”を日本人・川島浪速なにわに預けた。
浪速はいわゆる大陸浪人で、日本政府の対中国政策の秘密工作に携わっていたらしい。
“けんし”は7歳の時に浪速と来日し、養女になって川島芳子と改名した。
実父と養父の切望する清朝復興の夢を担って育つが、浪速は「芳子をおもちゃとして貰った」と言いふらしたという。
芳子は東京の川島家から豊島師範付属小学校、跡見高女に通い、浪速の転居に伴って松本市に移り、松本高女の聴講生になる。
ずば抜けた美貌、聡明さと気品、馬で通学する姿は周囲の視線を集めた。
苦学している旧松本高校生に「写真を撮って学資の足しになさい」とばかりに、胸から上のヌードを提供したこともあったという。
横浜に行けばヌード写真が高く売れる時代だった。
15歳になった大正11年(1922)、実の父と母が相次いで亡くなる。
芳子は生涯、父母の喪失による孤独感を引きずり「みなしご」という意識を募らせていく。
旅順で喪に服し松本に戻ったものの、自由奔放さが受け入れられなかったのか、松本高女への復学は認められなかった。
この頃から養父・川島浪速の折檻せっかんが激しくなる。
18歳の夏から秋にかけて、芳子はモルヒネ自殺、ピストル自殺を図ったあげく、断髪し、男装に姿を変えた。
理由は山家亨への失恋とも、養父・浪速に凌辱されたためともいう。
「10月6日の夜9時45分・・・・永遠に女を清算した日です」
「その頃の僕の悩み、不快な思い出、男装を決意した真因は僕の口からは語れないで終わる謎」になるであろうと手記で語っている。
20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するが、3年ほどで離婚。
上海に行って駐在武官の田中隆吉りゅうきちの愛人になり、上海事変の謀略工作に関わって「東洋のマタ・ハリ(美貌のオランダ人女性スパイ)」と騒がれる。
関東軍の依頼で愛親覚羅溥儀ふぎの皇后・婉容えんようを天津から満州に護送。
満州国が成立すると女官長に就任。
村松梢風むらまつしょうふうの小説『男装の麗人』に取り上げられ、「日本軍に協力する清朝王女」と世間の注目を浴びた。
昭和8年(1933年)には、パトロンの北支派遣方面軍司令官の多田駿ただはやお少将(のち大将)の命令で、安国軍総司令に就任し、熱河作戦に加わる。
新聞は「東洋のジャンヌ・ダルク」と書きたてた。
多田の援助で東興楼の経営者となったころ、栄光は既に過去のものになっており、日本軍、満州国軍、右翼大陸浪人からも持て余され、モルヒネを手放せないような自堕落じだらくで放蕩三昧ほうとうざんまいの暮らしをしているに過ぎなかった。
満州国は日本の傀儡かいらいであり、願っていた清朝復興ではないと知った虚無のなかで、芳子は講演などで軍部批判を重ね、「パパ」と呼んで親しんでいた多田駿によって暗殺命令が下されていたという。
昭和20年(1945年)8月、日本は降伏。
芳子は漢奸(中国を裏切った者)容疑で逮捕される。
養父・浪速に何度も手紙を書き、必死になって日本の戸籍謄本を手に入れようとしていたが、当時の中国では父親が中国人である限り、中国人とみなされた。
しかも、養父・浪速は芳子を養女として入籍していなかったのである。
昭和23年(1948年)3月、川島芳子は銃殺刑になり、41歳の生涯を終えた。
芳子の遺品の中にこんな詩章があった。
   家あれども帰り得ず
     涙あれども語り得ず
   法あれども正しきを得ず
     冤あれども誰にか訴えん
芳子の妹の愛親覚羅顕gけんきは「姉はよく都合のいい嘘を並べて母に叱られていた」が「スパイをするほどの力量はなかった。浪速の養女になったことと美貌が悲劇の原因だった」と言い切っている。

(参考:『歴史読本 2009年9月号 特集・石原莞爾と満洲帝国』 新人物往来社)

(平成23年6月24日追記)


【川島芳子】

清朝王族の末裔に生まれた川島は、関東軍の密命で、後に満州国皇帝となる宣統帝溥儀の后の婉容ワンロンを天津から脱出させる男まさりの行動で有名な男装の麗人だった。
清朝の再興を期した川島は、上海で知り合った特務機関の田中隆吉の指揮のもと、「女間謀X14号」として情報活動に就き、時に金璧輝、東珍と名乗って密偵活動をつづけた。
その暗躍ぶりから「東洋のマタハリ」の異名をとったが、敗戦後、国民党政府軍に捕らえられ、売国奴の「漢奸」として銃殺刑に処せられた。

(参考:佐野眞一 著 『阿片王 満州の夜と霧』 2005年発行 新潮社)

(平成27年10月13日追記)


【処刑】

中国において戦犯となっていた川島芳子が、昭和23年3月6日に再審請求を行ない、同14日に棄却された。
そして3月25日に北京第1監獄の刑場で銃殺刑が施行され、芳子は憐れにも42歳の生涯を露と果てた。
しかし一説によれば、芳子の処刑は身代わりによるもので、生き延びた芳子は蒙古とロシアの国境に近い、粛親王家の領地にかくまわれたという。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月6日 追記)




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