軽巡 阿武隈 あぶくま


軍艦阿武隈慰霊碑



軍艦阿武隈慰霊碑

(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

慰霊のことば

軍艦阿武隈(5千5百噸級軽巡洋艦)は大正14年5月浦賀ドックにて竣工し数度の改装を行い昭和16年12月8日大東亜戦争開戦時第1水雷戦隊旗艦としてハワイ作戦に参加
同17年ビスマルク諸島、ポートダーウィン、ジャワ、インド洋作戦
同18年アリューシャン方面作戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤収作戦等に活躍
同19年10月25日比島沖海戦に第2遊撃部隊としてスリガオ海峡突入時交戦被雷
翌26日 B24 30機の猛爆を受け勇戦奮闘空しく遂にミンダナオ海に多くの戦友と共に勇姿を没す。(時刻午後零時42分位置北緯9度9分東経121度54分ダピタンの西北西約180粁)
38年後旧乗組員有志相諮り母港佐世保市東公園旧海軍墓地に参集
軍艦阿武隈の輝く戦歴を記念すると共に祖國の難に赴き名誉の戦死を遂げ今日の日本の繁栄の礎となりし戦友を永く顕彰せんと欲しその芳名を刻み慰霊碑を茲に建立す

英霊よ軍艦阿武隈よ
     安らかに眠り給え

昭和57年10月24日
軍艦阿武隈戦友会
会長 元副長 清水芳人
他 会員有志

(碑文より)

軍艦阿武隈慰霊碑

二等巡洋艦
「長良」型の6番艦
大正14年4月15日浦賀船渠において竣工
昭和9年11月15日から佐世保に本籍を移籍

「阿武隈」は、5500トン型軽巡14隻中の一艦。
支那事変時代においては、中国沿岸の警戒・封鎖などに従事。
大東亜戦争起こるや、ハワイ海戦、ラバウル等南方占領戦闘、インド洋作戦、アリューシャン作戦などに従事した。
この間、アッツ沖海戦、キスカ撤収作戦など北方作戦において活躍。
北方作戦に従事すること約2年、第5艦隊旗艦「那智」以下とともに昭和19年6月下旬、横須賀に帰還し、サイパン奪回作戦の準備にかかる。
しかし、その作戦が立ち消えとなったため、8月に呉に回航して次の作戦に備え訓練を実施して待機。
昭和19年10月25日、比島沖海戦においては、第2遊撃部隊に属してスリガオ海峡経由レイテ沖に向かう。
那智」「羽黒」に続いてスリガオ海峡にさしかかった午前3時20分頃、「阿武隈」は左斜後方に雷跡を発見したが、避ける間もなく左舷前部に魚雷が命中。
たちまち艦首は沈下し、速力は10ノット以下となり落伍した。
この時30名が戦死している。
雷撃したのは米魚雷艇第137号であった。
志摩長官は「阿武隈」をそのままにして、残余は「那智」先頭の突入隊形を下令し、26ノットでスリガオ海峡を突破。
時に午前3時30分。
この時、レイテ湾では西村艦隊が全滅の悲運に遭っていた。
午前4時半、レイテ突入困難とみた志摩長官は第2遊撃部隊の反転引揚げを令した。
志摩艦隊は、しばらく南下しているうち、北上しつつある1隻の軽巡を認めた。
さきにスリガオ海峡入り口で落伍した「阿武隈」である。
「阿武隈」は速力が被雷により落ちたが、応急処置によって10ノットに復旧し、応急操舵をもって魚雷艇と交戦しつつ、敵を求めて再び北上を続け、レイテに向かって突入しつつあったのである。
志摩長官は「阿武隈」に反転を命じ、第18駆逐隊にその護衛を命じた。
第1水雷戦隊司令部は、午前7時19分、「阿武隈」から駆逐艦「霞」に移乗し、志摩艦隊は3つの群に分かれて退避運動に移る。
「阿武隈」の一群は駆逐艦「潮」の護衛のもとにカガヤンに向かう。
その後、3度の空襲を受けたがたいした損害はなく、寄港先をカガヤンからダピタンに変更。
午後10時半に到着。
ここで徹夜の応急修理を行い、翌26日の夜明けまでには速力12ノットの発揮が可能となる。
午前6時出港してコロンに向かう。
出港後間もなく単発的な敵機・敵潜の攻撃があったが被害はなし。
9時44分、B−29(引用者=B−24では?)の来襲。
その第1波は10時6分に攻撃を開始。
「阿武隈」は直撃弾1発と至近弾数発を受け、その直撃弾は下甲板前部右舷まで貫通して爆発、また至近弾により高角砲台と機銃台は全滅。
搭載魚雷は引火を恐れて発射管装填中のものは射出処理したが、予備魚雷8本の処分準備中にまたもや爆弾が命中。
その破片により3番、4番砲側の装薬に引火し火災を起こした。
更に他の1弾はカタパルト左舷に命中し、甲板を貫いて後部機械室で爆発。
このため内側推進軸2本が使用不能。
舵もまた故障して操舵不能となった。
被害局限のため後部弾薬庫に注水、後甲板の爆雷も海中に投棄。
艦橋直後の魚雷発射管は弾片により旋回不能となっているところに、装填中の魚雷頭部に引火。
午前10時37分、3本の魚雷の誘爆により、前部機械室および第4缶室は全壊し、在室員は総員戦死。
艦は停止、電信室の火災は艦橋下付近にまで及び大火災。
午前11時頃、中部重油タンクに引火。
11時28分、総員離艦が令せられ、やがて「阿武隈」は左舷後部からその姿を波間に消していった。
時に10月26日午後0時42分、ダピタンの30度37カイリの地点である。
乗組員のうち艦長以下238名が駆逐艦「潮」に救助された。
碑は昭和57年10月24日に建立。
戦死者262名を祀る。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


【長良型】

「球磨」型に続いて建造された本型の最大の特徴は、搭載する魚雷が53.3センチから61センチに拡大したことと、陸上機を最初から搭載したことである。
搭載機は前部艦橋に格納庫を設け、2番主砲上に滑走台を設置して一〇式艦上戦闘機(陸上機)を運用した。
この方法では着艦することはできないが、カタパルトの開発が終わっていないため、航行しながら発艦させるにはこの方法しかなかった。
艦橋を格納庫としたため、艦橋構造は大きな箱形となり、本型の特徴となっている。
しかし、この方法で実際に艦載機が運用されることはほとんどなかった。
また、前型の「球磨」型から、1号機雷と呼ばれる浮遊式連繋機雷が搭載されているが、これは艦隊決戦に先立って敵艦隊の進撃が予想される進路に事前に敷設して、決戦を有利に導こうとするものである。
カタパルトの搭載は昭和7年以降に順次行なわれ、当初は九〇式二座水偵が搭載されたが、その後九四式式三座水偵、九五式二座水偵などが搭載された。
また、第2艦隊の水雷戦隊の旗艦には、九六式、九八式の夜間偵察機が搭載された。
この機体は「夜偵」と呼ばれ、夜間の長時間飛行を目的とした単発の飛行艇形式の偵察機である。

【要目】(長良・昭和9年)
公試排水量:6260トン
機関出力:9万馬力
速力:34.5ノット
航続力:14ノットで5000海里
乗員数:450名
兵装:14cm単装砲×7
    13mm4連装機銃×1
    13mm連装機銃×2
    61cm連装魚雷発射管×4
飛行機:射出機×1、偵察機×1

【同型艦】
長良 大正11年4月21日竣工〜昭和19年8月7日戦没
五十鈴 大正12年8月15日竣工〜昭和20年4月7日戦没
名取 大正11年9月15日竣工〜昭和19年8月18日戦没
由良 大正12年3月20日竣工〜昭和17年10月25日戦没
鬼怒 大正11年11月10日竣工〜昭和19年10月26日戦没
阿武隈 大正14年5月26日竣工〜昭和19年10月25日戦没

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


【阿武隈】

ハワイ海戦には、警戒艦として参加。
アリューシャン作戦には、水雷戦隊旗艦としてアッツ攻略に参加。
昭和18年3月26日、アッツ沖海戦において、他の友軍艦艇と協同して、連合軍の重巡1隻、駆逐艦1隻を撃破した。
レイテ湾開戦においては、志摩艦隊水雷戦隊旗艦として、昭和19年10月25日、スリガオ海峡海戦に参加。
砲撃および米魚雷艇n137号の発射した魚雷1本により損傷を受け後退している時に、ネグロス島沖にて、B−24編隊の爆弾3発を受けて10月26日に沈没した。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


レイテ沖海戦

第2遊撃部隊(司令官・志摩清英中将率いる第5艦隊)は西村艦隊(第3艦隊)の後を追ってミンダナオ海をレイテ泊地に向けて進撃をつづけていた。
同部隊はマニラの南西方面艦隊に所属し、第1遊撃部隊(栗田艦隊)の別働隊である西村艦隊とはその指揮命令系統を別にしていた。
そして陸軍と共同のレイテ逆上陸支援の任務を急遽変更して、レイテ湾突入を命ぜられたこともあって、西村艦隊との間には事前になんら作戦計画の打ち合わせは行なわれていなかった。

第2遊撃部隊は一寸先もわからぬ猛烈なスコールの中を、前方両翼に駆逐艦2隻を配し、旗艦・重巡「那智」を先頭に、2番艦・重巡「足柄」、その後に第1水雷戦隊旗艦の軽巡「阿武隈」、それに駆逐艦2隻がしたがい、単縦陣をつくってボホール島の右岸沿いを航行していた。

スリガオ海峡入口の小さな島影に気がついて旗艦「那智」が右90度一斉回頭の信号を発し、後続の「足柄」「阿武隈」が回頭をはじめるのと、その島影から躍り出た米魚雷艇群が一斉に魚雷を発射したのとはほとんど同時であった。
「足柄」につづいて右旋回をはじめようとしていた「阿武隈」の左舷第1砲塔の真下めがけて魚雷は突進した。
魚雷発射管がならぶ甲板には、一瞬にして吹き飛ばされた兵たちの死体が散乱し、舷側はひきちぎられたように大きな穴をあけていた。
魚雷命中で艦橋からの操舵がきかなくなり、艦橋から後部操舵室へ連絡に走る信号兵や応急処置を急ぐ応急要員が甲板上を右往左往し、かん高い怒声が暗闇の中で乱れ飛んだ。

暗号士・榧木かやのき寛方少尉(慶応大出身)は自分の持ち場の艦橋下の暗号室に急いでもどろうとした。
しかし暗号室へ通ずる電信室のハッチは、爆発の衝撃でひずみが出たせいか、開けようとしてもびくともしなかった。
彼は丸窓から電信室の内部をのぞいてみた。
電信室の中で受信機にむかって坐っている兵たちは、よく見るとみなうつぶせになったまま身動きひとつしなかった。
床一杯にひろげた日章旗の上で、大の字になって寝ている兵の大きく見ひらいた眼は、一点をみつめたまま動かなかった。
眼の前で掌通信長が、当直兵が、つぎつぎに崩れおちるように床に倒れていった。
やがて電信室上部の暗号室にいた司令部付や乗組みの暗号兵たちが、意識をうしなったまま室外にかつぎ出されてきた。
軍医が打つカンフル剤の効もなく、彼らはつぎつぎに眼や口から体水を吹き出して死んでいった。
魚雷が爆発したときに電信室の床に亀裂が生じ、魚雷の一酸化炭素が侵入して電信兵全員がガス中毒死し、電信室の上の暗号室もまたその被害を受けたのだった。

第2遊撃部隊(志摩艦隊)は、全速をあげ敵魚雷艇群を引き離すとふたたび進撃を開始した。
速力10ノットに減じ、たった一艦、残された「阿武隈」はガタガタと不気味な音を立てながら、それでも必死になって僚艦の後を追った。
「本艦は戦闘航海に支障なし。今から突撃する」
艦橋から乗組員全員へ花田艦長の鉄の意志が伝えられた。

志摩艦隊は、西村艦隊の惨状を見て、ここは一応戦線を離脱して再起をはかる以外に方法はないと、突撃を断念し、全軍に反転を命じた。
やがて途中で北上してきた「阿武隈」に出合い、その反転続行を命じた。

(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)

(平成27年7月31日・追記)




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