軽巡 北上 きたかみ


宮城県護国神社

(平成24年6月2日)
 球磨型 軽巡洋艦 北上 (回天搭載時)

基準排水量 5,100トン
乗員 650名
全長 162.15m
全幅 14.17m
出力 35,110馬力
最大速力 23.0ノット
主要兵装 50口径12.7cm連装砲 2基4門
『回天』 8基
他機銃多数

(展示プレートより)
 二等巡洋艦 「北上」 1/100
1945年8月の状態
艦名は川名より採る 艦名符号 J.J.N.A

建造 佐世保海軍工廠 大正10年4月15日
排水量 7,041t
水線長 158.53m
最大巾 17.5m
速力 23k n
武装 12.7cm×2 高角砲2基 25mm機銃×3=12
    25mm機銃×1=31 爆雷18 22号レーダー2 13号=2
    回天8基

(展示プレートより)

【球磨型】

日本海軍は『天龍』型で軽巡洋艦に33ノット以上の速力を与え、水雷戦隊の旗艦として使うことにしたが、米海軍で火力を大幅に強化した『オマハ』級巡洋艦の計画が伝えられた。
このため、より艦形を大型化して火力を強化した『球磨』型が造られることとなった。
艦形の大型化は、水上偵察機の搭載も考慮されたものでもあった。
魚雷は連装発射管4基とされたが、片舷射線は『天龍』型の6本に対して4本に減少している。
主砲は14センチ単装砲7門だが、片舷砲力は6門であった。
本型の常備排水量が5,500トンであることから、本型に続く『長良』型『川内』型の14隻は5,500トン型と総称されることになり、長く水雷戦隊や潜水戦隊の旗艦を務めることとなる。

その後、対米開戦の可能性が高まると、戦力を強化するため、『大井』と『北上』が改造され、4連装魚雷発射管10基を舷側に並べた重雷装艦となった。
この片舷20射線の発射数は駆逐艦25隻分に相当する。
しかし、太平洋戦争が始まると、重雷装艦の活躍する余地はなく、ガダルカナル島への補給が必要になると、発射管の一部を降ろして「大発」を搭載し、高速輸送艦として使用された。
最終的には発射管は両舷に1基ずつとなり、主砲も高角砲に換装された。
さらに本土決戦が近づくと、『北上』は「回天」搭載艦に改造されている。

【要目】(球磨・大正9年新造時)
垂線間長 152.4m
最大幅 14,2m
吃水 4.8m
常備排水量 5,500トン
主機 タービン機関4基・4軸 9万馬力
最大速力 36.0ノット
航続力 3000海里(14ノット)
兵装 14cm50口径砲単装×7、7.6cm40口径高角砲単装×2、魚雷発射管53.3cm連装×4
飛行機 水偵×1
装甲 舷側最大64mm、甲板最大29mm

【要目】(球磨・昭和7年)
公試排水量 7,044トン
水線長 158.53m
水線幅 14.17m
機関出力 9万馬力
速力 33.6ノット
航続力 14ノット=5,000nm
乗員数 450名
兵装 14cm単装砲×7、7.6cm単装高角砲×2、53.3cm連装魚雷発射管×4
飛行機 射出機×1、偵察機×1

【同型艦】
球磨 大正9年8月31日竣工~昭和19年1月11日戦没
多摩 大正10年1月29日竣工~昭和19年10月25日戦没
北上 大正10年4月15日竣工
    昭和16年12月25日 重雷装艦へ改装完成
    昭和20年1月20日 「回天」母艦へ改装完成
    終戦時残存・解体

大井 大正10年10月3日竣工
    昭和16年9月末 重雷装艦へ改装完成
    昭和19年7月19日戦没
木曽 大正10年5月4日竣工~昭和19年11月14日戦没

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)
(参考:『歴史群像2007年10月号別冊付録 帝国海軍艦艇総覧 明治・大正編』)


【5500トン型軽巡】

日本海軍が初めて軽巡をもったのは、大正8年3月30日に佐世保海軍工廠で完成した「龍田」と、同年11月20日に横須賀海軍工廠で竣工した「天龍」の2隻である。
日本海軍では「天龍」型以来、軽巡を水雷戦隊の旗艦として使用した。
この点が、他国の使用法とは全く違うところだ。
水雷戦隊は駆逐艦で構成されるものだが、その編成は「駆逐隊」が単位となる。
駆逐隊は普通、世界中どこの国でも4隻の駆逐艦で1個駆逐隊を編成する。
駆逐隊を指揮するのは司令で、階級は大佐である。(駆逐艦長は少佐が原則)
いざ敵艦隊と大海戦となった場合、4隻一組の駆逐艦だけでは力不足である。
そのために3個~4個の駆逐隊を合せて一つの大駆逐艦集団を作った。
これを「水雷戦隊」と呼ぶ。
従って水雷戦隊とは12隻以上の駆逐艦によって構成される大艦隊で、これを指揮する旗艦が軽巡で、指揮官は「司令官」で階級は少将ということになっていた。
水雷戦隊の旗艦に軽巡をあてたのは日本海軍独特の編制である。
海戦になると、まず駆逐艦同士の戦闘から始まるので、このとき軽巡のもっているすぐれた砲力で相手の駆逐艦を圧倒することができる。
太平洋戦争のときは、軽巡も水偵とカタパルトを搭載していたので、さらに強みを増していた。

日本の軽巡の始祖ともいうべき「天龍」型は艦形が小さく、いわば実験艦的な性格をもって造られたので、その後に出現した駆逐艦の速力が増したため、どうしても一回り大きな艦で、なお高速の軽巡が必要となってきた。
そこで、「天龍」型の優れた構造と特色を生かし、これを拡大改良した本格的な軽巡の5500トン型が出現したのである。
このタイプには三種類の艦型があり、「球磨」型(5隻)、「長良」型(6隻)、「川内」型(3隻)の合計14隻が建造された。
当時、日本海軍では八八艦隊の大計画があり、随伴する軽巡が多数必要とされていた。
軽巡の率いる水雷戦隊に主力艦隊を護衛させ、同時に偵察と、前衛隊としての強力な攻撃力が必要だったのである。

水雷戦隊の旗艦として要求される条件は、司令部施設があること、強力な通信能力、駆逐艦に劣らぬ高速力、長大な航続力、敵の駆逐艦を撃破するための砲と魚雷発射管の装備、航続力の大きい水上偵察機(水偵)の搭載、指揮下の駆逐艦に対する補給能力などがあげられる。
これらの条件を満たす軽巡として「球磨」型が設計された。
艦型は基本的には「天龍」型を踏襲したもので、艦首はスプーン型のカッター・バウ(ボート型艦首)になっている。
駆逐艦に劣らぬ36ノットの高速力を発揮するため、船体の長さは幅に比して著しく長くされた。
機関は、当時の軽巡にしては画期的ともいえる9万馬力である。
船体の防御は極めて軽装甲で、直撃弾を受けると貫通して外側に突き抜けてしまうような装甲で、弾片防御程度の効果しかなかった。
兵装は単装14センチ砲7門を上甲板にまんべんなく配置している。
しかし、3番、4番の砲が両舷側に配置されているので、片舷の砲戦力は6門に減じていた。
魚雷発射管は、53センチ連装4基8門で、分散配置されているのが特徴である。

この「球磨」型の中で、大きな変貌を遂げたのが「北上」と「大井」である。
太平洋戦争が始まる直前の昭和16年1月に、この両艦だけを本来の軽巡の任務から外し、秘密裡に上甲板に61センチ4連装発射管10基40門をズラリと並べた重雷装艦に改装したのである。
これは、日米の艦隊決戦のおりに、主力艦同士が激突し、砲戦の応酬が繰り返されている間隙をぬって敵に肉薄し、両艦がもっている合計80本の酸素魚雷の網をかぶせて、一挙に米戦艦群を撃破しようという発想から生まれたものであった。
ちなみに、雷装は40本のみで次発装填装置は搭載していなかった。
片舷に4連装5基を並べるために主砲3門を撤去し、艦首の2門と前檣両舷の2門だけにした。
また、第1煙突の両舷にあった8センチ単装高角砲2基と7.7ミリ単装機銃を撤去し、かわって25ミリ連装機銃2基4門を装備した。
この改装工事が終わったのは昭和16年12月25日で、すでに太平洋戦争が始まっていた。
かねての構想通り、「北上」と「大井」は2隻で第9戦隊を編成し、主力艦のいる第1艦隊に編入された。
しかし、主力艦の決戦はついに起こらず、せっかくの重雷装も何の役にも立たなくなった両艦は、その後、発射管の一部を降ろして、おりから激烈になってきたソロモン方面への高速輸送艦となり、補給作戦に従事した。
その後、「北上」は人間魚雷「回天」を搭載する母艦に改装されたが、実際に出撃する機会がなく、そのまま終戦を迎えることになった。

(参考:佐藤和正 著 『巡洋艦入門』 1999年7月第4刷 光人社NF文庫)




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