顕如 けんにょ

天文12年1月7日(1543年2月20日)(※1月6日の説あり)〜文禄元年11月24日(1592年12月27日)


本願寺11世。
父は第10世証如。
母は権中納言庭田重親の娘。
天文23年(1554年)に得度。
永禄2年(1559年)門跡に列する。
元亀元年(1570年)〜天正8年(1580年)、織田信長との間に石山合戦を展開。
正親町おおぎまち天皇の仲裁で和議し、石山を退き紀伊国鷺森、ついで和泉国貝塚に移り、天正13年(1585年)豊臣秀吉の命により石山に帰る。
天正19年(1591年)、秀吉から京都堀川七条に寺地を与えられる。
顕如の死後、教団内で石山本願寺退去時の信長への対応をめぐって長男の教如(強硬派)と三男の准如(和睦派)が対立。
のちに、本願寺は西本願寺(准如)と東本願寺(教如)に分裂した。


石山本願寺推定地




石山本願寺推定地
(大阪市・大阪城




(平成20年6月17日)

石山本願寺推定地

明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。
その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。

大阪市教育委員会

 (説明板より)


【信長と顕如の11年戦争(石山戦争)】

元亀元年(1570年)に始まる石山いしやま本願寺十一世法主ほっす・顕如と織田信長との11年に及ぶ「石山戦争」は宗教戦争ではない。
信長が顕如に要求したのは大坂の要衝にあった石山本願寺(現在の大阪城附近)の明け渡しであって、一向いっこう宗信徒の改宗ではなかった。
信長は一向一揆を天下の平和を乱す反乱とみなし、一揆に加わらない寺は宗旨が一向宗(真宗)であっても存続させるが、一揆に参加した者は徹底的に追及し、処刑すると宣言し、実行している。

顕如ら一向宗側からすれば、蓮如開山以来の石山本願寺は、単に一向宗の政治的・軍事的拠点だったわけではない。
それは一種の聖地で、エルサレムから立ち退きを要求されたのと同じである。
顕如は信長を「法敵」と呼び、諸国の信徒に一揆を促す檄を飛ばした。
そして一揆の参加者には免罪と極楽往生を保証し、不参加者には破門を迫っている。

姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破った信長は、一気に石山を落としにかかった。
しかし、紀伊から駆け付けてきた根来ねごろ・雑賀さいが衆の3千挺ともいわれる鉄砲隊の激しい銃撃に阻まれているうちに、顕如の檄に応じて近江・伊勢長島など各地で一揆が勃発した。
そのため、さすがの信長軍も撤収せざるを得なかった。
顕如の戦略の勝利である。

その後、信長はまず各地の一向一揆の平定に全力を尽くす。
とくに近江や伊勢長島での一揆退治は残忍を極めた。
一揆側が降伏を申し出ても受け付けず、「撫なで切り」「根切り」「干殺し」を繰り返し、老若男女を問わず、皆殺しにしたのである。

天正4年(1576年)4月、信長軍は再度、石山本願寺攻撃を開始した。
長さ22m、幅13m、鉄板を張り付け、3門の大砲を搭載した大船7隻が現れ、大坂湾を制圧したのはこの時である。
以来、約1年の「干殺し」作戦が続き、ついに顕如は大坂を明け渡した。
勅命講和の形式がとられたので、地方一揆の時のような皆殺しが行なわれなかったのがせめてもの幸いだった。

(参考:大澤正道 著 『文明の流れを決した世界戦争史の真相と謎』 日本文芸社 平成8年8月第2刷発行)

(令和2年7月4日 追記)




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