騎兵第20連隊
(捜索第16連隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
姫路 明治38年 第14方面軍 バギオ(フィリピン・ルソン島)

騎兵第20連隊は、明治38年7月に姫路で編成され、日露戦争中に新設された第16師団に設置されました。
編成された翌月の8月8日に軍旗を授与され、日露戦争に出動しました。
兵営は京都の深草にありましたが、姫路で編成されて満洲に出動し、戦後も満洲に残り、明治40年に内地に帰還後、深草の兵営が落成してこれに入ったのは明治41年11月になってからでした。


騎兵第20連隊跡の碑 騎兵第20連隊跡の碑
(京都市伏見区深草)
住宅街の中に建っています。 騎兵第20連隊跡の碑

戦歴

日露戦争末期に出動したが、1ヵ月後に休戦となる。
大正8年〜10年、満洲守備、シベリヤ出兵。
昭和9年、満洲事変に出動。
昭和12年、支那事変に出動。
昭和16年、捜索第16連隊に改編、フィリピン攻略戦に出動。
昭和19年、第16師団主力のレイテ島転進にあたり、輸送の関係からルソン島に残置され、第14方面軍直轄としてバギオで敢闘し終戦を迎える。


留守部隊では、騎兵第120大隊捜索第53連隊が編成されています。


慰霊碑
『慰霊』の碑
騎兵第20聯隊
騎兵第120大隊
捜索第16聯隊
捜索第53聯隊

(京都市・京都霊山護国神社)

(平成16年4月2日)

碑文

是れ騎兵第20聯隊出身各部隊並に師團衛兵騎兵戦歿者慰靈の碑なり。
仰も騎兵第20聯隊は明治38年姫路に於いて編成され直に日露戰爭に参加し、以後京都深草に移設、深草桃山長池饗庭野青野ケ原各演習場にて訓練を重ね、シベリヤ出兵満州事變を經て昭和12年に支那事變起るや北支に出撃し、更に徐州南京武漢の作戦攻略に赫々たる戰果を収めたり。
同13年騎兵第120大隊(嵐)は中支に、同16年太平洋戰争に當り捜索第16聯隊(垣)はフィリッピン方面に進攻し、同18年捜索第53聯隊(安)はビルマ方面へと、各々幾多辛酸を嘗め、縦横兵馬の任を完うし、武勲枚舉に遑なし。
mその間尊き犠牲も亦少からず、實に九百有餘柱に及ぶ。
今生存する我等、相寄り相偲び、永く偉烈を讃へ、静に冥福を祈り 茲に此碑を建つるものなり。

昭和49年11月 慰靈碑建設有志一同


支那事変における騎兵第20連隊

昭和12年8月に上海に出動し、上海会戦を初めとして南京攻略戦に参加。
翌13年には北上して河北作戦に参加。
徐州会戦においては徐州西方で敵の退路遮断、残敵の掃蕩に任じ騎兵の特性を発揮した。
武漢作戦では再び南下して、揚子江北方地区の最前方を敵主力軍を追撃して京漢線西方の応城より徳安の南方に突進し、至るところで敵を撃破して退却する大軍の退路に迫るという目覚しい活躍をしたが、兵力僅少のため敵を捕捉撃滅することは出来なかった。
翌14年5月、中支で行われた襄東会戦では、騎兵第4旅団長・小島吉蔵少将指揮の軍騎兵団に属し、大包囲作戦における騎兵団として敵の後方に向かって放胆果敢なる行動で偉大なる戦果を挙げ、軍司令官よりその行動を賞賛され感状を授けられた。
その後、昭和14年7月に内地に帰還した。


大東亜戦争における捜索第16連隊

捜索第16連隊は騎兵第20連隊が改編されたものである。
改編時の連隊の編成は連隊本部、乗馬1中隊、装甲車1中隊。
大東亜戦争が開始されると同時に、師団主力と共に昭和16年12月に比島(フィリピン・ルソン島)のリンガエンに上陸し、マニラに進入した。
連隊長は松田哲人中佐、マニラ進入後に日比知中佐に代わっている。
大東亜戦争出動時の連隊の編成は乗馬はなく、軽装甲車2中隊、自動車2中隊。
ついで、師団主力と共にミンダナオ島に前進し、残敵の掃蕩、敵潜水艦基地並びに謀略拠点の覆滅に従事。
昭和19年、第16師団主力がレイテ島に転進するにあたり、船舶輸送力の関係上、ルソン島に残され、爾来師団主力と離れて第14方面軍直轄となってマニラ西方地区に位置し、次期作戦に備えて教育訓練に邁進した。
昭和20年、敵がルソン島に上陸するや、歩兵1個大隊を配属されて日比支隊として第14方面軍直轄となり、マニラ東方地区に行動し、方面軍司令部が北部ルソン島に転出するにあたってはこれを掩護しつつ共に北方に移動し、最後まで方面軍司令部と行動を共にして敢闘し遂に終戦を迎えた。


慰霊碑



慰霊碑
(愛知県幡豆郡幡豆町・三ヶ根山頂・比島観音霊場





(平成20年4月16日)

碑文

捜索第16聯隊は昭和16年4月京都騎兵第20聯隊を機械化に改編し創設されたり
太平洋戦争勃發と同時に比島に出動昭和16年12月アチモナンに上陸しマニラ一番乗りを遂げ続いてコレヒドール島攻略戦に参加す
尓後2年有余に亘り南部ルソンを警備せり
昭和19年米軍の反攻に当りては第14軍の直轄となりバギオ市に転進し山岳戦に幾多の辛酸を嘗め重責を全うせり
上陸以来其の武勲は枚挙に暇なし雖も反面490余柱の尊い犠牲を余儀なくされたり
今生存者相寄り往時を偲び武勲を讃え冥福を祈り茲に此の碑を建つるものなり

昭和51年8月
捜索第16聯隊 有志一同


戦没者慰霊碑



垣 第16師団捜索第16連隊
戦歿者慰霊之碑

(フィリピン共和国ルソン島バグサンハン・比島寺)




(平成18年11月2日)
比島寺



比島寺

(フィリピン共和国ルソン島・バグサンハン)


旅日記参照)


(平成18年11月2日)

【捜索第16連隊】

昭和16年7月(?)〜昭和17年8月 マリクボイ、タヤバス、ルクバン、コレヒドール戦に参加
昭和17年4月〜昭和17年6月 第4中隊はミンダナオ
昭和17年8月〜昭和19年7月 バタンガス
昭和19年12月〜昭和20年1月 バギオ転進
昭和20年3月〜4月 日比支隊を編成、テボ、イリサン戦に参加
昭和20年5月 アトック
          戦車隊はインチカク
昭和20年8月15日 32キロ〜終戦

(参考:村田三郎平著 『最前線爆雷製造部隊』 風媒社 1977年第1刷)

(平成23年10月22日追記)


日本騎兵史(上巻)(下巻)
萠黄会  昭和38年発行  非売品


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