編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
豊橋 | 明治42年 | 騎兵第4旅団 | 北支 |
隊歴(碑文)
騎兵第26聨隊は、騎兵第4旅團内にあって明治42年4月1日豊橋市に創設、同年9月23日軍旗を親授された。
以来二十有5年間衛戍勤務に服してしたが、昭和7年9月満洲事変のため出動の命令下るやその真価を発揮し、他の騎兵部隊が逐次機械化部隊に編成換せられたるにも不拘、終戦に至るまで終始乗馬騎兵として其の使命を完遂した。
即ち北は酷寒の満洲及び北支那に、南は炎熱の中支那に転戦し大小2百数十回の作戦戦闘に参加し、卓越せる指揮のもと常に慧敏果敢な旅團騎兵の傅統と精華を遺憾なく発揮し、感状3回、賞詞2回を授与された。
特に昭和20年3月の予鄂(老河口)作戦に於て敵中3百余粁、敵機の攻撃と泥濘河川の地障を克服しつつ六昼夜に亘り、夜間連続挺進し堅塁馬窟山と在支米空軍基地老河口飛行場の先陣を全くし、不滅の功績を挙げ、世界戦史にその名をを止めた。
なお昭和17年以降の聨隊の現役兵は岡山県出身者が主力であり、在隊中鋒鏑に斃れ或は宿痾に冒され、一死以て君国に殉じた戦友並びに軍馬に対し謹んで深くご冥福を祈る。
騎兵第4旅団 |
騎兵第26連隊 |
騎兵第26連隊の隊門・歩哨舎・連隊跡の碑 (愛知県豊橋市王ヶ崎おがさき町・王ヶ崎団地内) (平成17年4月2日) |
「騎兵第26連隊跡」の碑 (平成17年4月2日) |
碑文(1)
騎兵第4旅団
騎兵第26聨隊
明治42年4月 1日 創設
明治42年9月23日 軍旗拝授
昭和21年5月18日 復員解隊
戦歴
昭和 7年10月~昭和13年 7月 満洲事変
昭和13年 8月~昭和16年11月 支那事変
昭和16年12月~昭和20年 8月 大東亜戦争
昭和46年軍旗拝授記念日
騎兵第26聨隊会建之
碑文(2)
創立以来在隊者将兵数
豊橋駐屯時代 明42. 4~昭 7. 9 約7000名
満洲事変参加 昭 7.10~昭14. 7 約3000名
支那事変参加 昭14. 8~昭16.11 約3500名
大東亜戦争参加 昭16.12~昭20. 8 約4000名
計 約17500名
祖国のため殉じた戦(病)死者数 440余名
聨隊が従事した戦闘回数 230回
碑文(3)
聨隊が受けた賞詞感状
昭和14年 4月 南昌攻略作戦 賞詞授与
昭和14年 7月 ■東会戦 感状授与
昭和16年 6月 中原会戦 賞詞授与
昭和18年 9月 ■号作戦 感謝状授与
昭和19年11月 一号作戦 感状授与
昭和20年 3月 老河口作戦 感状授与
此の碑の建設に直接協力した人員数 1000名
※ ■は判読できなかった文字です。
碑文(4)
軍旗遺品合祠について
明治42年9月23日明治天皇から親授された軍旗は 聨隊の象徴として戦中嚇々の武勲を樹てたが 昭和20年8月25日北支河南省■城で奉焼された
奉焼された灰の一部を秘かに持ち帰った者数名が奉持していたので 靖国神社に奉納すると共に茲にこれを合祠することにした
昭和63年4月28日
騎兵第26聨隊会
※ ■はパソコン上で表示不可能な文字です
碑文(5)
愛馬の鬣等埋没
我が聨隊の機動力の源泉として戦場を雄飛した軍馬のうち最後までその役に盡した九百六十余頭は戦後異国にありて一頭だに祖国に帰ることはなかった
幸いに復員者数名が愛馬の鬣を持ち帰り保存して居られたので それを集め 茲に埋没して愛馬に対し限りない感謝と親愛の情を披瀝しその霊を悼むものである
昭和63年4月28日
騎兵第26聨隊会
王ヶ崎団地の中の公園内にあります。 少しわかりづらい場所ですが、目印はこの林のような木々です。 (平成17年4月2日) |
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