騎兵第3連隊

編成地 設立時期 軍旗拝受
名古屋 明治25年 明治29年

騎兵第3連隊跡碑



「騎兵第3連隊跡」碑
(愛知県名古屋市・名古屋市役所)





(平成16年4月16日)

碑文

騎兵第3聯隊は明治25年11月創設以来昭和3年3月守山に移転する迄此の地に駐留せり
茲に往時を偲び明治百年を記念し之を建つ

昭和42年4月
騎三会

名古屋市役所



名古屋市役所
(愛知県名古屋市中区三の丸3−1−1)





(平成20年4月16日)

騎兵第3連隊

明治25年に設立されたが、日清戦争までは大隊編成だったので軍旗を授与されず、日清戦争直後、騎兵連隊に改編され、明治29年11月20日に軍旗を拝受。
兵営は当初、名古屋城の近くにあったが、大正14年の軍備整理により、守山にあった歩兵第33連隊が三重県の久居に移ったので、その跡に移駐した。
編成は日清戦争までは2個中隊編成。
後に3個中隊編成の連隊に改編されたが、大正11年の軍備整理によって2個中隊編成に縮小された。
大正14年、騎兵第4旅団が第3師団長の隷下に入ると共に、平時は騎兵第4旅団長の隷下に置かれた。
その後、捜索連隊に改編されることもなく最後まで騎兵連隊として残るが、昭和19年には乗馬を引き上げられ徒歩部隊となり終戦を迎えた。

歴代連隊長
第 1代(大隊長) 少佐 田村 久井 日清戦争 第11代 中佐 中畑 信人  
第 2代(連隊長) 中佐 阿野 春庵   第12代 飯島 豊甫  
第 3代 白石 千代太郎   第13代 坂本 謙吉
第 4代 大尉 長谷川 戌吉   第14代 大佐 浜田 陽児  
第 5代 大佐 中山 民三郎 日露戦争  第15代 中佐 山本 寛 満州事変
第 6代 中佐 小崎 正満   第16代 大佐 泉名 英  
第 7代 植野 徳太郎   第17代 中佐 星 善太郎 支那事変  
第 8代 大島 広吉 シベリア事件 第18代 宇島 良雄
第 9代 葛岡 正次   第19代 大佐 宮崎 次彦
第10代 原田 宗一郎   第20代 少佐 伊藤 鉄蔵

戦歴

(日清戦争)
騎兵第3大隊として、山県有朋大将の第1軍に属して朝鮮に出動。
平壌の戦闘を始めとして満洲に入り、九連城、鳳凰城の戦闘に参加して捜索・警戒・連絡に任ずる。
のち、海城に進出し、明治8年3月に田庄台の攻撃に参加し功績を挙げる。

(日露戦争)
明治37年5月、第2軍に属して遼東半島の塩大澳に上陸。
一部を金州南山の攻撃に参加させ、主力は北方で軍の背後の警戒に任じる。
次いで軍が反転して遼陽方面に向かって北進するや、連隊は師団の前方に前進して警戒に任じ、得利寺の会戦にあたっては軍の右翼兵団であった師団の最右翼にあって優勢なる敵の攻撃を受けて敢闘し、これを撃退。
第2軍戦勝の基を開き感状を授与された。
その後、概して騎兵第1旅団に属して行動。
遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦における大房身の戦闘に参加。

(シベリア事件)
大正7年秋、ザバイカル州のチタ、イルクーツク方面に出動。
黒竜州の背後を遮断してウラジオ派遣軍の沿海州の平定を容易にして功績を挙げる。
翌年、騎兵第5連隊と交代して内地に帰還。

(満洲事変)
昭和10年に出動。
既に満洲の動乱はおおむね終息。
ハルピンに駐屯して治安警備に任じ、翌年内地に帰還。

(支那事変)
昭和12年7月、支那事変勃発直後に動員され、上海方面に出動。
上海を攻略して追撃となるや、各師団の騎兵隊を集めて臨時集成の騎兵団が編成され、連隊はこれに編入され南京に向かって追撃。
途中、蘇州河畔に退却する敵を壊滅。
南京郊外では約2個師の優勢なる敵の反撃を撃退し、軍の南京攻撃を容易にして騎兵の面目を発揮した。
昭和13年、北上して徐州会戦に参加し、次いで反転して武漢攻略戦に参加。
昭和14年、襄東会戦。
昭和15年、宣昌作戦。
昭和16年、長沙作戦、
昭和17年、浙江作戦。
昭和19年、湖南作戦、湘桂作戦。
この時には、連隊は乗馬を引き上げられて徒歩部隊となっていたが、騎兵の特性を重視されて重要な任務に使用され、軍司令官より感状を授与される。
昭和20年、予皖作戦に参加し、鎮江において終戦となり軍旗を奉焼する。

(参考:『日本騎兵史』)


騎兵第3連隊献木



騎兵第3聯隊献木
愛知県護国神社

平成7年8月15日 騎三会



(平成20年4月16日)

南京攻略戦

南京は中山門などが陥落したと言っても、支那軍は日本軍に降伏してこなかった。
特に、紫金山付近にいた「教導総隊」などは、脱出のため、死に物狂いで、逆襲してきたのである。
紫金山を中心に、東の湯水鎮とうすいちん(南京より東に約25キロ)から、西の和平門や太平門に至るまで、「数里の長きに亘って」激戦と、死闘と、投降が続いた。

この敗残兵は、脱出に血眼であった。
それだけに危険であった。
その典型的な一例を挙げるならば、後に述べる仙鶴門鎮(南京より東に20キロ)の集成騎兵隊の場合であろう。

『騎兵第三連隊史』によれば、その第一波は12月12日24時に襲ってきた。
仙鶴門鎮にて、第159師(支那の師団)を基幹とする約2万の支那兵が「無統制」のまま、「突撃ラッパを吹奏し雪崩を打って殺到」してきたのである。
そのため、「彼我入り乱れての乱戦苦闘」となり、両軍の「死闘」は13日9時まで続いてようやく終った。
敵軍の残した遺棄死体3千余の中には、第159師・副師長・程中将の戦死体も発見された。
他方、騎兵第3連隊の犠牲も、上海戦以来「最高に達した」のである。
従って、城門の陥落した13日といえど、紫金山周辺の日本軍部隊が増援を盛んに請うてくるほど、熾烈な死闘が展開されていたことがわかる。

(参考:東中野修道 著 『「南京虐殺」の徹底検証』 展転社 平成10年8月 第1刷発行)

(平成31年4月4日 追記)




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