騎兵第6連隊

編成地 設立時期 軍旗拝受
熊本 明治22年 明治29年

日清戦争前に熊本に設置された九州男児の騎兵隊として精強を誇る。
明治22年に設立した時は大隊編成だったので軍旗は授与されていなかったが、日清戦争後に連隊となり明治29年に軍旗を拝受。
騎兵の機甲転移にあたっても捜索隊(捜索連隊)には改編されず最後まで騎兵連隊として軍旗を捧じて活動した。
編成は日清戦争前の大隊は2個中隊編制、戦後補充隊を統合して3個中隊編制の連隊に改編したが、大正11年の軍備整理により2個中隊編制に縮小された。

日清戦争では、第6師団は大山巌大将の第2軍に編入されたが、作戦の都合上、混成旅団のみが出動。
この混成旅団に騎兵1個中隊(長:浅川敏靖大尉)が属して出動し、旅順攻略にあたっては秋山好古少佐の騎兵第1大隊に属して軍直轄の捜索騎兵隊となり、偉功を樹てた。
日露戦争では、奥保大将の第2軍に編入されて遼東半島に出動。
遼陽会戦では騎兵第1旅団に属して敵のミスチェンコ大騎兵団に対してその行動を封じ大なる功績をあげる。
その後、黒溝台会戦、沈且堡の戦闘に参加。
大正12年から2年間、満洲駐剳部隊として公主嶺に駐屯。
昭和3年の済南事変には1個小隊を第6師団の出動部隊に属して派遣。
昭和7年末、満州事変に出動し、奉天西南方地区で粛正に従事。
翌年の2月、熱河作戦に参加し、赤峰西方地区に前進して残敵を掃蕩し熱河省の平定に貢献。
同年10月、第6師団主力と共に内地に帰還。
昭和12年7月、北支事変勃発で動員され出動。
北京攻撃、石家荘の戦闘などに参加し、北支に活動したが、その後、南下して中支軍の隷下に入り、上海会戦、南京攻略戦、武漢攻略戦に参加。
昭和15年、各師団騎兵連隊が逐次捜索連隊に改編されたが、依然乗馬騎兵連隊として残る。
昭和16年、揚子江沿岸地区で第1次、第2次長沙作戦に参加し、騎兵の特性を発揮して俊敏果敢に行動。
師団長より大いなる信頼を受けて大いにその名声を挙げる。
昭和17年11月、第6師団は中支よりブーゲンビル島に転進。
この転進にあたり馬は全て中支に残したので、騎兵第6連隊は中支に残り師団各部隊の残した馬の管理に当たることになる。
しかし、師団長・神田正種中将はかねてから騎兵連隊を信頼し、ことに連隊長・越沢六郎大佐に対する信任が厚かったので、ブーゲンビル到着後特に騎兵連隊を招致された。
よって連隊は軍旗を捧じ徒歩2個中隊をもって師団を追及しブーゲンビル島に前進。
同地到着後、歩兵・砲兵の部隊の配属を受け任務につき、そのまま同地で終戦を迎え、軍旗を奉焼した。


献木



献木 騎兵第6連隊鹿児島戦友会
(鹿児島市・鹿児島県護国神社

昭和55年4月12日植樹



(平成19年3月30日)

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