騎兵第8連隊

(のち捜索第8連隊に改編)

編成地 編成時期 改編時期
弘前 明治32年 昭和16年

東北健児、東北の駿馬をもって編成。
日露戦争では永沼挺進隊として勇名を轟かせ、大東亜戦争(太平洋戦争)では比島(フィリピン)に出動して最後まで敢闘し赫々たる戦歴を有する。
また、遊佐幸平少将をはじめ、有名なる馬術家を排出したことを誇りとしていた。

編制は2個中隊で、平時は騎兵第3旅団に属していた。
のち昭和16年に捜索第8連隊に改編され軍旗を奉還した。
捜索第8連隊の編制は、当初は連隊本部と乗馬1個中隊、装甲車1個中隊。
昭和16年の関特演にあたり、乗馬1個中隊、乗車2個中隊、戦車1個中隊、自動車1個中隊に増強。
その後縮小され、昭和19年8月、比島に出動した時は戦車も自動車も無く、連隊本部と徒歩1個中隊だった。
しかし、比島上陸後、歩兵・砲兵を増加配備されて強化された。

日露戦争においては第8師団は北海道の第7師団と共に北辺の護りとして当初内地に控置されたが、明治37年11月に出征。
連隊長・永沼秀文中佐はかねての抱負に基づき敵の後方深く挺進行動を実行し、敵に極めて甚大な脅威を与えた。
講和条約の際、露国は挺進隊が新開河の鉄橋を占領して爆破したことを認めて、長春以南の鉄道(満鉄)を我が国に譲渡したのであって、これはあまり広く知られていないが実に偉大なる功績であった。
挺進隊に加わったのは連隊全部ではなく、永沼中佐を長とする連隊本部と及川虎彦の指揮する選抜1個小隊のみで、残余は黒溝台にあって、騎兵第5連隊長・種田錠太郎中佐を長とする種田支隊にあって行動した。
挺進隊が帰還したのは奉天会戦後で、連隊は秋山支隊に属して昌図西南地区に進出。
のちに秋山好古少将を長とする騎兵団に編入されて休戦に至った。
その後、連隊は明治45年より大正3年まで朝鮮守備として駐屯。
大正11年より同年10月までシベリアに出動したが、シベリア派兵の最後であったので、作戦行動としては見るべきものはなかった。

満州事変には事変勃発の年の昭和6年11月、第8師団で編成された鈴木美通少将の指揮する混成旅団に戒田達一大尉の指揮する1個中隊を属して出動。
翌7年4月、連隊主力が師団主力と共に出動した。
昭和8年2月、熱河作戦、師団主力の長城作戦に参加。
熱河省南部の警備に任じ、翌昭和9年、内地に帰還した。
連隊長は三宅忠強中佐であったが、3月の長城作戦において警戒中、友軍飛行機の誤爆によって重傷を負い入院、女屋巖少佐が代理した。

昭和13年再び満洲に派遣され、東部国境付近に駐屯して警備に任じる。
昭和16年、捜索第8連隊に改編され、次いで関特演(対ソ作戦のための関東軍特別演習)によって応急動員を下令されて編制を増強されたが、昭和18年復員して旧に復し、昭和19年8月、師団主力と共に比島に出動した。

連隊は有名な馬術家を排出した連隊で、大正時代の遊佐幸平少将をはじめ、城戸俊三中佐、吉田重友大佐と相次ぎ、我が国における第1回オリンピック馬術出場選手中3名はこの連隊出身将校である。
これらの将校はその後も監督または選手として出場し、我が国馬術の権威とされている。

(参考:佐久間亮三編纂 『日本騎兵史(下巻)』 萠黄会 昭和38年発行)


騎兵第8連隊の跡

騎兵第八聯隊之跡(標柱)
(青森県弘前市大字松原東3−2−9 CO・OP松原店)

騎兵第八聯隊創立
明治廿九年十一月五日
騎八会有志
昭和57年11月5日建立


(平成21年11月2日)

歴代連隊長
騎兵第8連隊 第 9代 中佐 楠本 小二郎  
第 1代 中佐 藤縄 三九郎   第10代 山岡 潔  
第 2代 永沼 秀文 日露戦争  第11代 三宅 忠強 満洲事変
第 3代 南   璋   第12代 斉藤 義次  
第 4代 太田黒 竜亮   第13代 村上 亮  
第 5代 多田 捨巳   捜索第8連隊
第 6代 本多 重平 シベリア出兵  第14代 中佐 小谷 一雄 支那事変・満洲派遣
第 7代 幸村 銀六   第15代 堀  彬 満洲駐屯
第 8代 佐藤 鉄一   第16代 少佐 箕田 治六 大東亜戦争・比島出動

比島における奮闘

連隊は満洲の綏陽にあって、昭和19年8月、第8師団(杉兵団)主力と共に比島に出動。
兵力は本部と徒歩1個中隊、僅かに220名であった。
連隊長は箕田治六少佐。
比島上陸後、逐次増強されて、本部、2個中隊、重火器1個小隊となり、更に歩兵1個大隊、独立歩兵砲中隊、迫撃砲1個中隊、工兵1個小隊を配属された。
連隊はマニラに上陸後、マニラ西南方のバタンガス方面の警備に任じた第8師団の隷下にあった。
10月、敵は大挙してレイテ島に進攻したが、第8師団はレイテには使用されず、連隊は依然としてルソンにあって、ラグナ州ロスバニオス、サンパウロ、タナを拠点として、対空作戦の準備と共に、親日土民軍ガナップ党約400名を糾合して遊撃隊を編成指揮し、ラグナ湖周辺の親米ゲリラの討伐に任じた。
レイテ島失陥に伴い、第8師団はルソン島南岸における遊撃作戦の企図を中止し、マニラ東方山地に移動。
連隊も12月末、警備地を撤収してマニラ東方モンテンルパ川上流に転進し、第8師団長・横山静雄中将を司令官とする第41軍の予備隊となり、第二線陣地の構築並びに兵用地理の調査に従事した。
その間、マニラが敵に奪回され、3月、軍は第一線陣地を撤収して後退。
敵はこれに追尾してきたので、連隊は集成中隊約80名を敵中に挺進潜入せしめ、果敢なる奇襲斬り込みを反復し、敵の火砲、車輛を破壊し、機関銃を鹵獲し、また有力なる情報を収集して軍ならびに師団の作戦を容易にし、功績が大であったので軍司令官より賞詞を授与された。
4月、連隊は小林兵団と野口兵団との中間の軍の中核拠点を占領して、約2ヶ月にわたり昼夜間断なき砲爆撃下に敵の攻撃を阻止。
その間、野口兵団の右翼正面陣地に侵透してくる敵の側面に対し、前後6回にわたり夜間斬り込みを反復して遂に敵を撃退し、軍司令官より感状を授与された。
5月下旬、軍が戦勢挽回のため最後の反撃作戦を敢行。
連隊は全力をもって出撃し、逐次敵の拠点を奪取したが、軍全般の攻撃が進捗せず、軍命令により旧陣地に復帰せしめられた。
その間、連隊は兵力の大半を失ったが、出撃の留守中、集積しておいた糧食を友軍敗残部隊に奪われたなどのこともあり、連隊の戦力は半減した。
6月、軍は第二線陣地の拠点もほとんど失い、残存兵力を第三抵抗地帯に移動。
軍の組織ある作戦活動はおおむねこの頃をもって終わった。
連隊はラグナ湖東岸地区を後退する輜重兵第8連隊を掩護すべき軍命令を受け、陣地の防備を重砲兵隊(砲を有せず)に譲って転進。
この転進中、軍の背後に迂回侵入してきた敵騎兵第2師団の先頭と遭遇したので、これを突破して第三線の新陣地を占領し、軍の転進を掩護して大なる功績があった。
だが、この頃には、飢餓と病魔のために落伍者が続出し、戦闘に参加したものは僅か60名に過ぎなかった。
その後、敵の行動は活発ではなく、我が軍もまた糧食・医薬品が絶えてほとんど戦力なく、約2,000メートルを隔てて敵と相対峙しているうち、遂に終戦となった。
連隊の兵力は当初は220名であったが、生存して帰還したものは僅かに36名であった。

(参考:佐久間亮三編纂 『日本騎兵史(下巻)』 萠黄会 昭和38年発行)

高台から見たボソボソ地区 マニラ東方山地




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