平成23年2月7日
元応元年(1319年)(?)〜文中2年/応安6年11月16日(1373年12月29日)(?)
熊本県菊池市・菊池公園でお会いしました。
南北朝期の肥後国の武将。
父は菊池武時。
前当主・菊池武士たけひとが後継者として指名した乙阿迦丸おとあかまると同一人物とする説もあるが、別人の可能性が強い。
貞和元年/興国6年(1345年)合志幸隆に占拠された菊池氏本拠・深川城の奪還に成功。
実力を背景に一族から惣領の地位を承認される。
貞和4年/正平3年(1348年)征西将軍宮懐良かねよし親王を肥後に迎え、これに従う。
九州探題一色範氏や畠山直顕、大友氏時、少弐頼尚を相次いで撃破し大宰府を占領、ここに征西府移し、九州の覇権と菊池氏の全盛期を築く。
しかし、新探題今川了俊の下向後は劣勢となり、筑後国高良こうら山に退却。
『菊池氏系図』では応安6年/文中2年(1373年)11月16日没とあるが確証はない。
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菊池武光公像 (熊本県菊池市隈府・菊池公園) (平成23年2月7日) |
【碑文】
菊池氏はもと藤原氏の出
1070年藤原鎌足15世の裔則隆この地を管領し菊池の姓を立つ
爾来24代462年 連綿として王事励み 清廉にして信義に篤く 邪に組せず断じて変節しない一族の士風は そのまゝ凝って菊池人士の精神文化を創造した
世にこれを菊池精神と言う
中でも15代菊池武光は南北朝の乱れに際し 誓って南朝の正統を信じ 1359年後醍醐天皇の王子懐良親王を奉じ 宮方4万の菊池勢をもって6万の武家方軍勢を筑後川大原野に撃破
以後菊池の地は十数年余九州の政治文化の中枢となる
幕末の詩人頼山陽はその漢詩に叙す 「七道望風助豺狼 勤皇諸将前後歿 西陲僅存臣武光」 と
爾来六百有余年星霜移り人替わるとも希代の名将 菊池武光公 今ここにその勇姿を再現して建つ
平成4年3月
第11代 菊池市長 荒木 修
制作 日本芸術院会員 中村晋也
【菊池一族】
菊池氏は、後三条天皇の延久2年(1070)に、大夫将監藤原則隆公が肥後の国菊池に下向し、居を菊池川の畔深川の地にかまえ地名をとって菊池姓を名乗ってから、歴世24代5百年になんなんとする長い時代にわたって栄えた名門で、伝家純忠の精神を一貫し、一門の心血を注いで壮美極まりない歴史絵巻を繰りひろげた。
初代 | 則隆公 | 13代 | 武重公 |
2代 | 経隆公 | 14代 | 武士たけひと公 |
3代 | 経頼公 | 15代 | 武光公 |
4代 | 経宗公 | 16代 | 武政公 |
5代 | 経直公 | 17代 | 武朝公 |
6代 | 隆直公 | 18代 | 兼朝公 |
7代 | 隆定公 | 19代 | 持朝公 |
8代 | 能隆公 | 20代 | 為邦公 |
9代 | 隆泰公 | 21代 | 重朝公 |
10代 | 武房公 | 22代 | 能運よしゆき公 |
11代 | 時隆公 | 23代 | 政隆公 |
12代 | 武時公 | 24代 | 武包たけかね公 |
ここに肥後における菊池の正統は絶え、初代則隆公が延久2年下向してより463年。
菊池氏24代を算う。
(『菊池神社 参拝のしおり・歴史館ご案内』より)
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歴史館 (熊本県菊池市・菊池神社) (平成23年2月7日) |
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菊池神社 (熊本県菊池市隈府1257) (平成23年2月7日) |
菊池神社
明治3年4月御鎮座、吉野朝に忠誠を尽くした菊池武時・武重・武光父子三公を主神に、菊池一族の殉国戦没の将士を祀ってあり、歴史館には、歴史を物語る古文書、家憲、千本槍、画像、能衣装、能面など数多く展示されています。
例年10月13日から15日まで秋季大祭があり、その初日13日には御松囃子御能(国指定重要無形民俗文化財)が征西将軍の宮お手植えと伝える将軍木前において奉納されます。
熊本県
(説明板より)
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