桐野利秋 きりの・としあき

天保9年(1838年)12月〜明治10年(1877年)9月24日


鹿児島藩郷士の子。
はじめ中村半次郎と称した。
文久2年(1862年)入京し、以後志士と交わる。
戊辰戦争で活躍。
明治4年(1871年)御親兵に加わり陸軍少将。
熊本鎮台司令長官・陸軍裁判所所長になるが、明治6年の政変に際し西郷隆盛に従い下野。
鹿児島に帰り篠原国幹らと私学校を設立し士族教育を行う。
西南戦争では西郷軍の4番大隊長、のちに総指揮官として戦争指導にあたったが、戦死。


桐野利秋の墓



桐野利秋の墓
(鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)

桐野 利秋

無類の豪胆。
勤皇の志士として活躍し、“中村半次郎”の名で有名。
戊辰の役に功あり。
明治4年陸軍少将6年には辞職し帰鹿。
西南の役では、薩軍総指揮官。
明治10年9月24日岩崎谷で戦死。
享年40歳。

(説明板より)

南州墓地


南州墓地
(鹿児島市・南州公園内)

1877年(明治10)の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ、2023名の将士が眠っています。



(平成19年3月30日)

【シベリア遠征の放言】

廃藩置県、徴兵令、身分制整理と、改革が進むにつれて、没落した士族の反政府熱が激しくなった。
参議西郷隆盛、副島種臣らは、ひとつには、士族の失業問題を解決し、また朝鮮を勢力範囲に入れてロシアに対抗するため、征韓論を打ち出した。
北辺におけるロシアの進出には大きな脅威を感じており、外交方針としては欧米に追随するだけだったが、一方で、日本の独立を守るために朝鮮や清国とともに、共同防衛の体制を作るべきであるという主張もなされていた。

西郷などは、シベリア遠征をさえ考え、そのため部下のものを奉天(瀋陽)に送って、ロシアの備えを調査させている。
西郷系の桐野利秋(陸軍少将)などは、「なあに、ロシアの軍備は大したことはない。1個大隊あれば、ペテルブルグまで攻め入ることができる」と豪語していた。
ところが、実際には、桐野をはじめ、誰一人、シベリアの事情を知っているものはいなかった。
シベリアにまだ鉄道が開通していないことが分かっていた程度である。
鉄道がない以上、軍隊はいない、従ってシベリア遠征は簡単であるというのが、桐野の放言の根拠であった。
しかし、征韓論は欧米視察旅行から帰ってきた岩倉具視、大久保利通木戸孝允らの反対によって敗れてしまった。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 大月書店 1978年5月第1刷発行)

(令和元年10月18日 追記)


【桐野利秋】

昔、西郷隆盛の部下で桐野利秋という人がいた。
幕末の頃には、薩摩藩の志士・中村半次郎として西郷の手足となって働いた。
維新後、陸軍少将に任ぜられた。
明治6年、西郷は征韓論に破れ、官を辞し郷里の鹿児島に引きこもった。
西郷に私淑する鹿児島出身の軍人は、続々とこれに従ったのであるが、桐野が東京を去るに際し、妻女との別れ振りが面白い。
妻女といっても、東京で官についてから得た女で、正式の妻ではなかったらしいが、それでも数年間連れ添った女房である。
役所から馬に乗って家の前まで来て、乗馬のまま妻女を呼び出し、「俺おいや、今から鹿児島に罷まかンそ、達者で暮シ」と言い、金と短刀を与えて、後も見ずに駆け去ったという。

(参考:田中賢一著 『帰らぬ空挺部隊』 昭和51年10月 原書房 発行)

(平成30年12月18日追記)


西南の役  戊辰戦争



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