平成16年11月21日
慶応3年7月4日(1867年8月3日)~昭和8年(1933年)10月29日
島根県松江市・島根県庁前の公園でお会いしました。
明治22年(1889年)東京帝国大学法科大学を卒業し弁護士となる。
民事訴訟については当代の第一人者といわれ、たびたび東京弁護士会会長にあげられた。
大正10年(1921年)嘉納治五郎のあとをうけて大日本体育協会第2代会長となる。
第8回オリンピック(パリ)日本選手団団長、国際オリンピック委員会(IOC)委員になるなど、日本スポーツ界の発展に尽力し、また世界のスポーツ界に「ドクトル岸」の名をうたわれた。
(平成18年1月27日改訂)
岸清一先生像 (島根県庁前) (平成16年11月21日) |
説明板より
岸清一先生は、慶応3年7月4日、松江市雑賀町で出生されました。
明治、大正、昭和にわたり、わが国法曹界の第一人者として活躍される一方、日本体育協会会長、国際オリンピック委員会委員として、日本スポーツ界の育成と、その国際的地位の向上に半生を捧げられ、「近代スポーツの父」として敬慕されています。
先生は、スポーツ振興等のためにしばしば巨額の浄財を投じられましたが、日本スポーツ界の拠点とも言える、現在の「岸記念体育館」も先生の遺志によって建設されたことは、私たちのよく知るところです。
また、愛郷心豊かな先生は育英事業をはじめとして、郷土のために数々の功績を残されました。
こうした岸清一先生の偉業をたたえるとともに、遺徳を末長く後世に伝えるため、この銅像が建てられました。
碑文
わが国法曹界の権威国民体育競技界の育ての親として、また郷土育英事業の先達として日本近代化に大きい足跡を残された岸清一先生の銅像は、昭和10年ここに建設されて県民敬慕の的であったが、太平洋戦争に供出されて空しく台座をとどめ、その再建は私ども宿願であった。
時あたかもオリンピック東京大会開催の年ここに有志の熱意を結集してこれを復元し松江城下に再び先生の温容を仰ぐことは誠に慶びにたえない。
先生の偉績徳風が永く郷党に薫化を及ぼされるよう祈って再建の辞とする。
昭和39年9月
島根県知事 田部長右衛門
銅像台座の銘板
題額 枢密院顧問官 正三位勲一等 元田肇
設計・製作 帝国美術院会員 内藤伸
昭和10年10月建設
発起者 東京出雲学生会 東京島根県協会 松江市
平成16年11月21日
島根県松江市・松江郷土館(興雲閣)内でお会いしました。
岸清一博士胸像
岸記念体育館前銅像の原型
昭和39年 西田明史 作
興雲閣 |
平成18年1月24日
東京都渋谷区神南1丁目・岸記念体育館前でお会いしました。
「岸清一先生」の像 (東京都渋谷区神南1丁目・岸記念体育館前) (平成18年1月24日) |
碑文
岸清一先生は、本会創立者 嘉納治五郎初代会長の後を承け、二代目会長として、半生をわが国のスポーツ発展に捧げられ、偉大な業績をのこし、今日の基礎を確立した。
岸先生の遺志による寄附金をもって、昭和16年お茶の水駅前の、狂歌で名高い蜀山人終焉の地跡に、九千五百六十平方米の土地を求め、本会と傘下各競技団体の総合事務所として、「岸記念体育会館」を建設し、今日まで、わが国アマチュアスポーツの大本山として、重要な役割を果たして来た。
岸先生は、オリンピック東京大会招致が実現した暁には、大会運営の総本部を本会の事務所と同じ建物のうちに置くことを念願とされていたので、オリンピック東京大会の開催を機に、岸先生の遺志を体し、本会運営の利便をはかるため、由緒あるお茶の水の「岸記念体育会館」とその土地を二十五億円で売却して、東京大会の中心となるこの地に四千二百平方米余の土地を求め、新「岸記念体育会館」を建設した。
残余の十億円は、本会の基本金百万円に加え、これを十億百万円とした。
日本アマチュアスポーツ育ての親、岸先生の偉業を偲び、新「岸記念体育会館」の落成に際し、この像を建立する。
昭和39年7月10日
財団法人 日本体育協会
岸記念体育館 (東京都渋谷区神南1丁目) この建物の地下に(財)日本体育協会資料室があり、岸清一氏に関する図書資料もあります。 一般の方も利用できます。 (平成18年1月24日) |
資料室利用案内
(財)日本体育協会資料室では日本体育協会史をはじめ、スポーツ・体育関係図書、第1回国民体育大会より現在までの大会報告書や各競技団体の機関紙・出版物、各都道府県体育協会史等の書籍類を保管しております。
また、第18回オリンピック東京大会など過去のオリンピック大会、ユニバーシアード大会の報告書や関連する国際書類も所蔵しています。
本会では、これらの関係出版物。書籍類をスポーツ愛好者や一般の方々に利用して頂くために下記の通り閲覧日を設けて公開しております。
年表
慶応3年 | 1867年 | 1歳 | 7月4日、松江雑賀町に生れる。 |
明治6年 | 1873年 | 7歳 | 松江雑賀小学校に入学。 |
明治12年 | 1879年 | 13歳 | 松江雑賀小学校卒業。 松江中学校入学。(当時4学年制) |
明治16年 | 1883年 | 17歳 | 松江中学校卒業後、東京遊学の途に上る。 |
明治17年 | 1884年 | 18歳 | 1月、東京大学予備門補欠募集の際、第2級2学期に入学。 |
明治18年 | 1885年 | 19歳 | 大学予備門卒業。 東京帝国大学法科入学。(当時4学年制) |
明治22年 | 1889年 | 23歳 | 7月10日、帝国大学法科大学英法科卒業。 7月15日、代言人の免許を受け事務所を東京市京橋区加賀町1番地に設置。 |
明治26年 | 1893年 | 27歳 | 弁護士法制定と同時に東京地方裁判所所属弁護士として登録を受ける。 |
明治27年 | 1894年 | 28歳 | 1月12日、父・伴平、逝去。 |
明治30年 | 1897年 | 31歳 | 2月、法律事務所取調べのため英米両国へ渡航。 |
明治31年 | 1898年 | 32歳 | 4月、欧米視察を終えて帰国。 6月15日、坂井澄子と結婚。 |
明治32年 | 1899年 | 33歳 | 9月18日、長男・偉一、誕生。 |
明治34年 | 1901年 | 35歳 | 10月27日、島根県法政会副会長推薦。 事務所を京橋区宗十郎町一番地に移転。 |
明治37年 | 1904年 | 38歳 | 2月、法律上の用務ならびに視察のため米国へ渡航。 |
明治40年 | 1907年 | 41歳 | 11月2日、島根県協会(島根県法政会の改称)副会長に就任。 |
明治41年 | 1908年 | 42歳 | 法律上の用務ならびに視察のため英国へ渡航。 |
明治43年 | 1910年 | 44歳 | 10月25日、博士会の推薦により法学博士の学位授与。 |
明治44年 | 1911年 | 45歳 | 4月6日、母堂逝去。 大日本体育協会創立、その維持会員に就任。 |
大正元年 | 1912年 | 46歳 | 法律取調委員任命。 |
大正4年 | 1915年 | 49歳 | 5月26日、東京弁護士会会長就任。 |
大正5年 | 1916年 | 50歳 | 法律上の用務のため米国へ渡航。 |
大正6年 | 1917年 | 51歳 | 5月、極東体育協会第2副会長に推薦。 同、東京芝浦にて開催の第3回極東選手権大会競技委員となる。 |
大正8年 | 1919年 | 53歳 | 9月29日、法律取調委員の職に尽力したことに対し銀杯一個下賜。 岸育英事業創設。 |
大正9年 | 1920年 | 54歳 | 6月1日、日本漕艇協会創立。同時に会長に就任。 |
大正10年 | 1921年 | 55歳 | 3月、大日本体育協会会長就任。 5月、上海にて開催の第5回極東選手権大会に日本選手を率いて出場。 同、極東体育協会第1副会長に就任。 6月、日本漕艇協会会長を辞任、顧問となる。 |
大正12年 | 1923年 | 57歳 | 5月、大阪開催の第6回極東選手権大会を極東体育協会会長として主宰。 9月10日、事務所を麹町丸の内海上ビルディングに移転。 |
大正13年 | 1924年 | 58歳 | 3月、紺綬褒章を授けられる。 7月、パリで開催の第8回国際オリンピック大会に日本選手を統率して出場。 国際陸上競技連盟、大日本』体育協会加盟に当り尽力。 国際オリンピック委員会委員会委員に推薦を受ける。 |
大正14年 | 1925年 | 59歳 | 5月、極東体育協会名誉会長に就任。 マニラ開催の第7回極東選手権大会に日本代表として選手を率いて出場。 |
昭和2年 | 1927年 | 61歳 | 出雲育英塾理事長に就任。 3月、第1東京弁護士会会長に就任。 9月、大日本体育協会の財団法人化に尽力。 |
昭和3年 | 1928年 | 62歳 | 4月1日、事務所を麹町区丸の内2丁目八重洲ビルディングに移転。 8月、アムステルダム第9回国際オリンピック大会に選手を率いて出場。 国際オリンピック委員会に出席。 |
昭和4年 | 1929年 | 63歳 | 2月、体育界における功労に対して金杯1個を下賜される。 10月、法制審議会委員。 12月、体育運動審議会委員。 |
昭和5年 | 1930年 | 64歳 | 5月、極東体育協会会長として東京開催第9回極東選手権大会を主宰。 |
昭和7年 | 1932年 | 66歳 | 3月15日、貴族院議員に勅選。 7月、ロサンゼルス開催第10回国際オリンピック大会に選手を率いて出場。 |
昭和8年 | 1933年 | 67歳 | 10月29日午前8時15分、、東京市芝区伊皿子町の自邸で逝去。 急性のぜんそくの発作。最期の言葉は「参った・・・」 満州事変の功により金杯1個下賜される。 11月1日、青山斎場にて告別式挙行。 |
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