大阪府岸和田市岸城9番1号
平成19年4月14日
岸和田城のあゆみ
建武年間(1334〜36)頃、楠木正成の代官として当地に来た和田高家が、今の野田町あたりに築いたのが岸和田城のはじまりといわれています。
その後、和泉守護細川氏や守護代松浦氏などが居城とし、その間に現在地に移されましたが、そのころはまだ天守閣もなく、館の周囲に塀や土塁をめぐらせた程度の城館であったようです。
天正13年(1585)年、豊臣秀吉は叔父の小出秀政を岸和田城主とし、秀政は城郭整備にかかり、天守閣もこの時に築かれました。
豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏三代を経て、寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めました。
この間、文政10(1827)年、落雷によって天守閣は焼失し、以後長らく再建されませんでしたが、昭和29年、鉄筋コンクリート造りで三層の天守閣が再建され、また昭和44年には城壁と櫓が再建されました。
(『岸和田城』チラシより)
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江戸時代の岸和田城絵図
現在の天守閣は三層ですが、本来は五層の天守閣でした。
それは、幕府に提出した城郭普請絵図に描かれている天守閣が、すべて五層であることからも明らかです。
特に、正保2年(1645)に作られた絵図には、熊本城や松本城のように、天守閣の壁に立派な腰板が張られている姿が描かれています。
また、天守台の大きさは、南北10間5寸(約18.3メートル)、東西9間6寸(約18.1メートル)。
面積は102坪(約336平方メートル)で、岡山城(池田氏31万5千2百石)が112坪であるのと比較すると、30万石級の大名の天守閣だったことがうかがえます。
(『岸和田城いまむかし』パンフレットより)
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岸和田城址碑 (平成19年4月14日) |
碑文
謹按建武中興楠公正成為和泉河内両國守護使族和田高家城于和泉岸村岸和田之稱始於是時云永禄中三好實休■此豊臣氏時小出秀政為城主元和五年松平康重居此寛永十七年我藩祖岡部可堅公諱宣勝實封于此大修城池爾来■承歴十三世至今敬堂公長職明治四年朝制廢藩置縣公遂移住東京焉回顧追思■■方其城池未廢也層樓傑閣聳于天半■■壘壁映帯助勢上田堤線亘西南海岸泉光両寺對峙東南皆可堅公所■■山踞岡隠然類障堡西有潮入門石堤壮宏堅牢名為防潮其實以備海寇也而北則僅■以隍塹而己聞之故光曰徳川南龍公頼宣封于紀也以幕府親藩占山河形勝幕府■其或挟異圖窺上國故以我可堅公當其衝路此所以巌備于西南一帶而略北方也夫紀大藩南龍雄主而以我公當之則公之英武絶倫可知矣加之二百餘年賢公明辟前後輩出治法得宜風化斯行則士■之涵濡■仁厚澤果何如哉抑廢藩之擧雖云時勢所致及■其城池之壮麗者寧無今昔之感乎及胥議樹一大碑表城址亦致甘■追慕之情耳若夫眺續矚之■東真掬金剛山翠西■茅■波光■之阿山淡島摩耶六甲等諸勝苟来此者皆能知之故不詳叙獨記我輩所■聞而後人■及知之者以告後人云
大正六年一月
正五位勲五等■臣土屋弘謹撰
※ ■は判読不可及びパソコン上で表示不可の文字
1334年 | 建武元年 | 楠木正成の一族和田高家が、照日山(野田町)に城を築くという。 |
1408年 | 応永15年 | 細川頼長、和泉半国守護に任じられ、岸和田城を居城とする。 |
1583年 | 天正11年 | 羽柴秀吉、根来・雑賀勢への押さえとして、家臣中村一氏を岸和田城主とする。 |
1584年 | 天正12年 | 根来・雑賀衆、岸和田城を攻撃する。 |
1585年 | 天正13年 | 秀吉、根来・雑賀攻めのため、岸和田城へ入る。 泉南の根来寺出城を落とし、根来寺を焼く。 戦後、中村一氏を近江水口へ移し、小出秀政を城主とする。(4千石) |
1587年 | 天正15年 | 秀政、6千石加増。(1万石) 城郭整備にかかる。 竣工は1598年(慶長3年)か? |
1595年 | 文禄 4年 | 秀政、2万石加増。(3万石) 天守閣造営着工。 竣工は1597年。 |
1619年 | 元和 5年 | 小出吉英、但馬出石に転封。 丹波篠山より松平(松井)康重入封。(5万石) 幕府から石垣奉行三好長直派遣され、城下の海岸部に防潮石垣を築く。 |
1623年 | 元和 9年 | 伏見城より移築された伏見櫓が二の丸に築かれる。 |
1631年 | 寛永 8年 | 松平康重、領地はそのままで1万石の増高を願い出て許される。(6万石) |
1640年 | 寛永17年 | 松平康映、播磨山崎に転封。 摂津高槻より岡部宣勝入封。(6万石) |
1661年 | 寛文元年 | 岡部行隆、襲封にあたり弟2人に7千石を分知。 以後、岸和田藩は5万3千石で明治に至る。 |
1827年 | 文政10年 | 天守閣、落雷により焼失。 |
1869年 | 明治 2年 | 版籍奉還・岡部長職、岸和田藩知事となる。 |
1871年 | 明治 4年 | 廃藩置県。 岡部長職、東京に移住し、岡部氏13代にわたる治世終わる。 |
1943年 | 昭和18年 | 岸和田城跡、大阪府史跡に指定。 |
1954年 | 昭和29年 | 天守閣復興。 |
1969年 | 昭和44年 | 城門・櫓復興。 |
1970年 | 昭和45年 | 櫓を岸和田市立郷土資料館として開館。 |
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岡部氏紀念碑 (平成19年4月14日) |
岸和田藩主になるまでの岡部氏 |
岡部家は、もと駿河国の岡部郷(今の静岡県志太郡岡部町付近)を本拠とした武士で、鎌倉時代には幕府に仕える御家人でした。
戦国時代には今川家の家臣で、桶狭間の合戦で主君今川義元が織田信長軍に討たれた後、岡部元信という一族の武士が今川方の城を最後まで守り、主君の首と引き換えに城を明け渡したと伝えられています。
今川家衰退後、岡部正綱は武田信玄・勝頼に仕え、武田家滅亡後、徳川家康の家臣となりました。
正綱の後家督を継いだ長盛は下総国山崎(千葉県野田市)・丹波国亀山(京都府亀岡市)・福知山(京都府福知山市)・美濃国大垣(岐阜県大垣市)城主を歴任し、岡部氏は譜代大名としての地位を確立しました。
岡部氏以前の岸和田藩 |
岸和田城は羽柴秀吉による根来寺討滅以後、秀吉の叔父である小出秀政が城主となり、天守閣を築くなど近世城郭として整備しました。
小出氏は秀政・吉政・吉英3代が岸和田城主となり、大坂の陣でも徳川方につきましたが、岸和田の重要性から外様大名である小出氏にかわって譜代大名の松平(松井)氏が入城しました。
松平氏は初め5万石で入封しましたが、のちに領地はそのままで6万石とされました。
松平氏の時代に城下町と浜町の境界に防潮石垣が築かれ、今の本町付近を中心に城下町が整備されました。
岸和田藩主としての岡部氏の役割 |
岡部長盛の子宣勝は大垣藩主・播磨国竜野(兵庫県竜野市)・摂津国高槻(高槻市)藩主を経て、寛永17(1640)年岸和田藩主となりました。
以後、明治4(1871)年の廃藩置県によって東京に移住するまで13代約230年の間、岡部氏が岸和田藩を治めました。
岸和田藩の石高ははじめ6万石でしたが、宣勝から行隆への相続の際に行隆の弟2人に計7千石を分け、5万3千石となりました。
岸和田は、“天下の台所”大坂に近く、大坂湾岸の南の防衛線として非常に重要な地でした。
岡部宣勝が岸和田藩主に任命されたのは紀州藩の動向を監視するためとも伝えられていますが、岸和田城の城構えからみて、むしろ大坂側の守備に重点をおいていたことがうかがえます。
尼崎藩とともに岸和田藩は大坂防衛の役目を担っており、参勤交代でも岸和田藩主と尼崎藩主がともに国元に不在にならないように配慮されていました。
岡部家の歴代藩主たち |
@岡部宣勝のぶかつ(1597〜1668)(在職1640〜1661)
寛永17(1640)年、摂津高槻から岸和田藩主として入城。
寛文元(1661)年に隠居後、土生山下の隠居所に移り、彼の死後、隠居所は泉光寺とされ、以後、岡部家菩提寺となった。
A岡部行隆ゆきたか(1617〜1687)(在職1661〜1686)
寛文元(1661)年藩主相続にあたって、弟高成に5千石、豊明に2千石を分知し、以後岸和田藩の石高は5万3千石となった。
全国で2番目の藩札を発行し、藩財政の確立に努めた。
B岡部長泰ながやす(1650〜1724)(在職1686〜1721)
元禄16(1703)年に伏見より稲荷社を三の丸に勧請し、そのころよりだんじり祭りが始まったといわれている。
在任中は河内金剛寺など寺社修築・大和川つけかえ・朝鮮通信使接待役などを勤めた。
C岡部長敬ながたか(1679〜1724)(在職1721〜1724)
藩主就任の翌年、家臣の軍事動員の基準を示した「享保備定」を制定。
新陰流の免状を藩士に与えるなど剣術に通じ、また学問を好み、絵画も巧みであった。
D岡部長著ながあきら(1708〜1756)(在職1724〜1756)
前藩主の急逝により、17歳にして藩主に就任。
文武に通じ、特に能と絵画をよくした。
元文4(1738)年には岡部氏の岸和田入城100年を記念して葛城山で大規模な鹿狩を催し、以後、50年ごとに開催されるようになった。
E岡部長住ながすみ(1740〜1809)(在職1756〜1772)
17歳で藩主に就任したが、生来病弱で、33歳で隠退している。
この間、明和元(1764)年には朝鮮通信使接待役を勤めた。
F岡部長修ながなお(1746〜1795)(在職1772〜1776)
明和9(1772)年藩主に就任し、孝行・勤農・倹約を説いた「明和の三か条」を領内に触れた。
病弱で在任わずか5年、31歳で隠退した。
G岡部長備ながとも(1760〜1803)(在職1776〜1803)
天明7(1787)年老中田沼意次の失脚にともない、田沼の居城遠州相良城の受取役を勤めた。
享和3(1803)年に嫡子長周が急逝し、同年、その跡を追うように42歳で没した。
H岡部長慎ながちか(1787〜1858)(在職1803〜1833)
藩財政が窮迫し、新税の施行や、大坂町人の財政再建の専門家を雇用するなど藩財政の再建に努めた。
引退後は『本草綱目啓蒙』の刊行や藩校の設立など文教政策に尽力した。
I岡部長和ながより(1805〜1850)(在職1833〜1850)
天保8(1837)年大塩の乱に出兵。
藩主在任中は、前藩主長慎が健在で上記文教政策を進めた。
J岡部長発ながゆき(1834〜1855)(在職1850〜1855)
嘉永4(1851)年相馬九方を招き藩校講習館を設立。
安政元(1854)年にロシア艦が大坂湾に停泊し、沿岸防備を固めたが、翌年、22歳の若さで急逝した。
K岡部長寛ながひろ(1806〜1887)(在職1855〜1868)
岡部庶家の養子となっていたが、前藩主の急逝によって本家に戻り藩主に就任した。
慶応元(1865)年藩校講習館を武術鍛錬場もかねた修武館とし、その後、明治維新を迎えた。
L岡部長職ながもと(1854〜1923)(在職1868〜1871)
藩主就任にあたって、前藩主長寛の子長美を立てる一派と、長職を推す一派に藩内が分裂、いわゆる岸和田騒動がおこった。
最後の岸和田藩主であり、版籍奉還後、岸和田県知事となるが、明治4(1871)年廃藩置県によって東京移住となった。
その後、外務次官・貴族院議員・東京府知事などを経て、明治41年には第2次桂内閣の司法大臣を勤めるなど明治政府の要職を歴任した。
(『常設展「岸和田城と岡部家」』パンフレットより)
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櫓門と多門櫓 (平成19年4月14日) |
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二の丸跡 (平成19年4月14日) |
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二の丸多門櫓(公衆トイレ) (平成19年4月14日) |
休館日と入場料のご案内
開館時間:午前10:00〜午後5:00(入館は4:00まで)
休館日
毎週月曜日
月曜日が祝休日の場合、及びお城まつり期間中(4月1日〜15日)開館します。
年末年始(12月30日〜1月4日)
入場料:大人 300円
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泉州岸和田岡部家墓所 (和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院) (平成21年4月9日) |
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